09
「………………じゅう、……ンン、じゅうじ」
掠れた喉になにか引っかかった感じがあって咳払いをする。ベッドから身を起こしたおれは背中に巻きついていたローくんの腕をすり抜けて時計を読んだ。
「……ねすぎた」
頭が重たい。くらくらする。
「ろーくん、朝だよ。昼前だよ」
「…………ん」
まだ寝てるみたい。
二人揃ってあまり体温は高いほうではないようで、おれの脚を挟んだローくんの脚がひんやりしてて気持ちよかった。
おれが落ちたあとローくんはおれの身体も綺麗にしてくれたみたいで、ベッドの枕元にはくたくたになったタオルが置かれている。
「ローくんってば、起きてよ」
すこし揺すってみたけど反応はない。困ったなあ、とおれは眉を下げた。
ゆうべのあれは夢じゃないんだなあ。そう思いながら、おれはローくんの頭をふかふか撫でる。どうしよう。いやどうしようもこうしようもないんだけど、ローくんとそういう関係になってしまった。どうしようもなく恥ずかしい。
もっと可愛げもあって、スマートに抱かれるつもりだったのに。あんな、あんな……色狂いみたいによがってしまうなんて思いもしなかった。どっかおかしくなったのかなおれの身体。
するとドアの向こうに誰かの気配。次いでコンコンとノックされる。
「キャプテーン、そろそろ起きてよー」
ベポくんだ。とりあえずドア開けたげたほうがいいのかな? そう思っておれはベッドを抜け出してベポくんに挨拶するつもりでいたのに。やや遅れてローくんはのそりと起き上がりおれの腕を引っ張ってベッドのなかへと押し込んだ。
「?」
「ベポか」
「なんだ起きてたのキャプテン。ごはんもうお昼と一緒にしちゃう? コーヒー飲む?」
「ああ、二人ぶん」
「やっぱりニアここで寝たんだね。じゃあすぐ持ってくるよ」
とたとたとベポくん特有の足音が部屋の前から離れていく。
おれはベッドの中からローくんを見上げた。
「……おはよ、ローくん」
「ああ。おはよう」
起き上がったローくんから広い手のひらが降りてきて、おれの頭をくしゃっと撫でていく。
「…………、ちがうんだよ」
「なにが」
「あんな……もう……忘れちゃいたい」
「ふうん。おれは忘れねェよ。あんなに好き好きって、」
「ばかばかばか!」
飛び上がってローくんの口を手で覆った。
「何が違うって?」
おれの手をやさしく退けたローくんは意地悪な笑顔でおれを追い詰める。
「……もっと……こう……、ローくんみたいにおれだって、余裕持って」
「…………余裕なんかあるかよ、バーカ」
せっかく起き上がったというのにローくんはおれを引き寄せて、再びベッドへと沈んだ。
「おれのモンだ」
囁くローくんは、その胸の中におれの身体をすっかり抱き込んでしまう。
「……ニア」
「ん? なん、ですか」
「好きだ」
おれの頭に顔を埋めて、ローくんはまるでお祈りみたいに言った。おれもだよ。世界でいちばん、ローくんのことが好きだよ。
◆
時が経てば経つほどに、おれの頭の中でゆうべの記憶が鮮やかに蘇ってくるようだった。
結局そのままもう一回、というわけにもいかず。おれはローくんの腕の中から抜け出すと、床やベッドへ放り投げられたままの衣類を掻き集めて身につけた。じきベポくんがコーヒーを淹れてやってくるとなれば呑気に全裸で船長の腕に抱かれているわけにもいくまい。
「…………はあ」
昨日寝る前のままの格好に戻ると、おれはひとつだけため息をついた。目敏いローくんはそんなおれの態度に、その眼差しを鋭く細める。
「なんだ。今更後悔してんのか」
「ああ、いや、そうじゃ……ないけど」
「けど?」
「…………あんな抱き方してきて今までよく刺されなかったね」
おれが女の子だったら。ふらっと島に立ち寄った海賊にあんな抱かれ方されてさっさとお別れなんてされちゃあたまらないだろうな。
「……あんなってのがどんなのかは知らねェが、そっくりそのままお前に返す」
「はあ?」
「あんな抱かれ方でよくもまあフラフラできるもんだ」
言外にドフィとのことを織り交ぜるような口ぶりでそう言ったローくんは、その細長い脚にジーンズを通していく。
「いや、だから言ったでしょ。あんな……なっちゃったの、今までなかったっていうか……その、こんなのはじめてぇ〜、みたいな」
茶化すようにごませば、ローくんは不敵な笑みを作って「ならおれも同じだ」なんて小っ恥ずかしいことを言ってのけるのでおれは頭を掻き毟りたくなった。
