01
シーザーを受け取りに行ってくる。そんな風に告げてドフィは部屋を出て行った。勿論おれは部屋にひとりぼっちになる。ローくんは、捕らえたシーザーを午後三時にグリーンビットへ投げ出すと言っていたので、もうドレスローザ付近に着いてる頃だ。
電伝虫から聞こえて来た以上の情報は、なにも知らされていない。ドフィは、徹底しておれに詳しい状況を話したりはしなかった。
ただ、朝はあんなに騒がしかった王宮の外が静かになっている。
人気がないわけではなくて、窓の外からは長閑に暮らすドレスローザ国民たちの声や、華やかな音楽が聞こえていた。
あのドフィが素直にローくんとの取引に応じるとは思えない。
なんだか胸騒ぎがする。
おれは居ても立っても居られないで、部屋にベビーを呼びつけた。彼女を呼ぶのは奥の手で、いつかここぞというときに世話になろうと思ってたんだけど。今日がきっとその日だと思う。
見張りの男が部屋の扉を開けて、ベビーを連れて来たことを知らせてくれる。
「ニア、悪いんだけど私いま忙しいの……すぐ行かなくちゃ。何かあった?」
不思議そうに首を傾げるベビーは、見張りを外へ下がらせた。
「忙しいのに呼んでごめんね。おれがベビーのところまで行けたらよかったんだけど」
「……! そんな、いいのよ。少しの間なら大丈夫!」
「ありがと。今日は王宮の中静かだね。みんなお仕事?」
「え、ええ。今日はみんな忙しいから」
ひとに頼られることや求められることに弱いベビーは、他人のお願いごとは何でも聞いてしまう奴だ。彼女の性質を利用するのは少々胸が痛むけど、背に腹はかえられない。
「ベビー、そこの箱から枷の鍵取って」
「そ……それはダメよ! だって……、」
「今日は何があってもニアを部屋から出すな……って、言われてるから?」
鎌を掛けてみればベビーは顎を引いて浅く頷いた。
「そうみんなには言ってあるけど、どうしてもってときはベビーに一回だけお願いしていいってドフィに言われてる」
「そうなの? ……いえ、そんなワケない。ニアはローを始末するまで出しちゃならないもの」
とんでもない約束が勝手に取り付けられてる。おれは目頭を押さえて溜息をついた。そうだよね。そうだよな。ドフィってほんとそういう男だよ。
「……その証拠にさ、箱のそばにベビーの吸ってる煙草が置いてあるでしょ」
「え? あ、あら本当」
「おれの我儘聞かされるベビーに、若様からのご褒美」
でっちあげだった。あの煙草は今朝用意してもらったもの。ベビーと同じの吸ったことないから持って来て、とドフィにお願いしたままになっていたものだ。
コラソンしかり、ベビーしかり。身近な喫煙者が吸う銘柄の煙草は手元に置いておいて損はない。事実、役に立ちそうなので儲けたもんだ。
「えっと……、ええ、どうしよう」
「逃げたりしない。着替えてくるだけ。おれの部屋はベビーの部屋の隣でしょ。すぐ近くだよ」
「わ、わかった。だけど、すぐ戻るわよ」
テーブルから煙草を取り上げて、ベビーは鍵を片手にベッドへやってくる。
おれは後ろからベビーに見張られながら、一旦部屋へ戻った。疑われないためにも今回はきちんと着替える。黒のジャケットにライターを収め、履いたサルエルのポケットには大事なナイフを。靴は枷が邪魔なのでサンダルにしておこう。
あとは……おまじないに、黒い羽ピアスもつけてこ。もしかしたらローくんの顔を見るチャンスが来るかもしれないわけだから、着替えられてラッキーだ。多くを望むつもりはないけど、今日この日にローくんのところに帰れるならそれがいちばんいいし。
「ベビー、どう?おかしくない?」
「えっ、私?」
「ベビーはお洒落さんだから、チェックしてよ」
「必要とされてる……!」
目を輝かせながら、ベビーはおれにぐんっと近づいた。
「じゃあ、頭のセットもして欲しいな」
「任せて!」
「でもこのカッコにサンダルじゃなあ……おれ、久しぶりにオシャレしてドフィにびっくりして欲しいんだよね。どうせベッドから離れてたら同じだし、枷の方も外してくれる?」
「もちろん! 私もサンダルよりブーツがいいと思ったの!」
