06 もっと私を見てほしい
かち、かち、かち。
時計の針の音と、つけっぱなしにしたテレビの音声が控えめに鳴る室内で、テーブルの上に置いた俺用のマグから伸びる白い湯気が音もなく揺れる。
いつものように我が物顔で俺の部屋に居座る美琴は、制服姿でソファにごろりと寝転がりながら雑誌を読んでいた。ページを捲る度に彼女の丸い後頭部がわずかに揺れるように角度を変える。ふんふんと漏れる鼻歌を聞くに、かなりご機嫌であるらしい。それを見ている俺も、もうひとつのソファに座りながらぼんやりと新聞に目を通していた。
日曜の午後。
今日は珍しく差し迫った仕事も無く、ふたりとものんびりとそれぞれの時間を過ごしていた。
最近はすっかり黒の組織の動きが活発でこういった時間をとるのが難しくなっていたため、かなり貴重な休日である。いつぶりだろうと考えるのも馬鹿らしくなるほどだ。マグに口をつけて、ぱらりと新聞を捲る。するとある記事が目に入ってきた。高校生の学力低下が深刻で云々。俺はその記事をするすると読み進めながら、そっと静かに口を開いた。
「美琴」
「なあに秀一さん」
「前から思っていたんだが」
新聞から顔を上げずに俺は続けて言った。
「お前、学校の勉強は何時してるんだ」
彼女はこの家で一日の大半の時間を過ごす。だがしかし学校の勉強をしている姿を一度も見たことがなかった。仕事や家事、今のように娯楽に時間を費やす姿は嫌というほど見てきたのにもかかわらず、である。そのため以前から少しばかり気になっていたのだ。一体この子はいつ高校の学習を進めているのかと。
まあきっと高校ですべて終わらせてからここに来ているのだと、そういう返答が来ることを予想していたのだが、彼女は珍しく何も言わない。もうしばらく待ってみるが、やはり無言のままだ。
おや、と新聞から顔を上げれば、美琴はこちらに視線を寄こすことなく雑誌に夢中であった。
「や、やってるよ」
盛大なタイムラグの後、少しつっかえ気味に彼女が返答する。その声は素人でもわかるほど上ずっていて、真実でないことなど一目瞭然だった。
だがあえてそれには気づかないふりをして、俺は新聞を静かにたたみながらそうか、と言葉を続ける。
「ボウヤから聞いたんだが、今の時期、日本は絶賛テストシーズンらしいな」
「……」
「ボウヤの保護者の彼女も、最近勉強に追われて大変そうだと言っていたよ」
「…………」
「そういえば、確か君も彼女と同じ学校だったな」
「………………」
「……もう一度聞く。勉強はしているのか」
ばさり。
俺が新聞をテーブルに置いたと同時に、美琴はゆっくりと首だけで振り返った。
「……にゃはは」
蒼ざめた顔に、ひきつった笑顔。
それだけあれば返答には十分だ。
***
先ほどまでマグが置かれていたテーブルに、どさりと美琴の教科書が積みあがっている。それからノートと筆記具がそれぞれ周りに配置されていた。惰性でつけていたテレビはきっちりと消され、部屋は一段と静かに感じるようだった。テーブルを挟んだ向かいに座る美琴は正座をして膝の上に手を置いたまま、額にうっすらと冷汗を浮かべながらで目の前に開かれた真っ白いノートに視線を落としている。
「科目は」
「し、主要5教科7科目」
「いつからだ」
「……英語と数学と化学は、その……明日から」
じろりと視線を美琴に向ければ、さっと顔を背けられる。美琴にしては珍しく、動揺がわかりやすいほど表情に現れていた。俺はやれやれと溜息をつく。
「今まではほとんど一夜漬けか」
「うん。それで、なんとかなってた。なんとかギリギリ」
「……どうしてもう少し早いうちから手を付けておかなかったんだ」
「だって、勉強面白くないし。秀一さんから貰う仕事の方が面白いし」
それに、と美琴は俯きがちに言う。
「テストのせいで、秀一さんに距離を置かれるかもって、思って。……それが嫌だった、から」
まるで叱られることに納得いかずへそを曲げてしまった子どもの様な、そんな表情を浮かべながら美琴は唇を尖らせる。その瞳は若干潤んでさえ見えた。
……こういう顔を見ると、この子は本当に未成年の少女なんだと実感するな。
