11 また元通りになっただけ

 ブーっと枕元の携帯が震え、俺は静かに瞼を持ち上げる。
 時間を確認すると8時ちょうどだった。3時間は眠れたか。まだ休みたい眠りたいとぐずる身体を*責して起き上がり、寝室を後にする。

 まず洗面所で顔を洗って髭を剃る。続いて歯を磨こうかと歯ブラシに手を伸ばしたところでもうひとつのヘッドの小さな歯ブラシが目に留まる。ピンク色のそれを視界から排除し、俺は何も言わずに自身の歯ブラシを手に取り、歯を磨き終えた。

 それからキッチンへ向かった。愛用のマグカップを取り出そうとしたところでもうひとつのカップが視界に入る。ひとまわり小さな、装飾が施された可愛らしいマグ。俺は別段何をするわけでもなく、自分のカップを手にしてインスタントコーヒーをさらりと入れた。

 湯を沸かすために薬缶に火をかけている間煙草でも吸おうかと、ベランダに足を向けたところで俺はふと動きを止める。別にいいか。ここで吸ってしまっても。今まではなんとなく気を使っていたが、もうその必要は無いのだし。

 一本くわえて火をつける。揺れる煙を見ながら今日の仕事予定を頭の中で整理していれば湯が沸いたようだ。煙草を消して、マグに湯を注ぎ入れる。軽くかき混ぜてから口を付ける。普段通りの味のはずだが、どこか寂しいような、何とも言えない心地がする。どうしてだと思う間もなくコーヒーを飲み干し、さっと軽く水でゆすぐ。

 ジャケットを羽織り、ニット帽を被る。
 そして無言のまま、俺は妙に静かなひとりきりの部屋を後にした。


***


 車を走らせながら、ひとり物思いにふける。

 美琴を誘拐犯から救出してから早1週間。彼女はまだ目を覚まさない。

 あの後すぐに最寄りの杯戸中央病院へ運ばれ、それから今の今まで眠り続けているのだ。
 恐らく誘拐された際に何かをされたのだろうと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。少女を見て慣れたように入院の手続きを進める医者の様子からして、彼女にとってこういったことは珍しいものではないのだ。詳しいことを医者から聞こうと思ったのだが、守秘義務がどうだとか言って結局口を割ってはくれなかった。

 組織に関する捜査は美琴の鞄の中に入っていたPCの中身のおかげで至極順調である。パスコードをかけた上に暗号化もされていたため紐解くのに大分時間を要したのは言うまでもない。

 まず出てきたのはイーサン・本堂がCIAだという情報だった。彼は組織に潜入していたNOCであり、4年前に死亡している。確か手にかけたのは水無怜奈だったか、と思っているとその事実も記されていた。『組織に潜入していた諜報員であるイーサン・本堂の存在に気づき口を封じた』……その功績が認められ、彼女はコードネームを得たのだという。
 だがそれはもう既にFBIも掴んでいた情報だった。本当に重要だったのはもうひとつの方である。

 彼女の残したデータのもうひとつは、俺にしか解けないような――美琴のことをよく知っていなければ解けないような――パスコードのかかったファイルの中に、重要な情報が隠されていた。それはもちろん、ずっと調べていた水無怜奈のもうひとつの顔についてである。恐らくという予想は俺自身も頭の片隅にあったのだが、これできちんとした確証を得られたことになる。捜査もさらに順調に進むだろう。

 順調であるのだから、気分は軽くなるはずなのだ。
 なのに、まるで濃霧に飲まれてしまったように自身の気分は晴れないままである。

 ……理由は、誰が見たって明らかだ。

「一番に俺に教えると言ったのは、お前だろう」

 バックミラーに映った自分の顔は、いつも通りのように見えてどこかぎこちなく強張り、歪んでいた。


***


 車を運転し始めてしばらく。特に遅れることも無く杯戸中央病院に到着する。水無怜奈がこの病院に入院していることから、最近のFBIの作戦会議はほとんどここで行われていた。俺はそこへ向かう前にふと美琴の見舞いでもしようかと思い立つ。決断するよりも早く、足が動いていた。

 階段を上り、目的の場所へ。すると、丁度彼女の病室からひとりの女性が出てきた。全体的に色の薄いカーディガンやスカートを身に着けた、50代くらいの温和そうな雰囲気をまとう女性だ。見覚えのないその姿を不思議そうに思っていると、彼女はこちらを見るなり一瞬驚いたような顔をする。そしてこちらへ歩み寄りながら話しかけてきた。

「あなたが赤井秀一さん?」
「……ええ、そうですが」
「やっぱりそうだと思った」

 女性は嬉しそうに微笑んだ。だが俺は表情を曇らせたままである。どうして俺の名前を?とひとり怪訝に眉を寄せていると、それに気が付いた女性がハッとしたようにしずしずと名乗った。

「初めまして。美琴の母です」

 その言葉を聞いて俺は素直に驚いた。彼女が、美琴の母親……。いつもはつらつとした彼女とは正反対の雰囲気だが確かに、優しく細められた目元に面影を感じるような。そんな気がする。