「言い出したのおれだけど、もうやめよ? ゆうべの反省会みたいなの。童貞と処女かよ」
「賛成だな」
「…………どっと疲れた」
これからもあんな風に抱かれちゃいつか死ぬとおれは確信してる。死ぬまでいかずとも、あんな夜を過ごすようになってみろ。いまにセックスジャンキーが生まれてしまう。女の子なら別にそれはそれでいいのかもしれないけどおれは男なわけだし、それなりに意地もあるし。
一週間も経たないうちに「もうローくんのおちんちん以外要らない」なんて口走るのは目に見えてる。そのくらいの衝撃だったわけだ、おれにとって。
あれはまずい。本当の意味でオンナにされると思った。いやそれはもう時間の問題というか、手遅れなのかもしれないけど。恐るべしトラファルガー。
「キャプテン、ニア。コーヒー持ってきたよ」
ノックと共に、救いの神が舞い降りた。
おれはベッドを離れてドアを開けてやる。白くてふっわふわのベポくんが、にっこり爽やかな笑顔でコーヒーカップがふたつ乗ったトレーを持っていた。
「おはよう、ニア。よく眠れた?」
「おはよ。おかげさまでね」
あんまり眠れてません。
「ここ、物置に戻しちゃうならニアの部屋も考えなくちゃね。空いてる部屋あったかなあ」
「……ここで、」
「よくないよねローくん」
馬鹿言うな。
そんな視線を投げてやれば「不服か?」とでも言いたげな視線と交わるので、おれはとっさにベポくんへと向きなおる。
「おれベポくんとおんなじ部屋がいい」
「ほんと?」
「うん。あ、でもベポくんいまひとりで部屋使ってんだっけね」
食事を運んでくれてたときにそんな話を聞いた覚えがあった。
「そうだよ。だから大歓迎!」
「まじ? ほんと? 嬉しい!」
「ほんと! 片付けておくから、あとで荷物持っておいでよ。ねえ、いいよねキャプテン」
くるっとおれもローくんを振り返る。
しばらくローくんは不満げな面持ちで黙り込んでたけど、ふたりぶんの眼差しに根負けしたのか、深くため息をついてベッドから降りてこちらへ歩み寄ってきた。
ローくんは、おれが受け取ったトレーからカップをひとつ取り上げてひとくち傾ける。
「好きにしろ」
「ありがとキャプテン!」
「ありがとローくん」
シャワーと着替えを済ませたあと、そう多くない荷物を持ってベポくんのお部屋へ運び込んだ。真っ白なシーツの敷かれたベッドがふたつ。ひとつは大きくて、ひとつは小さい。聞けば余ってるベッドがあったので先に運んでおいてくれたらしい。
「必要なものがあったらまた買いに行こ。机とか要るかな? 倉庫にいくつか使えそうな家具もあったけど」
「おおー、ならあとで一緒に見に行って」
「お安い御用だよ」
ベポくんは言うなりおれの手から荷物の入ったリュックを取って、おれのベッドの上へ乗せてくれた。
「……ねえ、ニア」
「うん?」
「キャプテンね、ずっとニアに会いたがってたんだよ。ほんとだよ。素直には言わないだろうけど、小さい頃はニアの話をおれたちに聞かせてくれたんだ」
……ベポくんから聞くのはずるいだろうか。とも思ったけど、他のひとからローくんの話を聞くのは別に悪いことじゃない……よね、多分。おれは「へえ」と興味ありげに返事をして、自分のベッドへ腰掛けたベポくんの隣へと腰を下ろす。
「たいせつなひとがふたりいたって。ひとりはもう死なせてしまったけど、もうひとりは絶対死なせたくないって」
「……うんうん」
「今は守る力がないからどうしようもないけど、強くなったら必ず迎えに行くんだって。だから今のキャプテンがあんなに強くてカッコいいのは、ニアのおかげかもしれないね」
まさかそんな風に言われるとは露ほども思っちゃいなかったので、おれは狼狽えてしまう。
「……ふへ」
「あ、ニア変な顔」
「んんん」
むい、っと自分の緩んだ頬を両手で挟む。
しばらくモゴモゴやったあと、おれは隣のベポくんをぐいっと見上げた。
「ローくんは昔からカッコよかったよ」
「やっぱり」
「うん」
「じゃあ、ニアのボス……だったひとは、どんなひとなの?」
思いもよらない質問に、おれは息を飲んでしまう。
「…………どんな」
「言いづらい?」
「いや……ううん。すごく悪いひとだよ。ローくんのたいせつなひとを殺したこともそうだけど、他にも悪いことたーくさんしてる」
「ふうん」
「……でも、おれにとっては……いい兄貴で、いい父親で……いい飼い主さま」
