12 ほどなく終わる
がらりと勢いよく病室の引き戸を開く。
ここは病院だから周りに考慮しなければとか、今は夜中だから大きな物音を立てるのはよくないとか、そんなことを考慮する余裕は既に頭に無かった。柄にもなく額に軽く汗をかきながら室内に飛び込む。
視線の先にいたのはジョディとジェイムス。ジョディは俺の姿を見て少しぎょっとしたように目を見開いたが、すぐにいつものような表情に戻って「早かったわね」と笑った。俺が口を開くよりも先に、ジェイムスは静かに身体を横にずらしてくれる。
そこにあったのは、心の底から待ち望んでいた光景だ。
「秀一さん、おはよう」
ベッドから上半身を起こした病院着の彼女が、俺を視界に捉え、緩やかに笑った。だがいつものようなはつらつとした明るさは身を潜めているようである。どこかやつれたように、その笑顔には力が無かった。長い眠りからついさっき目覚めたばかりといったように、声は少し掠れている。
今すぐ彼女に近づいて、その手を取りたい衝動に駆られたが、足はその場に縫い付けられたように動かない。それどころかまともに声すら出なかった。彼女の挨拶に対して返答できずにいる俺を置いてけぼりにして、ずっと傍で控えるように見守っていたジョディが感極まったように彼女を抱きしめる。心配したんだから!と目元を潤ませるジョディとそれに苦笑する彼女の様子を、俺は黙って見つめていた。
その後すぐに医者がやってきて彼女の身体の検査が始まり、再び会えるというころにはもうすっかりお昼を過ぎていた。
静かに病室のドアをノックすれば、どうぞと声が響く。静かにドアを開けば、ベッドの上の美琴と目が合う。読みかけの本に栞を挟みながら、「秀一さん!」と嬉しそうに彼女は表情を明るくした。ドアを閉めながら俺は数日ぶりに彼女と言葉を交わす。
「調子はどうだ」
「ぜーんぜん大丈夫! どこも悪い所は無いってさ!」
腕を軽く曲げて力こぶを作るような仕草をして、にぱっと笑う。以前に比べてすっかり細くなった腕と、それに繋がる点滴の管が揺れているのには気づかないふりをして、俺は表情を変えないまま「そうか」と気のない返事をする。
「体調がいいのなら、それに越したことは無い」
パイプ椅子を引こうかと思ったが、別に座るほどのことでも無いと判断して俺はベッドの傍に立っていた。そんな俺の様子を目の端に捕えながら、美琴はやれやれと大げさに肩をすくめる。
「ちょっと寝てたぐらいで、みんな大げさなんだから」
別に何ともないのに、と唇を尖らせながらお気楽そうに美琴はのたまう。だが俺の表情は全くもって晴れない。その様子を見て疑問に思ったらしい美琴は、小さく首を傾げながら眉根を寄せる。
「秀一さんどうしたの? 怖い顔してるけど……。もしかして、仕事で何かあった?」
「いや。多少想定外の出来事はあったが、おおむね良好だよ」
「じゃあ何? 教えてよ」
俺の表情が晴れない理由がよっぽど気になるのか、美琴はねえねえとせがむ。俺はなるべく感情を乗せないように注意を払って言った。
「きみの母親に会ったよ」
ぴたり。
それまでずっとせわしなかった美琴の動きが止まる。目を開いたまま、まばたきもせず、まるでその瞬間を切り取った写真のように静止している。
「初めて会ったが、随分話が弾んでね。お陰で色々と興味深い話が聞けたよ」
「……そっか」
長い沈黙の後、少女はぽつりとつぶやく。そして瞼を下ろしながらふうっと息を吐いた。ため息にも似たそれを吐き切ると、静かに瞼を持ち上げる。
「お母さんから聞いちゃったなら、しょうがないね」
お母さんのお喋り。目を細めて力なく笑う。先ほどまでの元気はどこに行ったのかと疑ってしまうほど、その言葉は諦めに満ちていた。彼女の雰囲気ががらりと変わるのを肌で感じながら、俺は静かに問いかける。
「治らないのか」
「今のところはね。薬である程度症状は抑えられるけど、進行を止めるわけじゃないし」
「薬?」
俺がつぶやくと、美琴はおもむろにサイドテーブルに手を伸ばした。そして、そこに置かれていたネックレス――俺が数日前彼女に贈ったものだ――を掴む。俺が身をかがめて覗き込むと、彼女はペンダントトップを指先でつまみ、器用に開いてみせた。すると、中から小さな粒がいくつかころりと出てくる。彼女の手のひらの上に乗った白いそれは、よく見れば錠剤のようであった。……こんなところに隠し持っていたのか。