「いつも娘から話は聞いています」

 女性は至って静かに微笑む。俺はそんな彼女に向かって、思い出したように深々と頭を下げた。

「この度は、本当にすみません」

 我々がもう少し早く美琴を見つけていればと言葉を続けて、誠心誠意謝罪をする。大切な一人娘が攫われ、その上一週間以上も意識不明の状態なんだ。どうしてくれるんだと檄が飛んできてもおかしくない。その覚悟をしながら、俺は目の前の彼女の言葉を待つ。
 だが俺にかけられたのは、予想に反して至極穏やかな声だった。

「いいんですよ。頭を上げてください赤井さん」
「しかし」
「あなたたちには何の非もありません。むしろ感謝しているくらいですよ」

 実はね、と彼女は声を潜めて言う。

「もうそろそろこうなるんじゃないかと、なんとなく思っていたんです」

 ふと、彼女の言葉が胸に引っかかる。
 こうなるんじゃないかと思っていた……ということはやはり、美琴には何かあるのだろう。俺には伝えられていない、秘密が。医者の口から聞けなかった言葉がここでなら聞けるかもしれない。そう思い、俺は恐る恐る頭を上げる。
 目の前の彼女は、まるで物思いにふけるように視線をそっと伏せた。そして、ぽつりとつぶやく。

「あの子、生まれつき身体が弱くて。その上呼吸器系の病を患っているんです」

 静かに息が止まるのがわかった。
 正直、何となくわかっていたことだった。美琴が誘拐犯になにもされていない事と、それにもかかわらず俺の腕の中で咳に混じりながら血を吐いた事、医者が何も言わないことを合わせれば、自然と答えは導き出される。
 そのはずなのに、やはり俺の中での衝撃は大きかったらしい。いつも俺の周りでちょこちょこしながら笑っている美琴と病をイコールで結びつけることなんて、俺にはとてもできなかった。

「治療法が未だに見つかっていない難病らしくて。……20歳まで生きられるかどうかもわからないと、お医者様にはいつも言われていました」

 固まったままの俺を他所に、彼女は静かに話を続ける。
 20歳まで生きられない。その言葉が脳裏を駆け巡る。……そんなに重い病気だったのかと、率直な感想を抱いた。彼女は17だと言っていたから、もう随分病気も進行しているはず。それなのに、彼女は俺の前では一切そんな素振りを見せなかった。病気の片鱗を一切見せることなく振舞っていた少女は、随分隠しごとが上手いらしい。
 そこまでして、どうして俺に伝えなかったんだ。

 考えるうちに段々と自身の表情が強張るのが分かった。そんな俺を見て目の前の彼女は小さく笑う。

「その様子だと、初めて聞いたみたいですね」
「……すみません」
「謝らないでください。あなたに言わなかったのも、きっとあの子の判断でしょう」

 目の前の彼女は穏やかに俺を励ますように声を掛ける。自身の娘にかなり深い信頼を置いているらしい。ふと視線を逸らし、遠くを見つめるように目を細める。

「多分、言いたくなかったんだと思います。あの子……赤井さんのことを本当に大切に思っているみたいでしたし」

 ふふ、と思い出したように口元を手で隠し、笑みを浮かべる。

「私はひとり親ですから、仕事のせいで3日に一度くらいしかあの子には会えなかったのだけど……最近は口を開けばあなたの話しかしなかったんですよ? 今日は一緒にドライブに行ったとか、一緒に料理を作ったとか、一緒に買い物に行ったとか……嬉しそうに、そんなことばっかり話していて。恋が多い子だったけど、ここまで入れ込むのは初めてだったわ。本当に、あなたのことが大好きだったみたい」

 楽しそうに話す彼女は美琴そっくりだった。そんなことを話していたのか、と俺はなんだかむず痒い気持ちになる。彼女の話を聞くに、美琴は俺の仕事のことは一切母親には話していないようだ。もちろん、その仕事に美琴自身が首を突っ込んでいることも。恐らく、言えば母親を不安にさせるのではないかという思いがあったのかもしれない。
 そんなことを考えながら小さく安心していると、不意に彼女が俺の名を呼んだ。

「赤井さん」

 不意に話を切り、穏やかに微笑む彼女。目を細めたその表情は笑っているようで、どこか涙を堪えている様にも見えた。

「せわしなくて、とても危なっかしい子ですが……娘を、どうかよろしくお願いします」

 そう言って、彼女は静かに頭を下げる。
 俺はただそんな彼女に向かって、小さく「はい」と答えることしか出来なかった。


***


 彼女と別れ、病室に入る。

 白い病室に静かに横たわる彼女は相変わらず瞼を下ろしたままだ。腕に刺さった点滴が嫌に生々しい。小さな身体は以前より随分と薄くなったように感じられる。もしかしてこのまま消えてしまうのではないかと、そんなことを連想させるような儚さを持っていた。儚さなんて、あのせわしない少女と正反対の言葉だと思っていたのに。