瞼を落としてドフィのことを思った。悪いひとだけど、おれにとってはいいひと。この命があるのはあの人のおかげだ。それはわかってる。わかってるくせに、おれは裏切った。
「…………、だったよ」
するとベポくんは大きくてふかふかした前足? で、おれの頭をぽんぽん撫でてくれる。
「それ、おれちょっと分かるよ」
「そお?」
「海軍たちには『死の外科医』なんて呼ばれてるけど、おれたちのキャプテンはすっごくカッコいいし、とっても優しい」
「……うん」
「だから、きっとニアにも似た気持ちがあるってことだ。悪いことじゃないと思うよ」
よしよし、とあやすみたくベポくんが頭を撫でてくれた。ベポくんのほうが年上みたいだ。
「いちばんはキャプテンなんだよね?」
それでも何処となく不安げな語調で繋げられた言葉に、おれは反射的に口を開く。
「あ、あ……たり、まえ……」
「そっか!」
「っていうか……にばんとか、ないし。おれには」
満足そうなベポくんは再び「そっか!」と笑って言った。
◆
おれがローくんと再会してから数日が過ぎたわけだけど、世間はポートガス・D・エースの処刑が本日もう間も無く執り行われる話題で持ちきりだった。
行きつけのマーケットで食材の買い出しをしているときにもあちこちで号外が配られており、このシャボンディ諸島でも映像電伝虫で死刑執行の様子を中継するらしい。
「殺人ショーの中継とか趣味悪いよねえ、海軍ってとこは」
「ほんとだね、ニア」
すっかり仲良くなったベポくんとふたりで、食材の詰まった大きな袋を抱えて歩いている。
「ねえニア、買い逃したのないかな」
「大丈夫でしょ。買い出しお疲れさま。帰ってお茶に……あれ、ローくんたちだ」
停めてある船のほうから、ローくんや他のクルーくんたちが数名連れ立って歩いてくるのが見えた。どうしたんだろう。なにか買い足すものでもあったのかな。
お出迎えしてもらえたようで嬉しくて、ローくんが視界に入った途端駆け出していた。
「あ、ニア。走ると危ないよ〜!」
重たい荷物を抱えたまま小走りになって駆け寄る。
「なになに、お出迎え?」
「帰りが遅いんでな。迎えに行こうか話してるとこだった」
「え、嘘。そんなに時間経ってないよね。どして?」
問えば、ローくんはエースの処刑中継を見に行くのだと言う。
「趣味が悪い」の一言では済まされないのは理解してた。あの白ひげが、自分のところの人間が処刑されると知って乗り込んで来ないはずがない。ローくんは、海軍と白ひげの正面衝突を見届けるつもりでいるんだろうな、とおれは思った。
巨大スクリーンのある広場が見える場所まで船を移動させると言うので、おれは抱えた荷物をベポくんと一緒に船へ運び込む。
食料庫で食材の仕分けをしていると、ポーラータングが海中へと潜り始めた。
興味がないといえば嘘になる。
おれは皆と一緒に処刑中継は見ないでいた。聞くところによれば七武海も戦争に参加するというので、甲板へ上がる足が竦んだ。
ドフィが居る。そう思うと中継を見る気なんて起きなかった。目を背けていられるうちはいい。考えないようにして楽しく過ごせるうちはいい。
だけどこの先、いつかあの人と相見えるのは決まったようなものだから。
「……いくじなしの、おおばかやろー」
いつか向き合わなくちゃならないことなんて分かってるよ。
だから今はあの人の顔は見たくない。
それは、ローくんについていくという決意が揺らぐからだとか、そんな理由じゃなかった。この気持ちはこの先決して揺らがないのだ。
なら何故。どうしておれはドフィの顔を見ることを拒んでしまうんだろう。
「いい兄貴分だったから……」
ベポくんの赦しの言葉を頭の中で繰り返し呼び起こしながら、おれはひたすら食料庫の整理を続けていた。
「……怖がってるんだろうなあ、おれは」
そうしてひとりぼやきながら手だけは動かしていると、突然船が潜り始めたことに気づく。もう出航? もう中継は終わっちゃったのかな。いやに呆気ない幕引きだ。なんて考えながら、整理もひと段落ついた食料庫をあとにして皆がいそうなところへ行こうと船を歩いていると、ちょうど船長室の前でローくんと鉢合わせた。
「もう出航するの? それとも海軍に見つかった?」
「出航だ」
「へえ、突然だなあ。もう少しゆっくりしてくのかと思ったよ」
「マリンフォードへ行く」
「…………?」
マリンフォードへ?
