13 在りし日の記憶

 ――10年前、夏。

 絶賛大学の夏休み中だった俺は暇を持て余していた。休みの期間中にしなければならない大学の勉強なんてものは早々に終わらせてしまったし、バイトは夜からの方が多い。かといって友人は帰省だ何だと予定の空いている奴の方が少ない。家でじっとしているのも別にいいが、手持ちの本はすべて読み終わってしまっていたし、テレビは退屈極まりなかった。

 うだるような暑さ。都心から少し離れたこの町でも夏の暑さはなかなか厳しいものである。ちょっと書店にでも行こうかと外に出ればすぐ汗が噴き出してぐったりである。これはもう昼間はずっと室内にいたほうが健康上いいのかもな、なんて思っていると、どすりと足元に衝撃を感じた。衝撃といっても、何か柔らかいものが緩やかな速度でぶつかってきた程度で、そんなに身の危険を感じるものではない。

 ふと視線を下ろして俺は目を丸くする。
 俺の腰下ほどの身長しかないような小さな少女が、俺のことを見上げていたのである。

 見たところ、小学校低学年くらい……年は6歳か7歳といったところだろうか。短い茶髪に大きな帽子がよく似合っている。俺を見上げたダークブラウンの大きな眼は怯えに満ちていて、今にも目じりから零れ落ちそうなほど潤んでいた。俺はひとまず膝を曲げて腰を落とし、その子に視線を合わせて話しかけてみる。

「What’s wrong?(どうした?)」
「……」

 小さな子でもわかるように、なるべく怯えられないようにと心がけて話しかけたのだが、少女はぎゅっと身を固くした。ぎこちない動きと後ずさるように俺から距離をとろうとするところを見るに、随分と俺に恐怖心を抱いているようである。一応言葉を変えたり被っていたキャップを外したりして粘ってみたのだが効果は薄いようだ。参ったな。子供の扱いは苦手なんだ。どうしたものかと頬を掻きながら悩んでいると、微かにつぶやきが聞こえてくる。

「どうしよ……えいご、わかんない……」

 周囲の雑踏に一瞬でかき消されてしまいそうなほどか細いその声は、紛れもなく少女の発したものだろう。困り果てたようなその言葉を聞き、俺はなるほどと静かに口を開く。

「日本語の方がわかるか」
「!」

 それを聞いた途端、先ほどの怯えが嘘のように少女は表情を明るくする。ぶんぶん首を振りながら懸命に答えた。

「は、はい。わかり、ます」
「ひとりか。親はどうしたんだ?」
「その……はぐれて、しまって」

 少女はしゅんとして俯いてしまう。ぎゅっと着ていたスカートを握りこんで黙ってしまった。このころの子どもらしく、表情の変化が目まぐるしい。ついさっきまで晴れやかだった表情は一転、今にも泣きそうだ。

「そんな顔するな」

 頭を撫でてやれば、少女はそっと俯いていた顔を上げた。

「俺も探すのを手伝ってやる」
「え……」
「丁度暇を持て余していたところだったし……ここであったのも何かの縁だ」

 目をぱちくりとさせ、少女は固まってしまう。まさかこんなことを言われるなんて思ってもいなかったのかもしれない。

「嫌か?」
「! いやじゃ、ないです!」
「決まりだな」

 フッと笑みを浮かべると、少女は小さく「よろしくおねがいします」と言った。
 一先ず、何となくでも捜索する場所の見当をつけるために少女がどの方向から歩いて来たのかと尋ねてみる。少女はしばらく辺りをきょろきょろうろうろ視線を彷徨わせた後に、またもやしゅんとしょぼくれたように視線を下げてしまった。

「ごめんなさい……」
「構わないさ。わからないのなら、わかるまで手当たり次第に探ればいい」

 安心させるように俺は少女の頭を撫でてやる。少し安心したように表情が緩んだ。
 少女の表情を見ながら、静かに思考を走らせる。一般的に子供はその年齢と同じくらいの距離を歩くだけの体力があるという。この子が7歳だと仮定しておよそ7キロ。そうなってくると、都心か郊外かくらいは範囲を絞った方がいいか。俺は質問を変えてアプローチすることにする。

「親と最後に会ったところはビルがいっぱいあったか? それとも木がいっぱいあったか?」
「えっと……」
「ゆっくりでいい。断片的でもいいから、思い出せる範囲で言ってみろ」

 難しそうな顔をしてううん、と考え込む少女。眉間にしわを寄せ口をへの字にしてしばらく唸った後、自信なさげにたどたどしく口を開いた。

「くるまと、人がいっぱいだった……木は、あんまりない……」

 なるほど、交通量の多い都心の方から来たのか。だとしたら、まずはそちらに向かってみるとしよう。

「ひとまず色々歩いてみるか」

 よし、と俺は立ち上がりキャップを被る。そして少女をひょいと抱き上げた。少女は驚いたようにわっと声をあげる。そのまま右腕に座らせるように抱きかかえれば、少女は驚いたように目を見開きはわはわを口を開閉する。