時間のことなどとっくに忘れて、ベビーはおれのために尽くしてくれる。何ヶ月もの間おれの足首に収まっていた枷は、思っていたよりも簡単に外れてしまった。肩から力が抜ける。
「……あは、足すっごい軽い」
「ずっと着けてたもの……痛そうね」
痛ましそうに眉を下げ、ベビーはおれの足首を撫でた。
「全然ヘーキ。ドフィから貰ったものだから、おれはなんでも嬉しいよ」
「……! きっと若様も喜ぶわ! 次はどうするの? なんでも言って!」
「ありがと。そうだな……腕時計が欲しいな。ベビーたくさん持ってるよね。借りていい?」
「なんだそんなこと? すぐいちばんニアに似合いそうなのを持って来てあげる!」
ベビーはくるっと身を返して笑顔を見せる。おれも倣って、微笑んで返した。
「……ありがと」
「待っててね、ニア」
そう言ってベビーは部屋のドアを開けたまま、隣の自室へ飛んでいく。
おれは急いでショートブーツを履いて、いよいよ仮初めなりにも自由を得た。
「…………グリーンビット。ちょっと距離あるな」
だけどファミリーの人間が出払ってるとなれば絶好のチャンスに違いない。おれは足音を立てないようにベビーの部屋の前を通り過ぎる。四階から地上階へ降りる間も、ベビーは追いかけてこなかった。運動不足が祟って、おれはろくに走れもしない。
最大限の警戒をしつつ、なんとか王宮の出口に向かって足を動かした。確かに見知った顔は誰も居ない。見覚えのない構成員がいるばかりで、本当に幹部連中は外へ出てるみたいだった。
「ニアさま、お出かけでしょうか……!」
不審に思ったひとりの男が声をかけてくるので、おれは人当たりのいい笑みで応答する。
「うん。ドフィから連絡があって……おれすぐ行かなくちゃ」
「ハッ。お送り致しますか?」
「お願いしたいところだけど、大丈夫。今日はみんな忙しいんだろ。おれ一人で行けるから」
健気なポーズにうっかり騙されてくれる彼には悪いけど、そう告げたおれは怪しまれないようにゆっくりと王宮の門を抜けた。此処に辿り着くまでにもだいぶ体力を消耗しちゃったけど、近くにローくんが居るんだと思ったら勇気が湧いた。嘘をつくのなんて怖くもなかった。
でもそろそろベビーがおれの不在に気づく頃かもしれない。そうなればドフィにも連絡が行くわけだから、おれは何処かに身を隠してローくんと落ち合わなくちゃな。
本当はわかってる。ずっとドフィの部屋に居た方が安全だってこと。だけどあの部屋はおれから何もかも奪っていくばかりで、ひどく窮屈だ。
ローくんが今日死ぬのなら、おれの命日だって今日がいい。そう言った言葉に嘘偽りはない。
だけど、もし。もしも何もかもが上手くいって、おれの全てをローくんが許してくれたなら。おれはローくんのところに帰ることができる。
街へ降りてグリーンビットに向かう道中、帽子を買った。顔を隠したいのもあったし、陽射しから逃れたかったのも理由の一つ。おれはハットを深くかぶり、ゆっくりゆっくり、目立たないようにグリーンビット目指して歩いていく。
流石に一人じゃあの鉄橋は越えられないだろうから、橋の近くで身を潜めて、誰かが来るのを待つのがよさそうだ。怖くないわけじゃない。それこそ震えるほどには恐ろしい。膝が次第に笑い出すのは恐れと疲労からだろう。
足を引き摺るようにしておれは歩く。おれの居ないところでローくんが死ぬなんて許さないし、ドフィがローくんを殺すのも許さない。それに、いざとなればおれは彼の身代わりにだってなってあげられる。逃がしてあげることだってできるかもしれない。
そりゃあ勿論、二人揃って逃げ果せるのがいいに決まってるけど。
何が起ころうと覚悟の上。そう決めたのは他でもない自分たちだ。さまざまなリスクを抱えてここまできた。あとはローくんが思いを遂げるだけ。ローくんの願いが叶うだけ。それがおれが見つけた、ほんとの幸せのかたち。
出来る限り急ぎつつ、おれはグリーンビットを目指して歩く。走れたならよかったんだけど、そうもいかない。一歩踏み出す度に足が重くなる。だけどこんな状況下であってもおれは何処か浮かれてたのかもしれない。ローくんに会えるかもしれない。ただひたすら彼を求める余りにこんな大胆な脱走が出来るなんて思いもよらなかった。