「朝昼晩の食後。それから急に苦しくなった時に飲むの。これは緊急用」
そう言いながら錠剤をペンダントトップの中にしまい、ぱちりと閉じる。そしてサイドテーブルの上に置いた。どういう反応をとればいいか戸惑う様子の俺を見て、美琴は噴き出すように笑う。
「驚いた? でもそうだよね、私この薬を飲むところ一度も見せたこと無かったし」
美琴は静かに視線を落とす。
開いていた窓から吹き込む風が、穏やかにカーテンを揺らしている。俺たちの間に小さな沈黙が落ちた。俺はその沈黙を破るように口を開く。
「……どうして、黙っていた」
「知られたくなかったの」
視線を落としたままぽつりと、美琴が白状する。サイドテーブルの上の花瓶に生けられた花が風で小さく震えた。
「知って得することでもないでしょ」
「そういう問題じゃないだろう」
「そういう問題なの」
ぽたぽたという点滴の音がやけに耳に届く。遠くの方で、子どもたちの笑い声がしていた。まるでこの部屋だけ世界から取り残されたように、時間がゆったりと流れている心地がする。
「秀一さんは優しいから。これを知ったら、きっと距離を置くんじゃないかって思ったら、怖かった。だから絶対に悟らせないように、病気のことは隠し通すつもりだったんだよ」
だって、と美琴は掛け布団の端をぎゅっと握りしめる。口元はかろうじて笑っていたが、その表情はまるで泣くのを堪える子どもの様だった。
「秀一さんともう二度と離れたくなんて無かったから」
そう言った美琴の声はわずかに震えていた。俺は黙って、彼女の話に耳を傾ける。美琴は、布団を握ったまま俯いて、まるで独り言のようにつぶやく。
「ずっと探して、探して……10年かけて見つけた、私の王子様」
――探していた?
ふと、美琴の言葉に引っ掛かりを覚える。胸のざわめきを抑えながら思わず待て、と声を掛けた。
「何を言っているんだ。俺と君は、あの時コンビニで会ったのが初めてで……」
「あは」
堪えきれなかったように、美琴が息を吐くように笑った。俯いていた顔を上げ、ベッドに身体を預けるようにして、天井を見上げる。その瞼は下ろされ、口角はわずかに持ち上がっていた。
「そうだった。そうだったね、うん」
「……美琴?」
「ううん。いいの。これは私個人のことだから」
そこで改めて美琴はこちらへ顔を向けた。鳶色の透き通った大きな瞳が真っすぐ俺を見つめている。
「秀一さんは何にも知らなくて、いいの」
突き放すような言葉。少女らしからぬ、大人びた笑顔。窓の向こうの日差しが強まり、コントラストを強調する。
どういうことだと美琴に尋ねようとしたところでノックが部屋に響いた。どうぞと美琴が返事すれば、失礼しますと丁寧な言葉がした後に扉が開く。入ってきたのは白衣をまとった男。そういえば検査の時間だったかと俺は思い出す。もう少し詳しく話を聞きたいところだったが、時間切れだろう。
「じゃあ秀一さん、お仕事頑張ってね」
そんな言葉を背に受けながら俺は彼女の病室を渋々後にした。
***
すっかり日は落ち、夜。
屋上でひとり星を見ながら、俺は昼間彼女に言われたことを思い起こしていた。
『ずっと探して、探して……10年かけて見つけた、私の王子様』
10年探し続けた、という言葉が正しければ、俺と美琴は10年前に一度会っているということになる。だが一体どこで?
10年前、と言えば俺は丁度アメリカの大学に通っている頃だ。美琴は17歳だから、10年前というと歳は7歳ということになる。そんな小さな少女と出会ったことなんて……。
――ザザ、と頭の中にノイズが走る。
何だ? 何か今思い出しかけたような。
ふと感じた奇妙な感覚を追いかけていくと、だんだんとノイズは大きくなる。
それと同時に、胸のざわめきも大きくなる。振り子のように、だんだんと。彼女の言葉を聞いてからずっと感じていた妙な感覚だ。口元に手を当て、思考を走らせる。思い出せ、思い出せ……10年前、アメリカ、大学、小さな少女……――
――ふと、ノイズが途切れた。
ひとりの幼い少女が俺に微笑みかけている。
少女は瞳を輝かせ、頬を紅潮させ、満面の笑みを浮かべて、俺にこう言った。
『お兄ちゃん、王子様みたいだったの!』
……ああ、あれは、確か。