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以前から視線を感じるなとは思っていたのだ。
会社で仕事をしているときや、家に帰る途中の道。家にいる時にも、なんだか居心地が悪いというか、そういった小さな違和感みたいなものが数週間前からずっと自分の周りを付きまとっていた。
もしかしてこれはストーカーなのでは?と思ったのは視線を感じ始めてから実に1ヶ月ほど経った頃。当時の親友に軽い世間話のつもりで話したのがきっかけだった。
「ねえ、それってストーカーなんじゃない?」
「ストーカーねえ」
心配そうに眉を寄せ、周囲に配慮するため――ちょうどこの話をしたのは行きつけのカフェだったのだ――声を潜めながら言う彼女に対し、自分は本当に呑気なものだった。飲んでいたウーロン茶のストローを軽く噛み、ずずっと吸う。
「でもまあ実害も無いしなあ」
「ばっかだなあ! 実害が無いからって油断してたらやられるんだよ!」
ドラマみたいにこう、ぐさーっと! と身振り手振りを付けながらダイナミックに動く彼女を見ても、自分はなかなか実感がわかなかった。やられるって何さ。そんなドラマみたいなこと、そうそうあるわけないじゃん。しかも自分だよ? 特に美人でもなんでもない自分がだよ? ますますありえない。
「とにかく気を付けなよ? 本当に、何かあってからじゃ遅いんだからね?」
「はいはいわかってるって」
「本当かなあ……」
彼女はうーんと頭を抱えていた。
……もしもあの時の彼女の言葉を真剣に聞いていたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。
4月のある夜。自分は人通りの多い町の中心ともいえる通りをひとりふらふらと歩いていた。
何故ふらついていたか? 理由は至って簡単。その日は「ゼロの執行人」公開初日で、朝からずっと映画館にこもって連続執行されていたからである。今日1日だけで実に4回以上は執行されたのだが、何度見ても推しのかっこよさは増すばかりで、もうちょっとどうしたらいいのかわからない。SNSでも上映の合間にずっと初日執行された同志と語り合っていたけれど、それでも語り足りないくらい、推しが最高で最高だったのだ。
「はあ……もう何回執行されても足りない……映画館に住みたい……」
そんなことをブツブツ呟きながら歩く成人女性。流石に変な目で見られてもおかしくない。というか実際何人かに距離を取られた自覚はある。とにかく自分は推しの最高さを噛みしめながらなんとか帰宅しようと道を歩いていた。この幸せな気持ちを抱えたまま早く眠りにつきたい、その一心で足を動かしていた。
その時、腰のあたりにどすっと衝撃が走る。
それはあまりにも唐突な出来事で、一体自分の身に何が起きたのか理解するのに時間がかかった。身体から力が抜け、膝が折れる。どさりと地面に転がったところでようやく気が付いた。
ああ、自分誰かに背後から刺されたんだ、と。
自分が倒れたことで周囲もこれに気が付いたようだ。所々で悲鳴が上がる。辺りが嫌なざわめきに満ちる。人が刺された! 救急車呼べ誰か! 言葉が次々に飛び交うが、血がどくどくと抜けていくこの身体では理解することが難しくなっていた。心なしか周囲の声が遠くなっていく。
刺された傷口が燃えるような痛みを訴えてくるが、その痛みを悲鳴に変えるだけの体力はもうない。身体から血が抜けて力が入らないせいだろう。段々手足の動きが鈍くなってきた。
「君が悪いんだよ」
不意に声が降ってくる。
男の声だ。びっくりするほど冷静な、男の声だ。
「君が僕を見ないのがいけないんだ」
そこでようやく思い当たった。ああ確かこれは、会社の同僚の……。そうか、こいつだったのかストーカー。顔は一見爽やかイケメンだから、すっかり油断してた。まったく、人は見た目によらないね。
(まさか、こんなことになるなんて)
どくどくと血が流れていく。その度に体温も抜けていくようで、ひどく寒い。
この分だときっと、自分はもう助からないだろう。ひとり静かにそう思った。
薄れゆく意識の中、ぼんやりと脳裏に両親の顔が浮かぶ。この間の正月に帰省したのが最後になっちゃったな。ちゃんと感謝の言葉も伝えられていないのに。きっと悲しむだろうなあ。
続いて友人たちの顔が浮かぶ。就職してなかなか予定が合わなくて、今度の夏は絶対遊ぼうって計画してたのに。参加できなくなっちゃったな。あんなに楽しみにしてくれてたのに、申し訳ないや。
そして最後に浮かんだのは大好きなキャラクターたちの顔だ。死ぬ直前にまで思い出すなんて、なんとも自分らしいと思わず笑みが零れる。まだまだ完結していない作品もあるのに、もう見れなくなっちゃうんだ。来年の映画はキッドイヤーなのに、それを見ることも叶わないなんて。そして何より、もう安室さんの活躍が見られないんだ。これからどんなに重大な情報が明かされても、それを知ることはできないんだ……。