けど、心と正反対に身体は動かなくなる。
「ニアさま」
「……! だ、誰」
もう見つかるなんて! そう思っておれは後ろを振り返る。けど背後にいたのはおおきなオモチャだった。艶めく黒漆塗りの馬。馬?おれは拍子抜けして、その場にへたり込んだ。
「…………びっくりした」
「どちらへ向かってらっしゃるの?」
「おれ? あは、内緒」
シーっと人差し指を立てておれは笑顔を貼り付ける。まさかオモチャだとは思わなかったけど、この馬が追手じゃないって保証はない。おれはフラつきながら立ち上がる。
「……誰の差し金かな。まさかオモチャに追われるなんて」
「いいえ、わたしはあなたの味方です。王宮のそばで、あなたに会えるのを待ってた」
「は、はあ……」
「辛いんでしょう。乗せてさしあげます」
馬の……女の子だから、便宜上彼女とする。彼女の後ろには誰もいない。辺りの気配を探っても、他に追いかけてきている者は居なかった。
「……えっと、んん」
「困ったわ。信用されないのも悲しいものね」
「ごめん。初対面だよね?どこのオモチャ?持ち主は、」
「急いでるならはやく乗ってちょうだい」
ぐいぐいとその鼻先を押し込まれ、おれは彼女の身体に身を寄せてしまう。
「そんな気はしたけど、あなたはオモチャのことを何も知らないのね」
「ん?うん?ごめん、おれほんとに急いでて」
「ならはやく。何処に行くか知らないけど、あんな足取りじゃあ何時間掛かるかわからないわ」
ね。と、彼女はおれにウィンクを贈ってきた。器用なんだなあ、最近のオモチャは。
「……王宮に戻ったりなんかしたらすぐ壊してやるから」
「あら、存外過激なのね。でも構わないわ。どこへ行きたいの?」
「……グリーンビットまでの鉄橋。手前で降ろして」
「分かったわ」
おれはおっかなびっくり彼女の背に跨る。控えめに高く嘶いた彼女は、緩やかに走り出した。なるほど、確かにこっちの方が何倍も速い。
「どうしておれに良くしてくれるの?」
「ふふ、一目惚れかしら」
「そうなの? ごめんね、応えらんない」
「酷いフリ方するのね」
「……もうね、嘘つくの辞めようかなと思って」
すると彼女は「そう」と呟き、どこか晴れがましげな面持ちで鉄橋までの道を駆けてくれた。
「お名前なんていうの?」
「……そうね、リンゴでいいわ。ねえ、ニアさま。こんな話はご存知?」
しばらく走れば鉄橋まで辿り着く。コロシアムの前を走り抜けつつ、おれは逸る気持ちを抑えるために、彼女の手綱を握り締めた。
「……ん? っ、ごめんリンゴちゃん、止めて!」
「えっ? ええ!」
すぐさま減速してくれた彼女が完全に止まり切る前に、おれは彼女の背中から降りる。
「危ないから遠くに逃げて! ありがとう、助かった!」
「そんな! あなたを置いていけない!」
「いいから! いいから行って!」
なんで。なんでなんでなんで!
「ドフィ……ッ」
ものの数十メートル離れた先に、ドフィの姿が見えた。だけど今はそうじゃない。そこじゃない。彼の足元に転がされているのは、だいじなだいじなローくんだった。
ちくしょう、間に合わなかった!
「ガキが……図に乗りすぎだ!」
ドフィの右手には拳銃。その銃口はまっすぐローくんへ。麦わらくんらしき声がなにやら叫んでいたけど、おれは形振り構っていられないで、ポケットに忍ばせておいたナイフを取り出し、精一杯振りかぶってブン投げた。
鋭く空を切って飛んだナイフは、ローくんを越えてドフィの足元の石畳に突き刺さる。
「ああ?」
「……ッ、ローくん!」
一瞬ドフィの気を引くことに成功したおれは、がむしゃらに走った。彼に向かって。いまにも引かれそうな引き金のついた銃口のその先へ。
「チッ……ニア! 何故お前が此処に居る!」
「ローくんが……ローくんが居るから!」
もたつく脚を奮い立たせ、おれはローくんの身体に向かって身を投げる。跳ねた先は丁度銃口の先。だった筈。それでもおれは間に合いそうにない。弾き出される鉛玉はローくんに向かって一直線。全部は無理でも、一つでいい。一つでいいから! おれに当たれ!
