噓と劇薬
それはまるで、スローモーションのようだった。
だがしかし、それでいてあっという間でもあった。
男が呆然と尻餅をついている中、女が宙に覆いかぶさるように襲い掛かる。豹変した女の力は人間離れしており、呪術師として訓練を受けている宙でもそう簡単にいかないようだった。女が今にも食い殺さんとばかりに大きくあけた口に、宙が左腕を噛ませることで止めているが、それも時間の問題だろう。
「夏油くん!」
「っああ!」
宙の呼びかけにようやく我に返った私は術式を発動させ、呼び出した呪霊を使って宙から女を引き剥がした。なおも暴れる女を呪霊を駆使してなんとか拘束する。術式によって能力が底上げされているのか、一般人とは思えないほどの力の強さだ。その際、身を起こした宙が腰につけていたウエストポーチから取り出した呪符を額に貼りつける。女は一瞬目を見開き、先ほどまでのやりとりが嘘のようにおとなしくなった。糸が切れた操り人形のようにだらりと手足を投げ出すその様子に、私はようやく息を吐く。続いて彼女の元へ向かった。
「宙、大丈夫かい!?」
女に噛ませていた左腕を見ると、制服が破けて所々血が滲んでいる。それを見て心臓が握りつぶされそうな心地がした。私がついていながら彼女に怪我を負わせてしまうなんて。自責の念に駆られていると宙は軽く首を振る。
「私は大丈夫だよ。それよりも……」
ちらりと視線をやる。その視線の先には座り込んだままの男が、呆然と女の方を見つめている。
「なんで、どうして、こんな……」
怪我はありませんかと宙が声を掛けるが、酷く取り乱しているようでそれどころじゃなさそうだ。女の方の様子も気になるし、ひとまず彼らの保護が優先だろう。私は素早く補助監督へ連絡をとり、そのまま病院へ連れていくことになった。
向かったのは都内のとある病院だ。呪術高専とつながりがあり呪いに関して理解があるため、そういった被害者の多くが担ぎ込まれる病院である。一通り医者に診てもらったところ、男と宙は問題ないが女はどうやら手遅れだろうという見立てだった。宙の呪符で一時的に落ち着いているが、その場しのぎであり根本的な解決にはならないだろう。そう告げる医者の表情にはどうしようもないやりきれなさが滲んでいる。
「そんな」
言葉を失う宙。包帯の巻かれた左腕に触れながら、痛々しいものを見るように顔をくしゃりと歪ませる。そんな顔をする彼女を見ていられなくて、私は声を掛ける。
「気に病むことはないよ。私達はやれることをやった」
「……うん。そう、だね」
病院から帰る際に、女が寝かされている病室を通りかかった。白いベッドに寝かされている女の顔は一見穏やかだが、私達は彼女がこれからどうなるかを知っている。呼び出された家族に事実を告げられ、その上で選択を迫るのだ。どういう最期を迎えたいかと。ベッドの傍にはあの男もいるようで、椅子に腰かけたままぼんやりとした顔で彼女の手を握っていた。
ふと顔を上げた男と目が合う。私達はそのまま立ち去ろうとしたが、男は血相を変えて勢いよく立ち上がった。座っていたパイプ椅子が倒れてけたたましい音を立てるのも構わず、こちらに駆け寄る。
「お前らの所為だ!!」
開口一番、誰もが振り返るような大声で叫ぶ。私達は咄嗟に足を止め、改めて男の顔を見た。目は血走り、それでいてギラギラとした光を放っている。たったの数時間前、初めて会った時よりも疲労が色濃く刻まれているように感じた。何の騒ぎかと周りの人たちも遠巻きに私達のことをチラチラと見ている。
「お前らがもっと早く来ていれば! 彼女はこんなことにならなかった!」
唾が飛ぶのも構わず、男は大声を張り上げる。その言葉に彼女の表情がわずかに歪んだのがわかった。ぐっと、包帯が巻かれた左腕に力がこもる。
「全部、っ全部お前らの……!」
流石の私も、これ以上は黙っていられなかった。こちらだって精一杯のことはした。助けられなかったことを悔いこそすれ、そちらにそこまで言われる筋合いは無い。ましてや怪我を負ってまで貴方を助けた彼女に、その言い草は無いだろう。私は少々苛立ちながら一歩前に踏み出すと、男を見おろしながら口を開く。
「失礼ですが――」
「申し訳ありませんでした」
だが私がすべて言い切るよりも前に、宙が言葉を発した。反射的に彼女の方へ顔を向けると、深々と頭を下げているのが目に入った。少々戸惑いながら、私は彼女に声を掛ける。
「宙、」
「すべて、私の責任です」
今にも消えてしまいそうな声だった。その様子に流石の男も面食らったようで、これ以上激しく追及することはなかった。「申し訳ありませんでした」もう一度彼女が繰り返す。その後、騒ぎを聞きつけた補助監督が私達を連れ戻しに来るまで何を言われようと黙って頭を下げ続けていた。
高専に向かう帰り道の車内で、私は隣に座った彼女に言う。
「言い返しても良かったんだよ」