「お兄さん、ちからもちだね……」
「こう見えても結構鍛えてるからな」

 かくして、少女の親探しが始まったのだ。


***


 少女を連れてあちこち歩きまわる。一応近くをパトロールしていた警官に尋ねてみたが、それらしい情報は流れていないようだった。とりあえず少しでも少女が見たことがあると言った方へ足を運部ことにする。
 その合間に、少女の緊張をほぐす意図も兼ねて俺たちは色々な話をした。

「アメリカには誰と来たんだ?」
「お母さんと、わたしのふたりで来たの」
「父親は居ないのか」
「お父さんは、わたしが生まれたころにとおくに行っちゃったんだって。お母さんが言ってた」
「そうか。悪いことを聞いたな」
「お兄ちゃんは?」
「父は随分昔に亡くなったと聞いているが……母は元気だよ。今はイギリスと日本どっちに住んでるんだったかな」
「いっしょにすんでないの?」
「勉強のために俺だけひとりでこっちに来たんだよ」
「……さびしくない?」
「そうだな。たまに弟の顔を見たいと思う時もあるが、時々電話はしているから今のところはそれで十分さ」

「それでね、かわいいねこだなっておもって、おいかけちゃったの」
「そしたら知らない場所にいたと」
「うん……だからお母さんのところにいこうとおもって、あるいたんだけど、わかんなくなっちゃって……」
「そうか」
「でも、お兄さんがいてよかった」
「……そうか」

「おっきなわんちゃん!」
「動物、好きなのか」
「うん! 本当はね、ペットがほしいけどお母さんがダメだって」
「……触ってみるか?」
「え……いいの?」
「飼い主の彼女はいいそうだが、どうする?」
「! じゃ、じゃあさわりたい!」
「了解。今下ろしてやるから、じっとしていろ」
「う、うん!」

「お兄さん、おもくない?」
「全然。君は羽が生えたように軽いな」
「わたし、はね……ないよ?」
「ふ……たとえだよ、たとえ」

「このままお母さんと会えなかったら、どうしよう……」
「そうだな、その時は俺と一緒に暮らせばいい」
「お兄さんと?」
「ああ。幸い今住んでる部屋は君がひとり増えても大丈夫だし、俺も君のような妹が出来たら嬉しい」
「ほんと?」
「勿論さ。でも、君のお母さんは寂しがるかもな?」
「うう……」
「大丈夫だ。必ず見つけてやるから、そんな顔するな」


***


 少女と出会って1時間半近く経過したが、中々手がかりは掴めない。大分大通りに来ているからもうすぐ近くまで来ているような気がしなくも無いんだが。そう思いながら歩いていると、きゅうと小さな音が隣から聞こえる。ちらりと視線を向ければ、俺の肩のあたりの布地を掴みながら恥ずかしそうに少女は小さくなった。

「腹が減ったか」
「うう……ごめんなさい」
「いいよ。丁度俺も腹が減って来たし、何か食べようか」

 何が食べたいか聞けば、オムライスという返事が返ってくる。俺は了解して、目についた近くの日本食メニューを扱っているレストランに入った。あまり混雑する時間帯でもないがそれなりに騒がしい店内。少女は物珍しそうにきょろきょろと周囲を見回している。落ち着けるように4人掛けのテーブル席に向かい合って座った。適当に注文をして店員を待つ間にそういえばと思い立ち、尋ねる。

「今回アメリカに来たのは旅行の為か?」

 こんな小さな子が家族と共に自国を飛び出して来たんだ。恐らく家族旅行なのではないか、もしかしたらその行き先から家族の居場所を特定できるのではないか。そう思って尋ねたのだが、少女は静かに首を振る。

「びょういんに行くの」
「病院?」

 幼い少女にはあまり似合わない『病院』という単語が飛び出し、俺は思わず飲んでいたアイスコーヒーのグラスをテーブルに置く。

「わたしね、よくわからないけどびょうきらしいの。だから、それをなおすためにきたの」

 少女はそう言ってオレンジジュースに口を付ける。明るすぎて逆に不安を煽りそうな笑顔だ。

「日本じゃ無理なのか」
「むずかしいびょうきなんだって。でもアメリカのおいしゃさんがなおせるかもしれないんだって」

 なるほど。日本よりはアメリカの方が研究が進んでいる病気で、それの治療をするために来たと。……それならば十分、手がかりになりうる。

「病名、わかるか」
「え?」
「君の病気の名前だ」

 急に尋ねられた少女は戸惑いながらもええとたしか、と記憶を探り始めた。すると聞いたことも無い病の名を口にする。確かこんな感じだったと思う、と最後に付け加えて。

「そんなこと聞いてどうするの?」

 少女が不思議そうに首を傾げていると、ウエイトレスが注文したオムライスを運んできた。黄金色に輝くオムライスに目を輝かせる少女は、すっかりそっちに興味が移ったようだ。俺のほうをちらちらと見やるので、頷いてやればスプーンを手に取って美味しそうに食べ始めた。
 その隙に携帯を開き、少女が言っていた病名で検索をかける。しばらく調べていくと、恐らくこれだろうという病気を発見した。そしてこの病気に力を入れて研究している大学病院もヒットする。俺は思わず口角を上げた。少女の目的地は恐らくここだ。