「ッア゙ァ!」
「……馬鹿野郎!」
仰向けに倒れるローくんの身体の上に倒れこんだ。もはや何処が痛いのかなんて分からない。ただ身体の何処かが撃たれたんだろうなというのは分かる。よかった。一つでも二つでもいい。ドフィから彼を守れたなら。
瞼を下ろす。すると微かながらにローくんの呼吸音が聞こえた。
よかった。よかったなあ。
◆
死に損なうのはこれで何度目だ。
前回も同じことを思ったけど、今度ばかりは本当に死んだと思った。
目が覚めたのは見知った部屋だ。王宮二階のスートの間。結局連れ戻されるなんて笑えもしない。そのまま捨てて行けばよかったのに。ご丁寧に脱げた帽子も被せられてあった。
身を起こすとなんだか暖かい。そこでようやく、おれは椅子に腰掛けるドフィの足の上に乗せられていたことに気がついた。
「…………あーあ、捕まっちゃっ、いってェ……!」
へらへら笑ってドフィを見上げた途端、全身から汗が噴き出す。
「……処置はしてある」
肩? 肩かなこれは。左の肩が焼け付くように痛んだ。
「そりゃどうも」
「ニア、賢いお前らしくもねェ。どうして無茶をする」
「……ローくんが死ぬなら、おれも死ぬ」
「まだそんな馬鹿なこと言ってんのか」
「もう……もうたくさんだ。おれ、もうドフィに嘘つくの辞める」
「賢明だな、ニア」
おれは部屋の中を見渡した。トランプマークをモチーフにしたおおきな椅子が、おれの前に四つ並んでいる。その中の一つ、ハートの席にはボロボロになったローくんが手錠を掛けられて安置されていた。
「…………ろー、くん」
「フッ……図太い野郎だ。生きてやがる」
「……っ、こ、のッ」
無理矢理身体を動かして、おれはドフィの脚から降りる。殆ど這うように床を進み、彼の足元まで辿り着いた。止めもしないドフィは黙ったまま座っている。
「…………ドフィ」
「なんだ」
「ドフィなんか……、大嫌いだ」
「フッ……フッフッフッフッフッフッ!」
何がおかしいのか知らないが、ドフィはずっと笑ってる。構ってられない。おれはローくんを見上げ、服の裾で顔についた血を拭ってみた。
「……ひどい。こんなに……」
「ローが悪いのさ」
「煩いな。黙ってて」
目を硬く閉じてるローくんは、どうしたって苦しそうだ。
「ちょっとニア、酷いのはあなたよ! 私を騙すなんて! 私がせっかく……!」
「……はあ。あのね、騙される方が悪いんだろ。馬鹿じゃないの」
すかさず吠えてくるベビーはヒールを鳴らしながらおれとローくんに近づいた。
「ドフィに怒られた?」
「当たり前!」
「ッハハ、いい気味」
悪いけど、おれ怒ってる。怒ってるよ。
「もう疲れた。もうたくさん。もう少し我慢しないとなと思ってきたけど、限界だよドフィ」
「へえ?」
「結局おれのこと、なんだと思ってたの」
「……可愛い弟だよ」
「そうだね。そうだよね。ドフィは可愛い弟に銃を向けるんだ。おれにも、ローくんにも……ロシナンテにもそうだったもんね」
「ニア……あまりおれを怒らせるな。ただでさえ今日はガキどものおかげで気分が悪い」
振り返ると、ドフィは額に手を当てて溜息を吐く。
「へえ、奇遇だね。おれも最悪な気分」
「考え直せ。死に急ぐな。お前はローとは違う」
「そうだよ。なんたっておれは、ローくんのスペアだ。代わりだからね」
煙草を取り出して、一本咥えて火を灯した。燻る紫煙が漂って今にも目に沁みそう。
「……おれはドフィに何も教えられてない。この国の実情も……オモチャのこともそうだ。シュガーの能力にだって嘘ついてただろ」
「そりゃおれの説明を素直に受け取っちまっただけだろ。まさしく虫やゴミを有効利用してる」
「…………はは、悪いひと」
煙を吐いて、皮肉に笑った。リンゴちゃんの背中に乗ってるときに聞いた話はどうやら本当だったらしい。とすれば彼女は元々人間のはず。