「学生の本分は勉強だろう」
「……」
ごめんなさい、とか細い声で謝ったきり、黙りこくる美琴。そんな彼女を他所に、俺はぱらりと教科書を捲る。高校時代なんて遠い昔に感じられるが、内容はそこまで忘れているわけではない。この程度なら問題ないだろう。
ちらりと時計を確認する。現在午後14時過ぎ。明日だという試験まであと12時間以上あるが……あまり余裕はなさそうだな。
「こうなってしまったからには仕方がない。手伝ってやろう」
「!」
ばっと美琴が勢いよく顔を上げてこちらを見た。その表情は神に縋る信者のように輝いていたが、じわじわと移り変わっていく。例えるならそう、悪霊を見つけてしまった子どもの様な表情といったところだろうか。表情がひきつったように不自然に固まっている。
「俺が教えるからには必ず満点を取らせてやる」
明日の科目であるという数学の教科書を手に取り、テスト範囲と書かれたページを開いた。
「時間がない。少々急ぎ足で行くぞ」
***
それからは夜通し勉強という名の戦いが始まった。
「この問題はこの公式に代入するんだ。後は計算」
「この公式どこから出てきたの?」
「教科書にある」
「見たこと無い」
「……78ページの、ここだ」
「うわ、本当にある。先生めんどくさくなって飛ばしたんだきっと」
「君が聞いていなかっただけだろう」
「いーや絶対飛ばした! 先生授業結構テキトーだもん」
「英語はある程度できているな」
「そりゃそうだよ。高校卒業して、いつか秀一さんと一緒に暮らすとしたら必要でしょ、英語」
「……暮らす?」
「あれ? 秀一さんってFBIだからアメリカ暮らしでしょ? だったら生活していくのに英語絶対必要じゃん」
「(アメリカまでついてくる気なのかこいつ……)」
「それよりここの文法が……って秀一さん? どうしたの? おーい」
「夜食は何がいい」
「秀一さんの作ったオムライス!」
「却下」
「ええー!」
「……ごめんね秀一さん」
「急にどうした」
「忙しいのに、こんなことにつき合わせちゃって」
「こちらの依頼した仕事にかまけて勉強が疎かになっては本末転倒だろう。悪いと思うなら、普段からきちんと勉強を進めておけ。次は付き合わんからな」
「はーい……」
初めは初歩的なミスを連発していた美琴だったが、俺が解説をしてやればすんなりと理解できたらしい。続けて出した類題を躓くことなく回答してみせた。
難問にひいひい言いながらペンを走らせる美琴をぼんやりと見ては、あんなとんでもないことをやってのける割にちゃんと人並みの高校生なんだと実感し、思わず笑みを零してしまったのは内緒である。
***
時は流れ午前6時過ぎ。
最後まで苦戦していた問題に正解のチェックをつけてやれば、美琴はぐったりと机に突っ伏した。
「おわったー!」
「一先ず、これだけできれば今日の科目は何とかなるだろう。明日の分の科目は帰って来てからだな」
「うええ……まだ続くのかあ……」
「当たり前だ」
美琴は机に突っ伏したまま不平不満をぐだぐだとつぶやいた。そんな美琴をそのままに俺はすっくと立ちあがり、テーブルを離れる。
「少し仮眠をとっていろ。その間に朝食を用意してやる」
「それってもしかして手りょうr――」
「トースト(焼くだけ)と目玉焼き(焼くだけ)と牛乳(コップに注ぐだけ)だ」
「それだけでもうれしい!! 手料理嬉しい!!」
いやっほう!と謎のテンションで美琴は喜びを露わにする。寝てろと言ったのに、困った奴だ。
スケジュールを脳内で組み立てながら数分で朝食を用意し、リビングに戻れば美琴はすっかりすよすよと寝息を立てていた。その眼の下にはうっすらとクマが居座っている。彼女が一晩中頑張った証だ。
もうすこしだけ寝かせておいてやろう。俺はそっと食器をテーブルに置いて、彼女の頭を静かに撫でた。
***
嵐のようなテスト期間が無事に過ぎ去ってから数日後。
帰宅して早々、美琴が受けたテストの結果を見せつけてきた。自信満々に掲げたその答案用紙にはどれも3ケタ満点の数字が並んでいる。
「ねー秀一さん、私超頑張ったよね」
「ああ、そうだな」