 そっとベッドサイドのパイプ椅子に腰かけた。それから何も言わずにじっと、物言わぬ彼女の顔を見つめる。時計の針と点滴の落ちる音だけが支配する空間で、時間の限りこうしているのが美琴の病室を訪れた時の俺の日課になっていた。

 でも今日はなんとなく、そのまま黙っている気に慣れなかった。恐らく美琴の母親と出会ったせいだろう。そっと、口を開いてみる。

「美琴」

 少女を呼ぶ声は思った以上に掠れていた。勿論、返事は返ってこない。そのまま、俺はぽつぽつと少女に話しかける体で言葉を漏らす。

「君がいないと、俺は家でロクな食事も摂れない。部屋は妙に静かで落ち着かんし、煙草の吸殻の数が増えていくばかりだ」

 静かに、これまでのことに思いを馳せる。
 初めは本当に付きまとわれて迷惑していたはずだ。
 やめろと言っても勝手に家の中に入ってきたり、傍若無人で人の話をちっとも聞かなかったり……彼女の迷惑行為を片端から挙げていけばキリがない。そのうえ彼女は高校生だ。こんな未成年のいたいけで無垢な少女を、俺のような危険と隣り合わせの人間の傍に置くべきではないと思っていた。

 その後偶然、探り屋として有能な面を持ち合わせていると知ったときもそうだ。あのころは正直「捜査のための優秀な協力者を手に入れた」くらいにしか彼女に対して感情を持ち合わせていなかった。俺に対して全面的に信頼を置いてくれる、とても便利なツールだとさえ考えていたのだ。

 しかし、今はどうだ。
 少しずつ彼女と過ごす時間が増えてからというもの、彼女の色々な面を知ることができた。笑うと少したれ目がちになること。オムライスが好きなこと。仕事中に愛用のヘッドホンでスウィングを聴くこと。褒められると飛び上がるほど喜ぶこと。目的のためには手段は選ばないこと。ああ見えて意外とストレートな表現に弱いこと。……これも同じく、挙げていけばキリがない。

 気づけば、家に彼女がいるのが当たり前になっていた。本来ならばありえない事だが、それを自然に思わせるように仕向けるのも彼女の特技のひとつなのだろう。ああ見えて彼女は結構計算高い所があるのだ、

「……」

 ベッドサイドのテーブルにある花が風で小さく揺れている。みずみずしく咲く白い花は恐らく、先ほど病室を訪れた彼女の母親が持ってきたのだろう。

 少女が意識を失ったこの一週間は、言ってしまえば空虚だった。
 胸に穴の開いたようとはこのことかと、身をもって感じることができた。家にある物を見ては少女のことを思い起こし、それを無理やり打ち消すの繰り返し。頭の片隅には常に少女の姿があった。いつものように楽し気に笑顔を振りまく、少女の姿が。そこで俺はようやく、彼女がどれだけ俺の生活に入り込んでいたのかを自覚したわけだ。

 昔の俺ならば、こんなことにならなかっただろう。「優秀な探り屋が使えなくなって残念だ」くらいにしか思わなかったかもしれない。もっと酷ければ「日常をかき乱すものが居なくなってせいせいする」とすら思っていた可能性もある。
 だが実際に胸の内を占めるのは、空虚とほんの少しの退屈。

「……まさか、こんなことになるとはな」

 ため息を吐くように、つぶやく。
 己の胸の内で密かに渦巻く感情の存在は、少し前から気づいていた。ただ見てみぬふりをしていたのだ。きっとこれは何かの間違いだ。彼女はただの協力者で、そのうえ未成年なのだから。そう言葉を並べて、感情に鍵をかけていた。そしてそのまま無かったことにしてしまおうとすら思っていたのである。
 その気持ちは正直今も変わらない。だが、以前よりその意思が揺らいでいるのは確かだ。

 ……”彼女“のこともあるのに、俺は何てやつだろう。
 小さく、自嘲的な笑みを零す。

 俺は、なんだか居てもたってもいられなくなって、少女の手に触れる。柔らかくひやりとして小さなそれは、俺のものとはまるで正反対だ。余計な力を加えたらすぐにでも壊れてしまいそうな脆さを感じる。
 そっと、両手で包み込むように握る。

「……俺は」

 俺は一体、どうしたらいいのだろう。


***


 それから俺は病室を後にし、ジョディたちと合流した。そこで病院内に組織の人間が探りこんだことを知る。
 ボウヤの機転の利いた作戦でなんとか割り出すことができたものの、そいつには車で追跡した後に拳銃自殺されてしまった。結果報告のために病院へもどり、一先ず仮眠をとることに。だがなかなか寝付けないまま車の中で瞼を閉じて横になっていると、携帯が静かに震えた。どうやら着信のようである。相手はジョディだ。

「どうした」

 短くそう訊けば、彼女は酷く興奮した様子でこう言った。

「美琴が……意識を取り戻したそうよ!」