白鯨に焦がれる

 それからは忙しい日々が始まった。

 一刻も早く彼女の呪いを祓うため、先生に無理を言ってなるべく任務を詰めてもらった。彼女に巣食う呪いを祓うためといっても、やることはほとんど変わらない。いつものように呪霊を降伏させて呪力の核を手に取り、彼女から貰った呪符(彼女が蝕まれている術式と同じものを所持していれば黒く変色するらしい)をかざして確かめる。私はそのたびに緊張するけれど、まだ色が変わったためしは無かった。そのたびに私は絶望するが、こうしてばかりもいられない。さっさと取り込み、次へ向かう。私には……私達には時間がないのだ。

「(待っていてくれ、宙)」

 すべてが終わったら伝えようと思っている言葉を心の支えに、日本中を駆け回る。任務が終わり、寮にいる彼女の顔を見に行くのが一番の楽しみだった。彼女はいつでも私を笑って迎えてくれて、それだけで疲れが吹き飛ぶ心地がした。それくらい彼女は私の中でかけがえのないものだったんだ。
 少しずつ、でも確実に。弱っていく彼女の現状からは目を逸らしていたけれど。

 ある夜。私は今日も彼女の部屋を訪れる。いつもは事前連絡をしてから向かうのだけど、今日はするのを忘れていた。それくらい余裕がなかったのだ。約束なしにいきなり現れた私に彼女も驚いたようで、ノックに応じてドアを開けるなりその大きな目をさらに大きく見開いていた。

「び、っくりした……夏油くん、大丈夫?」
「すまない。今日は何も聞かずに、傍にいてくれないかな」

 なんとか笑顔を顔に浮かべてみる。上手くできている自信は全くと言っていいほどなかった。

「かなり……後味の悪い、任務でね」

 そう言った私の脳裏に、信者共の不気味な笑顔が過る。同じ人間とは思えないような、命を何とも思っていないような、歪な笑顔。宙は少しだけ言葉を詰まらせると、扉を少し開く。

「……わかった。いいよ」

 彼女に言われるがままに部屋へ足を踏み入れる。もう寝ようとしているところだったのか、明かりは消されていた。悪いことをしたなと思いつつ、カーテンの隙間からの月明かりを頼りに中へ進む。

「とりあえず少し休もうよ。ほら、こっち」

 そう言って彼女は自分のベッドに私を招き入れ、壁際に押し込んだ。そしてその隣に自身も身体を滑り込ませる。そして、私の頭をぎゅっと抱えるように抱きしめた。

「お疲れ様、夏油くん」

 いつもありがとう、と彼女が言う。添い寝なんて絶好のシチュエーション、いつもならもう少し胸がときめくのだけれど、今日ばかりはそんな余裕もない。されるがままに、彼女の穏やかで心地良い声に耳を傾ける。瞼は半分落ちかけていた。

「いつも頑張っていて本当に偉いよ」
「うん」
「どんな強い呪霊もすぐ祓っちゃうし」
「……うん」
「私も、夏油くんみたいになれたらいいのに」
「……」
「そうしたら、きっと――」

 私は彼女の言葉を最後まで聞くことなく眠りに落ちていった。ほんの数時間の仮眠のつもりだったがふたりしてそのまま眠ってしまい、次の日部屋にやって来た硝子に見つかり白い目で見られてしまったのは言うまでもない。


***


 季節がいくつか変わっても、彼女を巣食う呪いは祓えなかった。

 もうどれだけ任務に行って呪いを取り込んだか、数えるのもバカバカしくなってくる。どうせこれもハズレなんだろうという諦めが口から零れそうになる度になんとか堪えるギリギリの生活を送っていた。焦れば焦るほど、目標が遠のいていく気がする。

 彼女の容体はといえば、目に見えて悪くなっていった。進行を抑えるのに使っていた呪符に身体が耐えられないという理由で呪符の種類を変えた途端、わかりやすく呪いは進行していった。指先の衰えに始まり、足首、手首と徐々に動かせない部位が増えて。ついに自力で歩くことすら出来なくなり、ここ1ヶ月は身体を起こすのもやっとのようだった。移動や身の回りの世話のために私から呪霊を借りて申し訳なさそうに謝ってくる彼女に気にしなくていいと返したけれど、内心そこまで酷くなっている現状に不甲斐なさを感じていた。