そう思ったら、なんだか無性に寂しくなった。
(……死にたく、ないなあ)
――そこで自分は、ぷつりと意識を失った。
***
「心央さん?」
ふと声を掛けられ、現実に呼び戻される。
前世のことを思い出していたので忘れていたが、自分は今、安室さんに事情を聞かれて彼の車に乗っているのだった。
「もしかして、思い出させてしまいましたか」
少し言葉を選ぶように安室さんが言う。その眼にはどこか申し訳ないといった感情が見え隠れしているように思えた。
「……いえ、すこしぼうっとしていただけですから」
「でも、心央さん。……泣いてますよ」
「え?」
不意にそんなことを言われ、自分は反射的に頬に触れる。まさか、自分でも気づかないうちに泣いていたなんて、フィクションの世界じゃあるまいし。だが頬は確かに濡れていた。え、と驚く間にも瞳から雫が滑り落ちて止まらない。まさか、本当に知らないうちに泣いていたなんて。
「す、すみません! すぐ、止めますから……」
自分はそういってぐしぐしと目元をこすり始めた。幸いにも今日はアイラインを引いていない薄化粧だったから、多少伸びても問題ないだろう。それよりも早く涙を何とかしなければ。
必死に涙を止めようとしている自分の脳裏に浮かぶのは、初めて安室さんに会ったあの日だ。あの時も前世の記憶を思い出して、安室さんの顔を見た途端に泣いてしまった。まさかあの日が再来することになろうとは……。恥ずかしさで顔から火が出そうなくらい熱い。
「心央さん」
不意に名前を呼ばれたかと思えば、そっと頬に彼の手が触れる。
驚いて思わず顔を上げると、彼と目が合った。その顔はまるで子供をあやす時の母親のように慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。嘘だろなんだこのママみは。そんなことが自分の脳内を駆け巡って、思考回路をショートさせたようだ。その証拠に、先ほどから全く目が逸らせない。
「あまり擦るのも良くないですから」
そういって、どこからか取り出した男物のハンカチを頬に触れていないほうの手で持ち、そっと私の目元に当ててくれる。その手つきはどこまでも優しくて、思わず天に召されてしまうところだった。何? どういうこと?
思いもよらぬ行動に自分が動けずにいると、安室さんは少しほっとしたような顔で言った。
「涙、止まりましたね」
よかった。
そう言って頬に添えた手とハンカチは離れていった。それと比例するように、自分の顔の温度が上がっていく。明るい所で見たら確実に真っ赤になっていただろう。自分はどうしたらいいのかわからなくなって、視線を逸らしつつ「ありがとう、ございます」とつぶやいた。そこでハッとしたように安室さんは慌てて言う。
「あっ……すみません、急に触れたりして。泣いているところを見たら思わず……軽率でした」
「いえ、いいんです。気遣ってくれたことは充分わかってますから」
正直公式では見れないような表情が見られて最高ですごちそうさまでしたという言葉を必死に飲み込み、自分はあくまでも当たり障りのないことを言う。安室さんはとにかく、と話を切り替えた。
「過去にあったことは終わったことですから、むやみに掘り返す必要もありません。……それより、これからの話をしましょうか」
「……これから?」
彼の話を聞いて、自分は思わず聞き返す。これからってどういうことだ。
「ええ。このままこのストーカーを放っておくなんて出来るわけないじゃないですか。勿論、僕も協力しますよ」
「はえ!?」
思わず変な声が出た。先ほどまでのシリアスな空気はどこへやら、自分はいやいやいやと首を振る。
「そんな……いいですよ、これは私個人の問題ですから。安室さんを巻き込むわけには」
「写真を拾った時点でもう乗り掛かった舟です。探偵として……それ以前に男として、これを見て見ぬふりは出来ません」
「でも……」
「もしかして」
そこで不意に安室さんは言葉を切る。
「……僕では、頼りになりませんか」
ここで発動されるのは、最高に輝く最推しの顔。
少し困ったように眉を下げて、小首を傾げつつ、自信なさげに言う。心なしか瞳がわずかに潤んでいるような気さえしていた。背景の何の変哲もない外灯が絶妙な仕事をして、いい塩梅に儚げな雰囲気を増大させるように彼の顔を照らしている。
んぐっ!と変な声が漏れ出るのをなんとか噛み殺し、平静を保つ。咄嗟に軽く心臓を抑えたのが不自然に思われてないといいが……それはきっと難しいだろうな。
大好きな推しの、スーパーミラクル可愛いおねだり顔見せつけられて、突き放せるオタクがいるわけねーだろバーロー!
「いえ……すごく、心強いです……」
「じゃあ決まりですね」
にっこり微笑む安室さん。ああ、流されてしまった……。