「手元に置いて家族呼ばわりしたくせに、おれはずっと仲間外れだった。そりゃあSMILE工場の在り処だって教えないよね」
「……何を勘違いしてるか知らねェが、おれはお前を特別扱いこそすれ仲間外れになんてした覚えはねェよ」
「…………まあ、却ってよかったのかもね。お陰でおれはなんの未練もない」
じっと、おれはドフィのサングラスの向こうを睨め付けた。
「何にも知らないおれで遊ぶの、楽しかったでしょう」
「…………落ち着けニア。確かにお前に話してねェ話なんて山ほどあるが、それは……」
「それは?」
「……フッ……言ったろう。分からなくていい」
おれは舌打ちで返す。
「でも、おれもおれでずっとローくんのことしか考えちゃいなかったから……お互い様かもね」
「う…………ッニア……?」
「ローくん!」
背後から呻き声があがり、咄嗟に振り返る。ローくんの目が覚めた。おれは膝をついて彼に寄り、煙草を捻じ消してその手を取る。
「ローくん、……大丈夫? どこが痛い?」
「…………ニア、」
「……おはよ、ローくん」
会いたかった。会いたかったよ。
なのにおれの身体は意に反して立ち上がる。
スルリとおれの手の中から、ローくんの手が離れていった。
ドフィの能力のせいだ、と気付いたときにはおれはドフィの足の上に逆戻り。おれにここまで言わせておいて尚連れ戻すなんてどうかしてる。
「…………放して」
「ダメだ」
「放せ」
「嫌だね」
「――ッのやろ……いい加減にしろよ! なんで諦めてくんないの! なんの嫌がらせなんだよ……元々大事にも思ってなかったくせに……!」
言ってて自分が傷つくなんてほとほと呆れた。此の期に及んでまで、おれはドフィのことを嫌いきれない。だってこのひとは、……このひとは、おれの恩人で、親で、兄で……大切に思ってきたひとだからだ。
「フッフッフッ……泣きそうな顔してやがる」
「してるわけない」
「ああ…………厄介なモンだよ、心ってやつは」
「何言ってんのか分か……ンンッ!」
広い掌が、黙ってろとでも言いたげにおれの口を覆った。もがけど捩れど、ドフィはもうおれを離してくれやしない。
「ロー……」
静かに、地を這うような声音でドフィはローくんを呼ぶ。
「お前らの狙いはSMILE工場……それだけのハズだ。今日の思いつきでできる事じゃねェ……! なぜ麦わら達とグリーンビットの小人達がつながってる!」
「……?」
「どうやって地下へ侵入した……!」
やや焦りの滲むその声は、紛れもなく深い怒りを孕んでいた。ローくんと言葉を交わすうちに、その怒りが次第に露わになっていく。
「答えなさい! 若が聞いてんでしょ! ロー!」
パン、と音を立ててローくんの頭を叩くベビーはギロッとローくんに睨まれて泣き出した。なんだ。思ったよりも元気そうで、おれは少しだけ安心する。
もっと彼と話がしたいのに。この手が邪魔だ。おれだって、おれだってずっとローくんに会いたくて会いたくて、長い間耐えてきたのに。
「ッ、んん、むぐ……ん゙ー! ん゙ー!」
「なんだ。腹でも減ったか?」
はあああああ? どこまで人を馬鹿にすれば気がすむんだ。
「〜〜ッ! ん゙ン!」
「ニアを離せ、ドフラミンゴ」
「残念だが離してやらねェよ。ニアには言葉の使い方から……一から躾け直す必要がある」
冗談じゃない。これ以上ローくんが見てる前で無様な姿を晒したくない。邪魔なこの手を噛んでやろうにも、顎ひとつ動かすこともできないのでおれは悔しかった。
おれにもっと。おれにもっとちからがあったら。ここからローくんを逃してあげられるのに。
歩き疲れたこともあり、肩の傷もじくじく痛む。疲労の重なった手足ではろくに身動きも取れない。ひたすらドフィを睨みつけて根比べをする。
「フッ……まァいい」
「……ぷ、ぁ……! ッ、ローくん!」
「とことん学習しねェなお前は!大人しくしてりゃいいものを……!」
「くっ……ニア!」