「海軍本部へ行くと言ったんだ」
「き、聞こえてるし分かってるよ……! 意味は分かんないけど」
「…………」
するとローくんは、船長室のドアノブに手をかけたまましばらく考え込む。
「ニア」
「うん?」
「降りンじゃねェぞ。この船」
「……はは、里帰りにはまだまだ早い」
するとローくんはおれの頭をポンとひとつ撫でて、船長室へ入ってしまった。
ローくんは一体、処刑中継で何を観たんだろう。何を考えて海軍本部に向かおうとしてるんだろう。そんな疑問を抱えたものの、ローくんが決めたことならおれは素直に従うだけだ。
キッチンから冷たい飲み物を持って自室に戻る。倉庫から持ち出してきた三人掛けの広いソファにぽつんと腰掛けてお茶を飲んでいると、ぐん、とポーラータングの脚が速まった。
急いでいるということはまだまだ戦争は真っ只中なのか、はたまた終盤なのか。
おれにとってはドフィがそこに居るということくらいで、戦争の結末についてはあまり関心はないのかもしれない。
「…………」
空になったグラスを手で包む。その冷気がおれの頭を少しずつ冷やしていくようだった。
どうしてか、居ても立っても居られなくなる。
中継を観なかったのはおれの意思だ。観ろと強制されたわけでもない。ローくんも何やら察してくれた風だったので、甘えてしまったのもある。
「……行こ」
グラスをサイドテーブルへ置くと、おれは腰を上げて部屋を出た。向かう先はローくんの居る船長室。ノックをして「ニアだよ」と告げれば、ややあって入室を促される。デスクの椅子に腰を下ろしたローくんは、なにやら資料と新聞を交互に眺めていた。
「……戦争してるとこに突っ込むの?」
「ああ」
まだ終結してはいないんだなあ。
おれはゆったりした足取りで、ローくんの居るデスクへと歩み寄る。
「中継が途中で切断された」
「なるほど、そういうわけ」
「……向かって損はねェ」
確信めいた口ぶりで言ったローくんは手元の資料をまとめ上げて、引き出しに押し込んだ。
「あの人もいた?」
「いた」
簡単な返事を寄越すローくんは、別段機嫌を悪くしたようでもない。
「……戦争かあ」
「気になるなら観てりゃよかったのに」
「…………うん、ほんとそうだね」
船が到着するまでしばらくあるので、ローくんはマリンフォードで何が起こっていたのかを簡単に話して聞かせてくれた。
「麦わらくんが来てるの」
「逐一デカい事件の度に顔出しやがる」
「気になってるんだ」
「まあ、興味はある」
珍しいこともあるもんだなあとおれが感嘆していると、ローくんはすこし難しい顔をする。
「なにか心配ごと?」
「…………たいしたことじゃない」
「ローくんは何するつもり?」
「……状況を見て判断する」
「そっか。ならおれもそうするね」
ふと片眉を上げるローくんは、そのままじっとりおれを見つめてきた。
「え、なに? 別に馬鹿なことなんて考えてないよ。ローくんのお手伝いがんばるね」
「…………気が抜けるやつだ。海軍の総戦力と白ひげが殴り合ってるとこに行くんだぞ。うっかり死ぬな」
「やだ脅かさないでよ」
そんなやり取りをしていれば廊下に慌ただしい足音が響く。足音の主は船長室の前で止まるとノックを二回。続けて、マリンフォード近海へ到着したことをローくんに報告した。
◆
「そいつをここから逃す! 一旦おれに預けろ! おれは医者だ!」
マリンフォードにほど近い辺りの海面から潜望鏡を覗いて状況を確認した我々ハートの海賊団は、一度海底深くへ潜ったのちに海軍の本拠地へと颯爽と浮上した。