 あの時、もっと私が早く動けていれば。
 あの時、宙がわざわざあの女を庇わなければ。……いや、それよりももっと前。

 ――あいつらが、あんな場所で呪霊になんて襲われなければ。今頃。

 焦りからか、思考がどんどん極端な方向へ進んでいる気がする。そのたびに非術師を守るために呪術師はいるのだと、自身の掲げた信念を繰り返し言い聞かせる。そうだ。彼女もその理想を私らしいと褒めてくれたじゃないか。見失うな。取り違えるな。今私がすべきことはそれじゃないだろうと自身を𠮟りつけ、次の任務へ向かう。
 ……何処だ、何処にいる。あの呪霊は。彼女を開放するための希望の糸口は。

『生まれ変わるなら、鯨がいいなあ』

 最近ずっと眠ってばかりの宙との最後の会話が頭に過る。2週間前の雨の日。薄暗い昼間。湿った空気の匂い。ぼんやりとした光が彼女の瞳の中で揺れるのを、今でも鮮明に思い出せる。

『海の中をね、ゆっくり泳ぐの。自由に。それでね、私はどこへでも行けるの』
『それは気持ちがいいだろうね』
『ねえ夏油くん』

 不意に彼女が私に問いかける。

『"52ヘルツの鯨"って知ってる?』

 え、と素っ頓狂な声が出た。確かに名称としては知っているが、その質問の意図が掴めず私は彼女の名前を呼ぶ。

『……宙?』
『やっぱり何でもない』

 目を伏せてわかりやすく言葉を拒絶する。これ以上私に追及されたくなかったのか、わざとらしく何かを思いついたように彼女は笑った。

『私が死んだら、骨は海に撒いてよ。そうしたら本当に鯨になれる気がする』
『……不謹慎な事言わないでくれよ』

 私は苦笑する。彼女は決してふざけてなどいないと知っていたから。

 そういえばあの時、君は一体どういう気持ちだったのかな。知りたいんだ。呪いが解けたら教えてくれるかい? 
 ……だから起きてよ。宙。


***


「いつものお見舞いか?」

 夜。任務が終わり、いつものように宙の部屋へ赴いた帰りに悟と出くわした。男子寮の談話室の椅子に腰かけ、自販機で買ったのであろうコーラを飲みながら携帯をいじっている。私はなんとなく会話がしたくなって、談話室に足を踏み入れた。

「まあね。相変わらず、眠ってばかりだけど」
「ここんとこ、全然起きねえよなあいつ」
「ああ。……早く起きてくれると、こっちも助かるんだけどな」

 壁にもたれながら苦笑すると、途端に悟の顔が曇る。ぱちん、と携帯を閉じる音がした。

「なあ」
「うん?」
「もうやめろよ、こんなことすんの」

 一瞬、悟が何を言ってるのかわからなかった。

「……何が、」
「どう考えても手遅れだろ。あいつ」

 静かな部屋に、悟の淡々とした声が響いている。

「あそこまで身体が弱ってちゃ、呪いを祓ったところでたいして良くならねよ。お前も分かってんだろ? 今更何やっても止められねえって」
「だから、彼女を諦めろと?」

 私は我慢できずに口を挟んだ。わずかに自身の呼吸が浅くなる。悟はなおも表情を変えない。

「彼女がこのまま死んでいくのを黙って見てろっていうのかい、君は」
「俺だってこんなこと言いたかねえよ」

 ガシガシとめんどくさそうに後頭部を掻いた。サングラス越しの青い瞳がこちらを見ている。

「でもさ、見たらわかんだろ。もう助からねえって」
「君は!」

 その言葉にカッと頭に血が昇るのがわかった。らしくもなく感情が高ぶって、思わず声が震える。

「君は何も知らないから、そんなことが言えるんだ。っ私が、どれだけ、……宙のことを」
「知ってるよ、んなこと」
「……は」
「見てたらわかるし。それに、あいつからよく聞いてたからな」

