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「うわあ……」
駅から外へ出ようとした自分は思わずひきつったような声を漏らした。
つい数時間前まで青空を見せていたはずの空が今はすっかり灰色の厚い雲に覆われている。挙句の果てに大粒の雨を降らせていた。鬼雨……俗に言うゲリラ豪雨ってやつだろう。今朝確認した天気予報に雨のマークは無かったから、生憎今日は傘を持っていない。周りの人も自分と同じような人が多いのか、困ったように空を見上げている。
さて、どうやって帰ろうか。
とりあえず駅の中にある店で傘を買おうとしたが、ほとんどすべて売り切れておりがっくり肩を落としたのがついさっき。仕方ない、考えることは皆同じなのだから。というか、この雨の勢いだと傘をさしていても濡れてしまいそうだ。
一応天気予報アプリでこれから数時間の天気を確認してみると、あと数時間はこのまま振り続けるらしい。特に予定もないとはいえ、このまま長時間雨宿りをするのもなんだか……。
仕方ない。今日はバスかタクシーで帰ろう。帰宅ラッシュ時に直撃したせいで死ぬほど混んでいるだろうが、致し方ない。
バス乗り場を目指して踵を返そうとしたその時。
「おや、心央さんではありませんか」
CV置鮎龍太ろ……じゃなかった、のびやかでどこか艶のある聞きなれた声が自分の名前を読んだ。思わずぱっと振り返れば、そこにいたのは予想通りの人物。
「沖矢さん」
「奇遇ですね。仕事帰りですか?」
すっかり身についたアルカイックスマイルを浮かべながらビニール傘をさして佇む沖矢さん。
彼とは数か月前に近所のスーパーで偶然知り合い、それからたまにメールで世間話をしたり夕飯をごちそうになったりする程度の仲……いわばちょっとした友人だ。自分が前世の記憶を取り戻してからこうして会うのは初めてな気がする。……今思えばよく友人関係になれたな。
「はい。そうなんですけど、急に雨に振られてしまって途方に暮れていたところです。沖矢さんは……」
「少々この近くに用がありましてね。家からも近かったので散歩がてら歩いて行ったのですが、急に雨に降られまして。近くにあったコンビニで傘を買い、帰り道の途中で心央さんを見かけて、声をかけたというわけです」
沖矢さんは傘を閉じてさりげなく自分の隣に寄ってきた。前世の記憶が戻り、中身を知っているだけあって(色んな意味で)ドキドキしてしまうが、必死に表情に出さないように努める。
「これからどうする予定だったのですか」
「とりあえずバスを探そうかと思っていたんですが、この様子だと多分……」
「混んでいるでしょうね。かなり」
「ですよねえ」
若干ため息交じりに言う。それを見て沖矢さんがくすりと笑った。自分が人混みが苦手だということを沖矢さんも重々知っているのである。でもこのまま待つのも……と独り言を零せば、沖矢さんはふと思いついたように自分に提案してきた。
「それなら私が送りましょうか」
「へ?」
「私の家はここからちょうど近いですし、いったんそこに寄ってから車で心央さんの自宅まで送る。これでどうでしょう」
「でも、傘が」
「傘は一本しかありませんが、少し大きめのものを購入したので頑張ればふたりでも入れますよ」
「でも……」
沖矢さんの提案は大変魅力的だ。これなら混雑したバスに乗車する必要もなくなる。
だが問題もある。その提案に乗れば、自分は沖矢さんとふたりでひとつの傘を共有して帰宅せねばならなくなるという点だ。そんな近い所にイケメンの顔があってみろ。死んでしまう。
最推しは安室透だったが、基本的に箱推し気質の自分。沖矢昴も勿論おたぶに漏れず、大好きな推しのひとりだ。そんな推しと? ひとつ傘の下? ……死ねと?
そんな風に内心葛藤し、黙った自分を見て、沖矢さんがとびっきりの良い声でとびっきりのセリフを吐いた。
「心央さん。私のことを気遣って遠慮する必要はありませんよ。迷惑だなんてちっとも思っていません。困っている女性を放っておくなんて、私には出来ませんから」
ハア〜〜〜〜〜〜?????? なんだこいつあざとすぎる。
絶対自分の魅力を分かったうえでやってる。確信犯だろおい。あざといぞ沖矢昴! 卑怯だぞ! 沖矢昴最推しの友人が見たら吐血して卒倒してるぞ!!
