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自宅の近くで水道工事が行われているせいで、朝っぱらから賑やかな音が私の部屋まで届いていた。テレビ番組をつけ、どんなに音量を上げても掻き消される。折角の休日をそんな騒音の中で過ごすのは勿体なく思い、すっかり行きつけになった喫茶店で時間をつぶすことにした。窓から見える空は、夏とは違った突き抜ける青さで遠く感じる。
あの日から、ビルの屋上で中原さんと花火を見た日から、恐ろしい速さで毎日が過ぎていった。お盆に少し帰省したり、学生時代の友人と会ったり、仕事も忙しかったりと、何かと毎日が充実していたからかもしれない。
あれから、中原さんとは会っていない。彼も忙しいのだろう。以前は、何か些細なことでも連絡をしていた。たまたま入ったお店が美味しかっただとか、あの映画はよかっただとか、他愛のないことを思いつくがままメールをしていたというのに、最近はめっきり送っていない。否、送れなかった。メール画面を開き、何か打ってもすぐに消す、その繰り返しだ。
カラン、とグラスの中の氷が溶けて涼しげな音を立てる。アイスコーヒーの季節もそろそろ終わる。温かい飲み物が恋しくなる季節はもうすぐそこだ。
「相席、いいかな?」
「!」
突如、頭上から降ってきた声に驚いて顔を上げれば、そこには中原さんより久しく会っていなかった太宰さんが立っていた。通りがかりの給仕さんにホットコーヒーを頼み、私の向かい側に腰掛ける太宰さんは、今日もまた国木田さんの目を盗み休憩をしているのだろうか。
「勿論です。お久しぶりですね」
「其処を通っていたら、窓越しになまえちゃんが浮かない顔で座っているのが見えてしまってね」
「ええっ、私、元気ですよ?」
「そうかい?ならよかった。それにしても、少し見ない間にまた一段と綺麗になったね」
まるで、恋をしている女性のようだ、
その言葉に全身を巡る血液が、まるで沸騰したかのような感覚を覚える。身体が熱い。
それにしても、恋?私が?一体誰に?
妙なリズムで脈打つ心臓を鎮めるためにそんな自問自答を胸のうちで繰り広げるが、本当は、だいぶ前から気づいていた。私は、自分の気持ちに気づいてないふりをしていただけなんだ。彼に迷惑をかけたくない、彼との関係を壊したくない、願わくば、この居心地の良い関係をずっと築いていたい、そんな思いから私は自分の気持ちに目を背けていたのだ。
「、、太宰さんは、すごい観察力ですね」
「おや、その様子だと図星かな?だとすれば、残念だなあ。なまえちゃんと心中する事が私の密かな願いだったのに」
「ふふ、ごめんなさい。でも太宰さんくらい素敵な男性なら、引く手数多でしょう?」
「なまえちゃんにそう言ってもらえると、光栄だね」
ふざけた様子でそんなことを言う太宰さんに、つい笑ってしまった。それにしても、さすが武装がつくとはいえ探偵社に勤めているだけの洞察力があるなあと感心してしまう。毎日のように顔をあわせる同僚にすら、気づかれなかったのに。
ストローを咥え氷が溶けて少し薄くなったアイスコーヒーを口に含み、約半年前になるあの日のことを思い浮かべる。風に飛ばされてきたシャツを返すべく、玄関先で初めて出会ったあの瞬間から少しずつ始まっていた。つまるところ、最初から私は彼に惹かれてしまっていたんだ。
中原さんの事が好き、それは紛れもなく友人や家族に向けるものとは違う気持ちだ。
運ばれてきたコーヒーの香りが、ふわりと鼻をくすぐる午後三時すぎ、私は自分の気持ちを認める事にした。
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コーヒーが運ばれてすぐ、国木田さんが現れ以前と同じように連行されていった太宰さんを見送った後、しばらく店内で本を読んだり仕事の書類を纏めたりと、時間を潰して店を後にした。目を刺すような青から茜色に変わった空には、山の寝床へと帰るカラス達が飛んでいる。
見慣れた道をいく足取りが、心なしか軽く感じる。自分の気持ちを改めて認める事が、こんなにも清々しいとは。
秋の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んでいると、ポケットの携帯電話が震えだす。
まるでタイミングを見計らったかのような電話に、自然と胸が高鳴った。
「お久しぶりです、中原さん」
『よお、元気にしてたか』
「はい、中原さんはどうですか?」
『ぼちぼちだな。それより、お前今夜暇か?』
「!ええ、今日はお休みなので」
『じゃあそのまま予定空けとけよ。仕事終わったらまた連絡する』
「わかりました。お仕事、頑張ってください」
私の言葉に、おう、と短く返事をした中原さんは私の気持ちに気づいているのだろうか。通話の終わった画面を見てぼうっと、そんな事を考えてしまう。好きだと認めたはいいものの、自分がどうしたいのかはまだぼんやりとしたままだった。気持ちを伝えたい、付き合いたい、そういった欲求は今の所あまりない。いや、勿論お付き合い出来るのであれば嬉しいに決まっている。だけど、もし万が一、マフィアの中原さんと一般人の私が恋人になれたとしても、きっと沢山迷惑をかけてしまう。それだけは避けたい。彼の足手纏いになるくらいなら、このまま友人関係を貫いた方がマシだ。
結局のところ、好きだという気持ちを認めても何ら変化はない、振り出しに戻ってしまった。
今晩会うとき自然に振る舞えたらいいけど、
そんな心配をしながら足を止める事なく歩いていると、一台の黒塗りの車が近づいてきた。水垢の1つも見当たらないほどピカピカに磨かれたそれの窓が開き、運転席から一人の男性が声をかけてきた。
「すみません、道をお尋ねしたいんですけど、いいですか?」
「はあ、どちらに行かれるんですか」
燃えるような赤で西の空へと太陽が沈んでいく時間帯、加えて人通りの少ないこの住宅街に、どうしてこんな高級車が、と少し不審に思ったが中から出てきた30代半ば程に見える男性の、人当たりの良さ気な笑顔に警戒心を解いた、
その時だった。
「ッ?!」
突如、何者かに背後から口元を布で塞がれる。抵抗しようにも私の身体を拘束する腕の力は、一般男性のものよりはるかに強くビクともしない。
鼻と口をすっぽりと覆う布からは、独特の匂いがした。これは、薬品?
歪み始めた景色と次第に遠のいていく意識に、頭の中で警鐘が鳴り響く。まずい、この手を振りほどいて、逃げな、きゃ、
最後に聞こえたのは、乱暴に閉められた車のドアの音と上手くいったな、という男達の会話だった。
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