表へ出て行くなり大声で叫ぶローくんを尻目に、おれは出入り口付近から様子を伺う。風が運んでくるのは火薬の匂いと血の匂い。随分死んだろうなというのは嫌でも分かった。
沖から攻めてくる海軍の砲撃をなんとか凌ぎきると、上空から二つの人影が落っこちてくる。ひとつは麦わらくん。ひとつはジンベエ。
しっかり抱きとめられた二人の身体はすぐさま船内へと運び込まれた。
一部始終見届けつつ、おれは陸地の方へと視線を流してしまう。
やめておけばいいのに。
怖いもの見たさなのかなんなのか。懐かしさを追いかけたのかもしれないし、自分にとっての脅威がどこにあるのかを確認したかったのかもしれない。
おれはその人の形を視界に入れると、口の中で「ドフィ」と呟く。彼とはかなりの距離があったので、気づかれるわけもない。久しぶりに見るその姿は相変わらずだった。
重症患者を運び込んだ船内の騒がしさに気づいた途端、おれは意識を引き戻される。
「キャプテン! 四皇珍しいけど早く閉めて!」
「ああ……待て、何か飛んでくる!」
はっとしてローくんのほうを見やればその手には麦わらくんが麦わらたる証、トレードマークの麦わら帽子が掴まれていた。
「帽子?」
「ニアも! ホラ早く! 潜るんだから!」
「ん、んん、ごめん!」
怒号の飛び交うなか、仕掛けられる攻撃をなんとかやり過ごす。本日何度目かの急速潜航を行うポーラータングに掛かる圧力に少々フラつきながら、おれはすぐさまオペ室へ向かった。
「止血剤と、追加の輸血パック」
「ん!」
薬剤室から運んできたそれらをシャチくんに手渡す。
その隣でローくんは至極真面目な顔つきで以って手術に臨んでいた。オペの方法こそ能力によって常軌を逸しているものの、完璧な技術だと思う。
ふたりとも、誰がどう見たって殆ど死んでるようなものなのに。この人はそれを救うことができるんだなあ。おれの学んだ医学は付け焼き刃なものの、オペの手伝いをしながら改めて実感した。ローくんって人は本当にすごい男なんだ。
「…………かみさまみたいだ」
オペに集中してるローくんには聞かれないで済むよう、ぽつりと呟く。それからおれは薬剤室と手術室を何度も何度も往復した。
悪縁も縁。こんなところで死なれてはつまらない。ローくんは麦わらくんに対してそんな風に言ったけど。どうしてそこまで目を掛けるんだろうな。
今日も今日とて不思議な思考回路のローくんは時折険しい表情をしつつも、ふたりの命を取り留めるために気を抜かず手を動かしている。おれが補佐してあげられることなんて実はあんまりないので、手術室を追い出されるのも時間の問題かもしれないな。とは思いつつも、なにかローくんを手伝うことができるならと仕事を続けた。
ローくんが気にしてる麦わらくん。ローくんがオペをしてるから大丈夫だとは思うけど。どうかまた目を覚ましてくれますように。
「おつかれさま、ローくん」
「…………ああ」
「上に行くんでしょ。おれ見てるから」
オペを終えたローくんにふかふかのタオルを差し出せば、ローくんは短くお礼を言ってから手術室を出て行った。おれは麦わらくんのベッドのそばに置いた椅子に腰掛けている。
まだまだ顔色も良くならない。弱々しい呼吸は人工呼吸器によって支えられ、止血剤の点滴はすこしずつすこしずつ落ちていく。
それでも確かに脈はある。脈はとても微弱だったけど、麦わらくんの身体はまだ生きようとしてるはずだった。
生きられる保証は無いとローくんは去り際に言ったけど。可能性はゼロじゃないってこと。なによりトラファルガー先生はすごいお医者さまなんだから。だから、ふたりとも死なないで。