首根っこを捕まえられて、おれは身体を引き倒される。ドフィの膝に頭を打ち付けたおれは肩の痛みも相まって声にもならない呻き声を漏らした。
「全く……おれの可愛いニアはどこへ行っちまったんだ?」
「そんなの最初から居なかったろ」
「まだ言うか。幾らお前といえど二度も刃物を向けて逆らっておいて……まさかごめんで済むとは思ってねェよな」
「謝らないから知らない」
「口の減らねェガキめ……躾けられンのが待ちきれねェなら素直にそう言え」
「……ッ、離して」
ジャケットの襟を掴まれて、ぐいっと身体を引き上げられる。
「よっぽどここで抱かれてェらしい」
「思ってない」
「ゆうべ抱いてもらえなかったからって拗ねるのはよせ」
「拗ねてない」
わざとローくんの前でそんな風に言う理由は分かりきってるから、おれはわざわざ声を荒げたりなんかしなかった。
「お前が脚を開くんなら、ローひとりくらい逃がしてやったっていい」
「…………へえ」
「ッハ、お手上げだぜニア。どうすりゃおれの言うことが聞けるいい子になるんだ。ん?」
「……いいよ。シても。おれまだいい子じゃないからお薬使う?いいよ」
「ニア!」
後ろから、張り詰めたローくんの声がする。
「地獄に堕ちるならとことん。そうだろドフィ」
「フッフッフッ……フッフッフッ!」
「ローくん、逃がしてあげる。おれはコラソンだからね」
たったそれだけで万事うまくいくなら断然そうする。ローくんが生きてこの国を出られさえすれば、なんだって。海軍大将がなんだ。ドンキホーテがなんだ。きっと麦わらくんはローくんを連れて海に出てくれる。
広い広い海を、きっと渡って行ってくれる。
その時だった。まるで地鳴りのような雄叫びのような。歓声というよりも怒号によくにたその音が、ドレスローザの街から聞こえてきたのは。
途端、そばにあった電伝虫がけたたましく鳴き出す。
『すまねェ、ドフィ〜!』
「トレーボル?」
『シュガーが気絶しちまったァ〜!』
「! ……オイ、何の冗談だ!」
おいおい泣き喚く電伝虫のその様は、見るも無残な泣きっ面。おれはすぐさまジャケットを掴むドフィの手を振り払う。
上手く動かない脚を必死に動かして、よろめきながらローくんの元へ。誰だか分からないけど、多分麦わらくんたちがシュガーの能力を解いてくれたに違いない。すごいや。そんなことまで出来るなんて。おれは何も言えず、出来ず。ただローくんの手を握るばかりだ。するとローくんも、急変する事態に困惑していながらもしっかり握り返してくれた。
『応答願います! 王宮〜〜!』
「若! 非常事態の報告が鳴り止みません!」
『ドレスローザは! パニックですっ!』
冷や汗を浮かべて苦悩するドフィは、おれには目もくれない。
侮っていると言われればそれまでだけど、今はそれでいい。まずはローくんの手錠を外してあげないと。途端、王宮の外から。ひとりの男がスートの間に飛び込んできた。前国王が彼に向かって、その男の名前を叫ぶ。
「十年間! お待たせして! 申し訳ありません!」
「てめェは……!」
「今、助けに来ました!」
男はいの一番にドフィの首を刎ねにきた。まるでスローモーションのように見えたその剣さばきで確実にドフィの喉元を捉え、そして。
「うおー! ミンゴが死んだァ!」
いつの間にかすぐそこに居た麦わらくんが叫ぶや否や、ドフィの首が重たい音を立てて床に転がり落ちる。思考が止まりそうになるのを、おれは頭を振って凌いだ。
「トラ男〜! 助けに来たァ〜! よかった生きてて〜! そっちの奴がニアだろ! なァ!」
「……ここに用はない筈だぞ麦わら屋! 工場はどうした。壊したのか!」
こちらへ駆けてくる麦わらくんのそばには、何故かヴァイオレットちゃんの姿があった。
「ヴァイオレットちゃん!」
「ああ、ニア……! よく無事で! 彼の手錠の鍵はここにあるわ!」
「お前何でも準備いいなー! 先のこと見えてるみてェだ!」