 思わぬ言葉に私は面食らってしまった。宙が、悟に、私の話を? 震える声で詳細を訊ねる。

「いつ」
「お前、あいつの呪符の術式が前まで誰のだったか忘れたのかよ」

 ふは、と噴き出すように悟は笑った。

「呪符作る時にあいつが話してくれたんだよ。それこそお前が親身になって色々してくれるってな」

 その時の顔がいつも嬉しそうだったのだと、悟は言った。

「あいつ言ってたぜ。『夏油くんに色々やってもらってありがたいけどすごく申し訳ない』って。『私は何も出来ないのに』って」

 そんなことない。君が何も出来ないだなんて、そんなことがあるもんか。
 だって君は、私がこの世界を生きる目的なんだ。原動力なんだ。私がこんなクソみたいな世界で息をしていられるのも、君がいるからなんだ。君がいなければ今頃、私は。私は。

「なあ、もうあいつを楽にしてやらねえか。充分だろ、もう」

 悟の言葉に、私は反射的に答えていた。

「私は認めない」
「お前……」
「誰が何と言おうと、最後の瞬間まで私は諦めないよ」

 悟の目を真っすぐ見据えながらも、私の心は別の物を見ていた。
 きっと訪れるであろう、幸せな未来。彼女が目を覚まして私に笑いかけてくれる、そんな未来を。

「あの子と約束したんだ。必ず呪いを祓うって。宙を救ってみせるって」

 呪霊を祓った時に、宙へ私の気持ちを伝える。そう決めていた。その決意は今も揺らいでいない。そしてこれからも決して、揺らぐことは、ない。

「……傑」
「すまないね、悟。私の我儘だってわかってるけど、やっぱり諦められないんだよ」

 そういえばこうして誰かに言うのは初めてだっけ。
 そう思いながらも、気づけば口に出していた。

「私は宙のことが好きなんだ。心の底からね」

 私の言葉を聞くなり悟はサングラス越しにもわかるほど大きく目を見開いたかと思うと、「……そうかよ」と一言つぶやいた。


***


「……また、これもハズレか」

 黒く淀んだ呪霊の塊を見つめながら独りごちる。呪符を乱暴に剥がして、それを口に含み、無理矢理胃の腑へ押し込んだ。酷い味だ。これだけはどうしたって慣れそうもない。

 どうしてこんなことをしているのか、ふとした瞬間に見失いそうになる。任務に行って祓って取り込んでの、虚しい日々。慕ってくれていた後輩が亡くなって任務に回されることが今まで以上に増えたため、文字通り忙殺されそうな勢いだった。

 気持ちが沈んでいると、彼女の事ばかり考えてしまう。最近では私と笑って話す姿よりも、眠っている姿を思い浮かべることが増えた。それだけ、意識のある彼女と会えていないのだ。
 すっかり目を覚まさなくなって久しい彼女の様子が思い浮かぶたびに、大丈夫だからと自分に言い聞かせる。けれど次の瞬間には悟の言葉が過っていた。『助からない』、『手遅れ』、『諦めろ』……。

「……」

 やめよう。こんなことをしていても、ただ時間が過ぎるだけだ。
 任務を終え疲れ切った身体のまま彼女の部屋へ向かう。最近はノックをしても返事をしてくれることがなかったので勝手に合鍵を使って中に入っていた。扉を開ける。電気はついていなかった。

「ただいま」

 内側から鍵をかけながら、一応習慣にならって帰宅の挨拶を口に出す。まあ今日も変わらず、あの子は寝ているんだろうけど――

「おかえり」

 涼やかな声が自身の鼓膜を揺らす。一瞬、何が起きたのかわからなかった。
 ゆっくりと、確かめるように顔を上げる。

 カーテンの開いた窓の向こうには、まるで絵に描いたような大きな月が昇っている。穴あけパンチでぱちんと切り取ったような、丸い月。開いた窓からは夜風が吹き込んでいて、部屋の中の淀んだ空気がすべて外に吐き出されていく。

 その窓の手前に設置されたベッドに、彼女が腰かけていた。
 下半身は布団の中へ入ったままだが、上半身は壁にもたれかかることなくしっかりと自分の力だけで支えている。瞼は持ち上がっていて、夢にまで見た大きな瞳は私のことをしっかりと見据えていた。その唇には柔らかな笑みを浮かべている。眠っていた間に伸びた髪を夜風に揺らしながら月を背負ってこちらに微笑みかけるその姿は、まるで巨匠が手掛けた名画のようだった。

 ……宙が、目を覚ました。そう認識するのに、かなりの時間がかかった。

「帰って来たところでごめんね、夏油くん」

 すっかり言葉を失う私に、彼女は目を細めながら言う。

「お願いがあるの」