「だからさ、……ケーキ屋さんに行きたいなー、なんて」
「ケーキ屋?」
「あ、その、買ってなんていわないし、連れてってくれるだけでいいから」
しどろもどろになりながら慌てて言い訳めいたことを付け加える。恐らく、俺に払わせるわけではないことを伝えたいのだろう。
金銭面に関して、彼女はとてもきっちりしていた。実際、彼女が俺に何か買って欲しいと強請ったことは無い。一度もだ。おそらく彼女の育ちに関係しているのだろう。確か一度FBIが身辺調査をした時に、彼女は頼れる肉親が母親しかいなかったと記憶している。そういう意味では、金銭面において色々と気を使って生きてきたのかもしれない。
俺の懐がそこまで逼迫しているわけでも無いし、それを彼女自身よく知っているだろうに、そういうところは真面目というかなんというか。
俺は未だに申し訳なさそうな表情を浮かべる彼女に向かって、ため息交じりに言う。
「ケーキのひとつやふたつくらい、お安い御用だ」
彼女のクマの濃い寝顔を思い出し、小さく笑って言った。
「頑張ったからな。そのご褒美だ」
俺の言葉を聞いた美琴は一瞬きょとりと固まる。そして次の瞬間、ぶわわと顔を赤らめてしまった。今にも頭からぷすぷすと湯気を吹き出さん勢いの美琴に背中を向けつつ、さっとジャケットを手に取る。
「支度は」
「もうできてる!」
制服姿の美琴が慌てて俺の後をついてきた。
特に場所にはこだわらないというので、車で数分の所にあるケーキ屋へ向かった。ガラスケースの向こうに並ぶ煌びやかなケーキを見ながら、どれにしようかと美琴は頬を紅潮させながら悩んでいる。その百面相は見ていて飽きないな、なんて思いながら腕を組んでぼんやり眺めていると、不意に声を掛けられた。
「あれ? 美琴姉ちゃんと……赤井さん?」
声のしたほうへ視線を向ければ、そこに立っていたのは大きなメガネをかけた小学生の少年だ。確か名前は……江戸川コナンだったか。普通の小学生に見えるが、ジョディがクールキッドと呼んで一目置くほど頭のキレる少年だという。この間の水無怜奈の一件の時も作戦に大きく貢献したのだとか。美琴とも保護者の彼女を通じてそれなりに面識があるらしい。
因みに俺とボウヤが会うのはほとんどその水無怜奈の一件の時以来だ。
「ボウヤか」
「珍しいねコナンくん。こんなところで会うなんて」
ひょいと美琴が俺の身体から身を乗り出すようにしてボウヤに笑いかける。
「僕は蘭姉ちゃんのおつかいだけど……ふたりは?」
「美琴がケーキ屋に来たいというから、その付き添いだ」
「ふーん」
ボウヤは初めから買うものが決まっていたようで、ガラスケースの向こうのとあるケーキを指さしながら店員にこれ3人分くださいと注文していた。
「そういえば蘭姉ちゃんから聞いたよ。美琴姉ちゃん、また記録更新したんだ。すごいね」
思い出したかのようにボウヤは美琴を称賛する。だが全く心当たりのない俺は思わず聞き返した。
「記録?」
「あれ、赤井さん知らない? 美琴姉ちゃんが高校入学してからテストでずーっと100点取ってるって話」
その言葉を聞いた途端、美琴がぴしりと固まったのがわかった。だがボウヤは気にする様子も見せずに話を続ける。
「授業中もずっと他のことしてて、勉強してる姿なんて1回も見たこと無いのに、100点以外とらないんだって。それで、今回も楽々全教科100点取ってたって蘭姉ちゃんから聞いたんだ」
すごいよねー、とボウヤは笑う。そして店員からケーキを受け取ると、じゃあまたねと言って去って行ってしまった。
店内に残されたのは、俺と美琴のふたりだけ。
「美琴?」
俺が名前を呼べば、ぎくりと肩を震わせて美琴は固まる。そしてゆっくりとこちらに顔を向けた。
「にゃはは……」
蒼ざめた顔に、ひきつった笑顔。
それだけあれば返答には十分だ。
***
「どういうつもりだ」
「だってだってだって! 秀一さんに勉強教わってみたかったんだもん!! 勉強を教える秀一さんとか絶対かっこいいから一度でいいから見てみたかったんだもん!!」
「……帰る」
「あ”ーーーー! ごめんなさいごめんなさい!! もうしません!! ゆるしてーー!!」