思ったより不機嫌そうな声色になってしまった。けれど宙は対して気にも留めていない様子である。私は先ほどの男を思い出し、眉間に皺を寄せる。
「どう考えても言いがかりだろう、あんなの」
「いいの。あの人には怒る権利があるんだし」
それに、と言葉を切る。
「……本当の事だから」
宙はそう言って寂しそうに笑う。……こんな笑顔なんて、見たくもなかった。
それからしばらく、私と宙は顔を合わせなかった。
それは互いの任務予定が合わずにいたせいだと思っていたけれど、どうやらそれだけではないようだ。というのもここのところ、彼女が登校してくる頻度が減っているのだ。来たとしても午後から遅れてやって来たり、午前だけ受けて早退してしまったり。1日滞在していることがほとんどない。今までそんなことはなかったのに。
何か知ってるかと悟と硝子に尋ねたけれどふたりとも口をそろえて「知らない」の一点張り。嘘だと、直感的に思った。悟はともかく硝子まで知らないなんてことがあり得るのだろうか。寮でも隣部屋でよく一緒に遊びに行くほど信頼を置いている硝子に、彼女が何も話していないなんて。
どんなに些細な事でもいいから教えてくれと粘ったところ、めんどくさそうに硝子が言った。
「それなら直接本人に訊けばいいだろ」
***
「私に何か隠してることはないかい」
体術の授業の合間。体調が悪いからと見学している宙を捕まえて、全員分の飲み物を一緒に買いに行こうという口実でふたりきりになる時間を作った私は、早速聞きたくてたまらなかった疑問を彼女にぶつけた。私から訊かれることを想定していたのか、飲み物を抱えた彼女はきょとんとした顔でこちらを見上げている。
「なんのこと?」
「しらばっくれても無駄だよ。硝子から話は聞いてるからね」
嘘だ。私は何も聞いていない。
完全なる鎌かけではあったが、明らかに彼女の顔が曇るのがわかった。もう一押しかと、私は彼女の顔を覗き込む。
「宙。私は心配してるんだよ。頼むから君の口から教えてくれないか。君が隠していることを」
私がそう言えば、彼女は少しの間逡巡した後、顔を逸らして小さくため息をついた。観念したように着ていたジャージの左袖に手を掛け、そっとまくる。
そこには包帯を巻いた上からいくつもの呪符が貼り付けられていた。
それでも隠しきれない程、肌には痛々しい痣のような黒い模様が見え隠れしているのがわかる。
「こ、れは」
「あの時はなんともなかったんだけど。しばらくしたらこうなってて、左手の指先の感覚が鈍くなってたの」
あの時とは訊かなくても分かる。この間の任務のことだ。
「医者には見せたのかい」
「見せたよ。でも、呪霊の術式だろうってことしかわかんなかった」
だから呪符で進みを遅らせるしかなくて、と彼女は続けた。彼女に貼られたいくつも呪符のひとつにそっと指を滑らせる。彼女の術式によって作られたそれは、かさついた紙の感触がした。
「これ、悟の術式の?」
「うん。これが一番進まなくなるから、五条くんに言っていくつか作ってもらったの」
「でも君、前に悟の呪符は身体に負担がかかるって……」
そこで私は言葉を切った。あることに気付いてしまったからだ。
「ちょっと待って。悟と硝子が知ってるってことは、何も知らないのは私だけだったってこと?」
「……ごめん」
目を伏せた彼女が謝罪の言葉をつぶやいた。肯定といって違いないそれに、私は少し寂しい気持ちになる。それを見た宙が慌てて理由を口にした。
「その……夏油くんは優しいから、絶対心配かけちゃうと思って」
「気持ちはわかるし気遣いは嬉しいけど。私としては早く言って欲しかったな。仲間外れは流石に、ね」
私がそう言うと彼女はもう一度ごめん、と謝った。違う、そんな顔をさせたいわけじゃないのに。貼られた呪符から指を離せば、彼女はそっと袖を元に戻した。その様子を見て、何度目かの後悔が頭を過る。あの時、私がもっと早くに反応できていればこんなことには。彼女がこんな目に合わなかったのに。
「夏油くんは悪くないよ」
私の考えを見透かしたように宙は言った。
「悪いのは全部、呪霊なんだから」
宙はちょこっと眉を下げてどこか寂しそうに笑う。
そこでふと、あることを思いついた。あるじゃないか、私が彼女のためにできることが。たったひとつ。
「ねえ宙、これは呪霊の術式の所為なんだよね」
「え? うん」
「なら本体を祓えば君は元通りに治るってことだ」
「た、多分そうだと思うけど……でも手掛かりなんて何も」
「大丈夫だよ」
私はそっと彼女の左手を取り、その場に跪いた。普段は大抵下から向けられる彼女の目線が上から降ってくるのが新鮮に思える。
「私が何とかする」
彼女は目を丸くして、私のことを見つめている。その表情は驚きに満ちているけれど、多少の恥ずかしさからか頬が若干赤くなっているのがわかった。
私は彼女を見上げながら、まるで一世一代の告白をするかのように誓う。
「私が責任を持って、君に掛かった呪いを祓うよ」