02
目が覚めたのは相変わらず深夜だった。寝汗に濡れた額を拭う。隣で眠るドフィを起こさないようにして、おれは上体を起こしてベッドの上で膝を抱えた。
自分の身体のどこがおかしくて、何が悪いのか判らない。娼婦よろしく悶え喘ぐおれは、ローくんやドフィからいったいどう見えているんだろう。
漠然とした不安がおれを追い詰める。まるで、ローくんの船に乗っていたあの日々は夢だったんじゃないかと思うほどだ。
身体はドフィが拭いておいてくれたみたい。使い終わったタオルが、ソファの背もたれに掛けられていた。ひどく寂しくて、惨めな気持ちになる。どうしてだかは判ってる。おれが悪い。おれのせい。なのにおれはこの状況を打破する術を何一つ持っちゃいなかった。
「……っわ!」
突然、肩を掴まれて後ろに引き倒される。抱きとめてくれたのはドフィの胸板だった。
「ごめんね、起こしちゃった」
「……なにしてる」
「なにも」
眠そうなドフィは低く唸っておれの頭を撫でる。乱暴なんだか優しいのか、判断がつかない。
「この身体、どんな奴に触らせてきた」
「気になる?妬いてるの?」
皮肉っぽく笑ってドフィの胸元へ擦り寄れば、ドフィは再び唸ってみせた。かと思えばおれの身体を強く抱き込んでくるので、反射的に肩が跳ねる。
「な、なに。どうしたの」
「妬いてる」
「は……?」
「おれ好みに育てたからなァ。おれはお前が可愛くて仕方ないのさ」
「またまた……誰にでもそう言う、」
「言わねェなァ。言わねェ」
お前だけだよ、とおれの耳元で囁くドフィの声がおれの頭をぐらつかせた。思わずどきっとしてしまうことこそ、ドフィの思う壺なのは分かりきってる。
これこそがおれに施されたドフィの教育であって、洗脳だ。このひとに求められれば応えるように作られてる。おれの半生はドフィによる施しの元に保証されていたので、
咄嗟に彼の要求を拒否するっていう選択肢が出てこない。それがどんなに自分の首を絞めるのだとしても、これまで享受してきたのは自分自身なので文句も言えないでいる。
「本気にしてないだろ」
「しないよ。おれじゃペット以上にはならないでしょ」
「ならどうすりゃ分かってくれるんだ?」
「……ドフィ、寝ぼけてるなら」
「寝ぼけちゃいねェよ」
ドフィがむくりと身体を起こすので、おれも一緒に起き上がった。膝の上にちょこんと乗せられてドフィを見上げる。らしくないな。今までこんな風に言ったことなんてなかったのに。
「お前の好きにさせてみるのもいいかと思った。だからおれはローの船に乗ることだって反対しなかった」
「ちょっと……ドフィ、ッ」
ずいっと顔を近づけられる。今にも頭から食べられてしまいそうだ。
「けどなァ……お前の居ねェ暮らしは退屈だったよ。連絡ひとつ寄越さねェお前が海の上で危ない目に遭っちゃいないか気掛かりだった」
「ドフィ、顔……ちかい」
「なのにどうだ。帰ってこいと一度言っただけで素直に戻ってくる。お前には悪いが、おれはもうお前をここから出す気はねェよ」
まるで呪文の羅列のような言葉に、おれは呼吸を忘れる。もうずっとここで暮らせと言うドフィの言う通りにしておけば何も怖いことはないような気にすらなった。
「……家出は終いだ。おかげでお前はいい餌になってくれるだろう」
「えさ……?」
「もう一人の家出坊主は、随分とお前に入れ込んでるようだからなァ」
「どうしてそう思うの。おれ、そんなに好かれてないかもよ」
「ローのことはお前に任せてある。お前はよく働いてくれた。うちのシンボルに上書きするのを赦すくらいの仲なんだろ?なあ、ニア」
「……? ……あ、ッこれは……他のクルーの目もあったから、仕方なく」
ドフィに足首を掴まれる。そこにはローくんとお揃いが欲しくておれが勝手に彫ってもらったハートのマークが巻きついていた。
「流石に、他所の七武海のマークが入ってたら……疑われちゃ、ッい゙……ァ!」
足首を掴む手はだんだんと強くなって、次第に激痛を伴って熱く痺れる。爪を立てられて抉られて、傷がついても尚やめない。血が滲んでシーツに落ちてもドフィは離してくれなかった。
「ア゙……ふ、ッ! ……っ……く」
「痛ェか?」