……と内心でむちゃくちゃ言うが、実際にはまばたきをひとつしただけだ。
なんとか心を落ち着け、声が震えないように細心の注意を払いながら返答する。
「じゃ、じゃあ……お言葉に甘えて」
***
沖矢さんにリードされるようにしてひとつの傘に入る。お邪魔します、と言えば小さく笑って、はいどうぞ、なんて返されてしまった。
先ほどよりは雨脚が弱まって来た感じがするものの、未だに雨は降り続いている。止むのはまだ時間がかかるだろう。なるべく濡れないように、ハンドバッグを前にぎゅっと抱きしめるようにかかえてそろそろと歩く。
「心央さん、大丈夫ですか? 濡れてませんか?」
「自分は全然平気です。それより沖矢さんは……」
そう言いながら自分から見て遠い方……彼の右肩に視線をやれば、見事にぐっしょり濡れてしまっていた。お約束というか、なんというか。
「ちょっ……! 沖矢さんこそ、右肩濡れてるじゃないですか!」
「これくらい平気ですよ」
「いやいやいや、入れてもらっている以上、傘のスペースは対等であるべきです!」
自分の方に寄せすぎなんですよ! と言いつつ彼の方へ傘を寄せようとするが、しっかり押さえているせいかびくともしない。沖矢さんは涼し気に笑うばかりでちっとも気にしていない様子だ。
そんなことをしているうちにいつの間にか工藤邸についてしまった。すぐに車に乗せられるのかと思えば、沖矢さんは門をくぐって玄関の方へと向かう。
「少し雨が弱まってからにしましょう。上がってください」
自分の意見を聞かずに軒下で傘を閉じると、さっさと玄関の鍵を開けて中に入ってしまった。とりあえず自分も後に続くように中へ入る。何度か来たことはあったが相変わらず広い家だ。元々ここに工藤家の3人で暮らしていたらしいが、3人が住むにも広すぎる気がする。
案内されたのはダイニングキッチン。よくここで夕飯をごちそうになっていたため、自分の中でも一番馴染み深い部屋だ。
「コーヒー淹れますから、少し座って待っていてください」
「は、はい」
言われるがまま、椅子を引いて静かに腰かけた。沖矢さんがコーヒーを準備する姿を横目に、もう一度携帯のアプリで天気を確認する。夜まで雨は止まないものの、あと一時間もすれば外出できる程度には雨脚が弱まってくるとのこと。小さくため息をつきながら携帯をしまう。
「おまたせしました」
「ありがとうございます」
ことりと目の前にマグが置かれる。軽く礼を言ってそっとマグを包むように触れた。自身の身体が思っていた以上に冷えていたことに驚く。
「飲まないんですか?」
「猫舌なんですよ」
「ああ、そうでしたね」
小さく納得した沖矢さんが自分の真正面ではなく左側の椅子に腰かけた。ふう、と息を吹きかけてからマグに口を付ける。熱いものは平気らしい。
「そういえば、こうして心央さんが家に来るのも久しぶりですね」
「そうですね。仕事がここのところ忙しくて……」
「なるほど」
私もそっとマグを持ち上げて何度か息を吹きかける。もうそろそろいいだろうかと口を付けた瞬間、沖矢さんが口を開いた。
「だから自炊する時間も無くて、毎日ポアロに通っていらっしゃるんですね」
「!? っんぐ、げほっ、!」
動揺してしまい思わずコーヒーを飲み込んでしまった。変なところに引っかかったらしく咳が止まらない。沖矢さんもそんな自分の様子を見てさっと立ち上がり、背中をさすり始めた。若干涙目になりつつもなんとか咳が収まると、上ずった声のまま沖矢さんに尋ねる。
「どうして、それを……」
「コナンくんから聞いたんですよ。初めて訪れた日以来、毎日あなたの姿を見かけると」
何伝えてんだあの子。どことなく違和感が残る喉の調子を整えながら自分はため息を飲み込む。すると沖矢さんはすかさず追撃をかましてきた。
「そういえば心央さん、ポアロに初めて訪れた際に泣いてしまったらしいですね」
「!」
「なんでも、店員の彼と目を合わせた途端に涙を流し始めてしまったのだとか」
あの日の出来事を思い出し、羞恥心で顔に血液が集まるのがわかる。これもコナンくんが密告したのだろうか。……あの子あとで覚えてろよ。
「彼とは初対面だったのでしょう?」
「はい、一応……」
「特に何かをされた、というわけでもない」
「はい……」
「ではどうして、泣いてしまったんでしょうね?」
「……」
沖矢さんの問いに固まる。そして瞬時に悟った。
――もしかしなくてもこれ、自分何か疑われてるな?
それもそうか。顔を見た瞬間に泣き出した挙句、それから毎日店に通うようになった奇妙な客なんて、怪しまれるに決まっている。コーヒーで温められたはずの指先が少しずつ冷えていくのを感じた。
「心央さん。あなたもしかして……出会う前から彼のことを知っていたのではありませんか?」
ええ知っていましたとも。毎日のように見てはその存在の尊さに手を合わせてましたから。
……なんて言えたら、どんなに楽か。
黙ったままの自分と沖矢さんの距離が先ほどから少しずつ近づいている気がする。心なしかその糸目の奥に秘められた瞳がぎらりと輝いているような気さえした。距離を取るために後ずさろうにも背もたれ付きの椅子に腰かけた自分に逃げ場はない。背中を冷汗が伝う。ひくりと、喉が震えた。
とりあえずこの場を切り抜けられればなんでもいい。そう思って考えなしに口を開いたその時。
「昴さん。この間借りてた本、返しにに来たんだけ、ど……」
がちゃりと扉が開く音と共にコナンくんが入ってくる。反射的に沖矢さんがコナンくんの方を見た。その隙を自分は見逃さない。
意識が逸れた拍子にするりと椅子から抜け出し、鞄を抱え、コナンくんを押しのけてリビングから飛び出した。そのまま足を止めずに靴を引っかけ、玄関を飛び出す。そして雨が降っているのにも構わず、全力疾走で工藤邸を後にした。
――しばらく沖矢さんとはふたりっきりにならない。
そう心に誓って。
***
「……これどういう状況なの昴さん」
「まあ、色々あってね」