祈る思いで、おれはふたりの身体に張り付いた血液を暖かい蒸しタオルで拭いてやる。
すごいなあ、ローくんは。あんな瀕死のふたりをなんとかここまで治療してみせた。ジンベエだってかなりの重傷だけど、問題は麦わらくんなのは見ればわかる。なのに見事なものだった。悪魔の実の能力だけじゃない。やっぱりローくんが持つ医者としての手腕は伊達じゃない。
目を覚ますかどうかは彼自身の気力と、生命力にかかってるんだろう。並大抵の回復力では追いつかないだろうけど……それでも、
「ン゙……うぅ、」
「わ! わ、わあ、ジンベエ……!」
ベッドで何か動いたから振り返ると、ジンベエが身体を起こそうと身をよじっている。
「だめだよ、動いちゃ。死んじゃうよ」
「…………ッ……トラファルガー・ローは」
「……教えたら行くんだろ。だめだめ。患者さんなんだから大人しく、」
「…………」
ジッと見つめてくるジンベエの瞳は、どうしても、と訴えていた。
「……おれが怒られちゃうのに」
椅子を回転させて立ち上がり、おれはジンベエの肩の向こうへと手を差し込む。
「起こしたげるから、せーので力入れて」
「すまんなぁ」
「いーよいーよ。今行かなきゃいけないんでしょ……はい、せーのッ」
力を入れ過ぎれば傷に障るので、おれは手を貸す程度にジンベエの上半身を起こす手助けをしてみる。すると思ったよりもフラつかずに起き上がった彼は、ぎこちなく笑んだ。
「助かる」
「船長に言ったげて。甲板だよ」
「…………ルフィ君は」
「……どーだろね。まだ何とも。呼吸も弱くて安定しないし、心拍も不安だし。そもそも内臓がいくつもやられてるから……んー、お医者さまの限界ってとこまでやった。あとは麦わらくん次第じゃないかなあ」
当然ジンベエは心配そうな面持ちで麦わらくんを眺める。その視線を追いかけて、おれは再び麦わらくんの方へ椅子をぐるんと回した。
「杖とか要らない?」
「ああ、大丈夫じゃ」
「あとで船長に怒られたらあんたのせいだかんね」
するとジンベエは掠れた声で、もう一度「すまんなぁ」とぼやいてから手術室を後にする。
◆
七武海であるハンコックの誘いを受け、ポーラータング号は麦わらくんを乗せたまま凪の帯を抜けて女ヶ島へ向かうことになった。
男性が踏み入ることを決して許さない島であるのに、その女帝にウチで匿うと提案させるほどの男なのか、麦わらくんってやつは。
たどり着いた島は穏やかな気候で、身体を休ませるにはもってこいだなあと思った。ここでしばらく療養するとは言え、麦わらくんがこの先どうなるかはローくんにだって分からない。
身体的ダメージもさることながら、精神的なショックもかなりの物だろうというのがローくんの見立てであるので、おれたちが経過観察をしてもあまり力になれないかもしれないし。
と、おれは空っぽになった麦わらくんが居たベッドのシーツを剥ぎつつ考えた。あちこち血がこびりついているので、これはもう捨てちゃおう。
あれから何日経ったかな。
船の外では、目を覚ました麦わらくんが声の限りエースの名前を呼びながら暴れまわっている。船内に居ても聞こえるくらいなので、外に出れば大変だろうなあ。
大切なひとが死ぬのは悲しくて辛いことだ。
自分の兄貴分ともなれば尚更だろうに。
「……ローくんは、ちゃんと泣けたのかな」
場違いにもおれは十一年前に想いを馳せながら、ひとりで手術室の掃除を進めていく。
除はローくんから言いつけられた罰則だった。あの日、絶対安静の患者をベッドの外に出したから。あれからしばらく、手術室の清掃と器具の消毒なんかはおれの仕事になってしまった。覚えてろよ、ジンベエ。あんたのせいだぞ。