「い、たぃ……っ」
「おれも同じくらい傷ついたよ、ニア」
微塵も気にしてない素ぶりでドフィはおかしそうに笑う。おれは痛みを耐えるのに必死だ。
「おれに、言うことがあるな?」
「……ッは……う、っ、ごめ、ッ」
「ん?」
皮膚を剥がされるんじゃないかと思うくらいの痛みにおれは奥歯を噛み締める。
「聞こえねェ」
「ごめん、なさい……っ、ごめんなさ、ッい、ん゙っ」
「なにがだ?」
「ハート、いれて、ごめんなさい……」
「それから?」
「それ、から……? ッぐ、ぁっ!」
とぼけたわけじゃない。考えるどころじゃなかった。それなのにドフィは愉快そうにおれの足首を痛めつけてくる。
「……っ、ドフィじゃない、ひとに……抱かれて、っごめんな、さい……」
足りない頭で考えられたことがするりと口から滑り落ちた。そうするとドフィは興味深そうに鼻を鳴らして、おれの足首から手を離してくれる。おれは痛いなんてもんじゃない足首を庇うようにして後退りをした。どこにも逃げ場がない。
「……おれは、ファミリーの失敗は許す」
「しっ……ぱい」
おれがローくんのことを好きになったのが失敗なのか。間違ったことだったのかな。でもドフィからすればそうなんだろう。当然だ。お気に入りのおもちゃが自分の手から離れて好き放題遊ばれてたなんて、気分のいい話じゃない。
「ニア」
「……はい」
「賢いお前なら間違えるはずがねェよな。お前はいったい誰の物なのか、おれに教えてくれよ」
ベッドの上にへたり込んだおれの頭上で、ドフィは普段の笑みを浮かべてニヤついている。この人はそういう男だ。わざわざおれの口から聞きたがる。
分かってるくせに。おれがどんなにローくんのことが好きだったか、知ってるくせに。
「ッ、おれは……」
「お前は?」
素直に言いたい。ローくんのことが好きで、おれはずっと昔からローくんのものだったよって言いたい。だけど伝えてしまえばきっとドフィは怒る。すごく怒る。
その怒りがおれにだけ向けられるものなら構わない。怒りの矛先がローくんに向いてしまっては、彼の目的にも支障をきたしてしまう。おれが一時の感情で本音を口にするだけで、今までローくんが積み上げて来たものが崩れてしまうかもしれない。
それはだめだ。それだけはだめ。
「ドフィのものです。いまも、むかしも」
「これからも?」
「勿論……これからも」
ご機嫌をとるのは得意だ。言うべき言葉だってすぐ思い浮かぶ。なのに、昔ほどスラスラ口から出てこない。いったい何が変わったんだろう。なにも変わってない。おれはいまもむかしもドフィに飼われたままなのに。
「…………ニア」
「はい」
「上出来だ。手当をしてやろう」
「……はい」
おれはドフィによって抱き抱えられ、部屋を出る。足首はじくじく痛んだけど、別のところがもっと痛かった。おれみたいなのが痛める胸なんて持ってちゃいけない。おれが選べることなんてひとつもない。居場所も暮らしもそばに居るひとも。
「悪かったな」
「……ううん」
「お前のこととなると加減が出来なくていけねェ」
「ううん。いい。大丈夫」
身をよじって、おれはドフィの首に腕を回してしがみつく。
「…………ドフィ」
「うん?」
「ごめんなさい」
ドフィはもう「なにがだ?」とは聞かなかった。
◆
翌日、おれは広いベッドを抜け出した。時計を読めば正午過ぎ。流石に寝すぎたなあとおれは欠伸をしながらドフィの部屋を後にする。ゆうべは結局ローくんに連絡することができなかった。今夜こそとは思うけど、ひとりになれるかも分からない。
いまローくんの声を聞いたらいよいよ気が触れそうだ。いっそ連絡するチャンスなんて無い方がいいんじゃないか。
そもそも、ローくんに呆れられるためにこうして身を張る覚悟をしたんじゃないか。彼の足を引っ張らないためにも、おれなんて見捨ててくれたらたぶんそれがいちばんいいって、そう考えて、……そんなの、ほんとは嫌だけど。
ドフィの部屋から少し離れたところに、おれの部屋はある。おれは下唇を噛み、歩幅を広げて自室に逃げ込むようにして踏み入った。昨日のうちに運び込んだ自分の荷物から着替えを取り出す。さっさとシャワーを浴びてご飯を食べたかった。