途端、麦わらくんを追いかけてきたらしいグラディウスが声を荒げつつ部屋へ入ってくるも、転がるドフィの首に怯んだようだ。その間、キュロスと呼ばれた男は前国王の拘束を解く。
ローくんは、再びおれの手を強く握った。
「せっかくだが、おれとお前らの同盟はもう終わったんだ!」
「え? お前勝手だな。そういうのはおれが決めるから黙ってろ」
「同盟?」
「どっちが勝手なんだ!」
同盟。同盟かあ。それで麦わらくんたちとローくんはパンクハザードから一緒に行動してるんだ、なるほど。
「同盟が切れりゃまた敵同士! おれを逃せばお前を殺すぞ!」
「動くな! 海楼石に触れねェから、カギ外すの難しいんだ」
「しっかり!」
「おれやる! おれがやるよ、麦わらくん!」
「聞いてねェだろお前ら!」
なんだ……なーんだ。麦わらくんと一緒に居るのを知ったときは驚いたけど、結構仲良くやってたんだな。よかった。
その時、スートの間の床がありえない程に波打ち、あらゆるものをひっくり返す。おれもローくんの手を離してしまって、後ろに転がり尻餅をついた。
「フッフッフッ……想像以上にしてやられたな……」
「うわァ! ミンゴが生きてるーーっ!」
「……ドフィ」
次いで、ベビーやグラディウスが口々にドフィの身を案じ、声をあげた。しかしドフィの首は床に落ちたまま話し続ける。
「これはマズイ事態だ……! 鳥カゴを使わざるを得ない……! なァ……ロー、ニア……」
「……とりかご、」
「鳥カゴを?」
思い起こすのは十三年前。ローくんは思い出したくもなければ耳にしたくもないだろう。
おれは立ち上がって身動きの取れないローくんの身体を抱きおこす。
「…………ニア……」
「……ん」
目を見開いて、何ごとか口にしようとするローくんの言葉は喉の奥に溶けたようで声にならない。互いに身を寄せて、目の前で繰り広げられる麦わらくんとドフィの攻防を、ただ見ていることしかできなかった。
「ローくん」
「…………ッ」
ごめんね。そう言いかけてやめる。なにがごめんだか自分でもよく分からなかった。
「逃がしてやるよお前ら。……ピーカ! 邪魔者共を外へ!」
再び波打つ床に流されて、みんな散り散りになって次々と部屋から追い出されていく。次第に大きな手の形を模したピーカの能力が、麦わらくんたちとローくんの身体を纏めて掴んだ。
「…………ッ! ニア!」
「ローくん!」
ローくんに向かって手を伸ばす。おれも。おれも一緒に連れてって。
ドフィの鳥カゴから逃げるなら。今度こそおれも一緒に、ずっとずっと遠くに連れて行って。もう二度と離れたりなんかしないから。ひとりにしないで。どこにもいかないで。
「もうおれを……おいてかないで、ローくん」
「ニア!」
ローくんの指がおれに届く。しっかり握り締めた。鳥カゴのことは後から考えよう。一緒に逃げよう。だからこのまま、おれを奪って。攫って。ずっと側に居させて。
「お前はダメだ、ニア」
「あ、ッドフィ……! や、やだ!」
それは、幾度目かの絶望だった。自然と身体が動きを止める。
いくらローくんがおれに手を伸ばしてくれたって、おれはその手を払ってしまった。まるで蜘蛛の巣にかかった虫みたい。がんじがらめにされて指一本自分の意思では動かせない。
あっという間に、やっと会えたローくんはおれの前から姿を消してしまった。あれだけ波打っていた床も、何事もなかったかのように平坦になっている。
「……悪い子にはお仕置きが待ってるモンだ」
「…………そうだね。ご主人さまの」
「フッ……よく分かって、」
「お前は何回おれの側から離れるつもりだって怒ってるよ、きっと。おれのご主人さまは」
「……何?」
口をへの字に曲げたドフィは、此処一番不愉快そうに眉根を寄せた。
「さっさと戻って……お仕置きしてもらわなきゃな、ローくんに」
「ハッ……とうとう飼い主も分からなくなっちまったらしい」