 食事を終えてすぐにその病院へ向かった。
 かなり大きな病院だったため人でごった返している。この中から母親を見つけるのは骨が折れるだろうが、きっと受付に言えば何かわかるかもしれない。日本からわざわざ来た病人なんてそう多くはないだろうし。そう思って受付に向かおうとした時、不意に懐かしい日本語が聞こえてきた。

「美琴!?」

 若い女性の声が辺りに響く。弾かれたようにそちらを見れば、驚いたような表情を浮かべている女性が立っていた。女性は慌てた様子でこちらへ駆け寄ってくる。

「お、かあ、さ」

 片腕に抱きかかえた少女を見れば、じわりと目に涙を浮かべながらつっかえつっかえに呟いた。どうやら大当たりだったらしい。そっと下ろしてやれば、一目散に駆け寄り、女性に抱きついた。

「ご、めんな、さ……うう、ごめん、なさ、……!!」
「ああもう、会えないかと思った、無事でよかった、美琴……」

 涙ぐみながら女性――少女の母親は思い切り少女を抱きしめていた。しばらくそうしていた後に、涙を拭いながら俺に向かって深々と頭を下げてくる。

「ありがとうございます。何とお礼を言ったら良いか……」
「いえ、僕は当然のことをしたまでですよ」

 そんなに深々と頭を下げられるとなんだか逆に気まずい。謙遜していると、少女はあのねあのねと楽しそうに母親に語っていた。

「お兄さん王子様みたいだったの! オムライスも食べたしね、いっぱい色んなお話できたしね、わんちゃんにもさわったの!」

 それからそれからと話は尽きない。母親は涙ぐみながらその話に相槌を打っている。
 ……俺の役目はこんなところだろうか。そう思い、静かに立ち去ろうとすると、少女がぱたぱたとこちらに駆け寄ってきた。

「お兄さん、あのね」

 俺のズボンの裾を引きながら少女は言う。どうしたのだろうと俺がその様子に注目していると、少女は顔を赤らめ、もじもじと何かを恥じらうような素振りを見せた。

「わたし、お兄さんのこと……好きになっちゃった」

 予想外の言葉におや、と俺は目を見開いた。

「だからね、そのね、大きくなったら……わたしと、けっこんしてくれる?」

 自信なさげに、少女は首を傾げて尋ねる。それを見守っていた母親はあらまあと微笑ましそうに笑っていた。いつの間にか周りにいた人もこちらの動向を気にしているようである。

「そうだな……」

 俺はどう返したらいいものかと静かに考える。そうしている間にも少女はずっとこちらを見つめ続けていた。不安げながらも真剣な少女の様子を見て、俺はフッと息を吐くように微笑んだ。静かに膝をついて、少女を軽く見上げるような形になる。

「大きくなっても君の心が変わらなければ、その時は喜んでそのプロポーズをお受けしよう。それでいいかな」

 お嬢さん?と手の甲に軽くキスを送る。
 流石に少しキザすぎたか?と思って少女を見やれば、まるで茹でダコのようにぶわ、と顔を赤くした。そしてあっという間にぎゅうっと抱きしめられる。

「やくそくだからね、お兄さん! ぜったいのぜったい!」


***


 冷えた夜風に、ハッと現実に引き戻される。そうだ、俺は屋上に来ていたんだ。
 そのまま、今しがた思い出したばかりの記憶を静かに整理する。

『10年かけて見つけた、私の王子様』

 美琴の言葉からするに、彼女はあの時からずっと俺のことを想い続け、ついに見つけ出したというわけだ。10年前に一度だけあったきりの、名前も知らない男のことを。全く、彼女の行動力は昔から凄まじかったらしい。

「……まさか本当に、見つけてみせるとはな」

 きっと、そうさせてしまうほど彼女は俺に惹かれていたのだ。どこまでも真っすぐに。そういったブレない所は昔から変わらないようだ。

 ……俺はどうだろう。ポケットに入った古い携帯を取り出して、過去に受信したメールを眺める。

 ――本当の彼女にしてくれますか?

「いつまでも子どもなのは、もしかしたら俺の方かもしれないな……」

 パチリと携帯を閉じる。
 誰に聞かせるわけでもなく、俺はひとり呟いた。