すると服と一緒にローくんがくれたライターが転がり落ちてくる。しょぼくれてるおれとは正反対に、窓から射し込む日差しを受けてきらきら光るそれはおれに元気をくれるみたいだ。
「……ローくん」
おれは固く目を瞑って、自分の頬を叩く。
いつまでも俯いて、うじうじしてちゃいけない。おれだって何かできることがあると思う。身体はあげても心まではあげられないって、そう決めたじゃないか。おれを信じてくれたローくんの気持ちを踏みにじったりしたくない。
ローくんのことを思い出すと心が安らぐ。あの涼やかな瞳がおれを見るたび、低い声がおれの名前を呼ぶたび、あの長い指がおれに触れるたび。もっともっと好きになったあの人がくれたこんな優しい気持ちを、おれが放り出しちゃいけない。
そんなこと、ほんとのほんとは分かってるはずなのに。だめだなあ。
ローくんだって今頃パンクハザードで頑張ってるんだから、おれだって出来ることを焦らずやらないと。今すぐじゃなくていい。いつかまたローくんに会わなくちゃいけないんだから、おれはこんなところで心を折るわけにはいかない。
握りしめたライターを、だいじにポケットに入れておく。
流されてるだけじゃだめだから。こんなにズタボロなおれを、ローくんがまた迎え入れてくれるかは分からないけど。おれが此処で頑張らないとどうしようもない。
「馬鹿だなあ……」
自分のベッドに寝転んで、おれは息を吐く。
こうなったらとことんやってやるって決めたのはおれだから。ドフィが望むことにはきっちり応える。ローくんに報告できそうなことは、連絡が取れたときに纏めて話す。そうしよう。他のことはその都度考えよう。
またいつか会える日が来たらなんて果てのない話だ。その日がいつになるかなんて分からない。明日かもしれないし半年後かもしれない。次第によっては数年掛かる。それでもおれはローくんはきっと自分の目的を果たすって信じてるから、大丈夫。いつかまた会える。
「……大丈夫、大丈夫。まだ二日目」
おれは、ローくんにとってもドフィにとっても悪い子だけど。悲観してちゃ変わらない。欲しい物のために今まで散々わがまましてきたじゃないか。おれはまた同じようにするだけ。
ドフィにとってのいい子を演じるのが今できるおれの仕事。それでいい。王宮に戻るってことは、そういうこと。
きっとおれの願いをドフィは決して許してくれないだろうけど、誰に許してもらえなくたって、おれはローくんのことが好きだった。
シャワーと昼食を済ませて街に出る。とくにドフィから仕事を言い渡されてはいないので、当初の目的通り「SMILE工場」っていうのを探さなくちゃならなかった。そんな工場があるなんて話は聞いたことないから、どこに行けばいいのか分からない。だけど、ローくんが立てた仮説はどれも信憑性の高い情報を基にしたものだし、情報源的にも裏が取れてる。
つまり、ドフィだけじゃなくてファミリーぐるみでおれの耳には入れてないってことだ。なにがコラソン代理だと笑えるくらいだけど、組織内でおれに与えられた権限はそう多くなかった。ただドフィのそばにいるだけ。
本当の意味で犬や猫と変わらない扱いを受けていたので、ドフィの生業については知らないことはまだ多い。
仕事のことだからおれは何にも聞かなかったし、こっそり嗅ぎまわったりもしなかった。今になってそのツケが来ている気がする。
もっとちゃんと働いてれば幾らか変化があったのかな。
それは考えたって分からない。工場のことをおれが知ってるとは思わないだろうから、誰にも聞いたりできないし。困ったなあ。しばらく過ごしてから、ベッドでドフィに聞いてみるとかしか案が浮かんでこないのでどうしようもない。
とにかくおれはひとりになりたくて、ドレスローザの国を散歩してまわった。もしかしたら工場が新しく建ってるのかもしれないし。作業員っぽい人に会うかもしれない。
◆
いっそ清々しいくらいに収穫がなかった。それられしき工場も見当たらなければ作業員の姿もない。ローくんの掴んだ情報を疑いたくは無いし、真実であろうというのはおれも同意見なわけだけど。ほんとにドレスローザにそんな工場があるんだろうか……。
帰り際、顔見知りの酒屋に顔を出して上等な赤ワインを購入する。まさかドフィが迎えに来てくれるとは思いもしなかったので、手土産を買って戻ることをすっかり忘れてたからだった。ドフィとの約束を忘れてしまうくらい、やっぱりおれはポーラータングを降りるときテンパってたんだなあと思う。
王宮に戻ってドフィのワインセラーに買ってきたボトルを入れておいた。あとでごめんねーって言って、好きなときに飲んでねーって言っておこう。
「此処にいたのか、ニア」
「っ……! ドフィか。びっくりした……」
「ん? なんだ」
「いや、ちょうど……ドフィのこと考えてたから……?」
嘘は言ってない。
「へェ、どうした」
「手土産持たずに帰ってきちゃったからワイン買ってきたんだよ。入れといたからまた飲んで」
「……フッフッフッ……」
「んあ。なに?」
「ゆうべはだいぶしおらしかったがな。今日は機嫌がいいらしい」
足音を立てておれに歩み寄ったドフィは、飼い猫にするようにおれの喉を擽って撫でる。
「そお? ……って、ゆうべは機嫌がいいとかいう次元の話じゃなかった。ドフィのせいでしょ」
「ハハ、悪ィな」
「…………おれも、悪かったんだけど」
浅く俯いて視線を落とせば、ドフィは身を屈めておれの顔を覗き込んだ。
「……、ニア」
「んー」
「おれはなにも、お前にそんな顔をさせたいわけじゃねェよ」
複雑そうに、いつも笑みを讃えるその口元をへの字に曲げてドフィは言う。
「……じゃあ、おあいこにしてくれる?」
「ああ、勿論」
「あとね、おれ暇なの。何すればいいの?仕事があるって言ったよね。商談に連れてくの?あんなについてくるなって言ってたのに」
「気が変わった」
「へー?」
「これからドンキホーテのためにお前の席を作るわけだ。おれの仕事を直接手伝えなきゃ部下にも示しがつかねェだろ?」
「そお?おれのこと気にする奴なんて居ないと思うけどね」
するとドフィはいつもの調子で喉を震わせて笑った。
「賭場や酒場をいくつか任せちゃいたがな、お前をおれのそばで働かせてェんだ。わかるだろ?」
「わかんない……」
「目の届くところに置きてェのさ」
そういうことか。合点がいった。おれはドフィを見上げて瞬きをする。そして勝気な笑みを作って、おれはこう返した。
「わかった。おれにできることならなんでも言って」
その日の夜、ドフィは王宮を離れた。彼がここをフラっと出ていくのは何年も前から変わらない。きっと、内緒のお仕事なんだろうな、とおれは思う。
お風呂を済ませて自分の部屋へ戻ったおれは、電伝虫の受話器に触れた。隣の部屋は物置きだし、反対隣はベビーの部屋だ。そのベビーも部屋を空けているのは確認してる。大丈夫かな、掛けても。おれはまだ濡れた髪を片手のタオルで拭きながら、受話器をあげられずにいる。流石にここじゃダメかな。でも廊下には誰も居ないし、すぐ切れば聞かれるリスクは低いと思う。
「…………出るかな」
ドレスローザに戻ってきたときの道中だって、ローくんとの連絡はなかなかタイミングが合わなかった。少しずつ少しずつローくんが遠くなっていくようで、やっぱり寂しい。
おれは意を決して、受話器を持ち上げた。
「…………ダメかな……」
『おれだ』
「……!」
ローくんの声がした。それだけで舞い上がってしまったおれは、思わず彼の名を大声で呼びそうになる。ぐっと堪えて、なるべく小さな声で喋ることにした。
「……進展なし」
『そうか』
「あんまり掛けられなくてごめん。どんどん掛け辛くなると思うけど、なんとか連絡する」
『……、分かった』
「おやすみ」
『ああ。おやすみ』
「…………おやすみ」
連絡は簡潔に。そんな約束が無ければもっといろんなことを話すのに。声が聞きたかったとか、心配してるとか、夜はちゃんと眠れてる?とか。名前も呼べないなんて辛すぎる。
だけど、声が聞けただけよかった。ほっとした。静かで穏やかなローくんの声が、まだ耳の奥にぼんやり残ってるように思う。
おれは窓辺のソファに腰掛けて、窓から外を眺めた。もしも空を飛んでいけたなら、今すぐにでもここを飛び出して、おれはローくんのところに行けるのに。