ジンさん育成キット編 10


 血が流れている。そう認識したときに後ろから金属音がした。鈍く重そうな、だけどどこかで聞いたことのある音。
 それからは何も考えられなかった。すぐにここから逃げなくてはという考えだけで大きく開けっぱなしだった窓から裸足のまま飛び出した。ここが一階で心底良かったと思う。小さな石が足の裏を痛めつけアスファルトが焦がしてこようとも構わずに、ただひたすらに走った。殺される、死にたくない一心で。
 あの黒い液体は、赤い液体はなんだったのか。おチビはどうなってしまったのか。あの足音はなんだったのか。疑問が尽きないまま路地裏の物陰に隠れて、息を潜める。あのアパートから土地勘が無いままでたらめに走ってきたせいか、頭痛はさらに酷くなっていた。まともに呼吸ができない肺を無心で落ち着かせて、ようやく気付く。カバン、あの部屋に置いてきたままだ。
 電車で往復キップを買っていなかったから、帰れない。

「……おチビ」

 ほとんど家族のように一緒に暮らしていたあの子は、どうなってしまったんだろうか。あれから頭痛はマシになったけど、まだ鈍い感覚がする。あれは夢だったのだろうか、夏の暑さが見せた幻覚だったのか。
 陽が落ち始めてきて、夕方になる。蝉の鳴き声は暑苦しいものではなくヒグラシのどこか涼しさを感じさせるものが聞こえる。足元をただよう風が涼しくて、だんだんと頭が落ち着いてきた。
 ……あの血は、知人のものだろうな。性格がひねくれて悪い噂の絶えないような人物だ、どこかで犯罪者に目をつけられてもおかしくない。だとすれば知人は部屋で殺されて、後ろから聞こえた音は見張り役の足音だったんだろうか。ゆっくり接近してきたのは足音を殺すためだが、老朽化したアパートには無駄だったというわけで。

「あれ……銃だったのかな」

 鈍く重い金属音で、どこか聞いたことがある音。マンガやドラマでしか見かけないようなものが正体だったなら、納得できるのかもしれない。ほんとうに、あの知人は厄介なことばかり持ってくる。縁を切るために来たと思ったら変な縁を死んでから持って来やがった。

「これからどうしよう」

 一応、顔は見られていないと思う。だけどそれも玄関にカバンがあったから免許証とかですぐにバレてしまっているだろう。最悪、カバンを取りに戻って殺される。きっと。

「はああぁぁぁ……」

 体の底から重苦しい溜息が出た。本当に、これからどうしよう。
 夏なので夜になるまでまだ時間はあるが、ここでうだうだしていたらすぐに暗くなる。重い腰を上げて、とりあえずあのアパートに戻ってみるかと顔を上げて、視界に影がかかる。

「見つけた」

 目の前の影の主が声を出す。あまり聞かないような低い男性の声がして、息が詰まった。見つかった、見つかってしまった。
後ずさろうにもここは壁で、顔の横に手を突かれてしまいもう逃げ出すことができずに顔が青ざめる。
恐る恐る頭をあげると、想像以上の長身の男が鋭い目でこちらを見下ろしていた。

「……おい、大丈夫か」
「え、あ」
「ちっ……怖がらせたな、悪かった」

 先ほどの声色から一変して、優しく穏やかな口調の喋り方になった男に驚愕する。自分を殺さないのだろうかと疑問が沸くが、はくはくとまた荒くなる息を収めるために手で押さえる。
 壁に抑えた腕とは反対の手で、髪束をつままれた。

「……?」
「そう怯えるな。どうすればいいのかわからねえ」

 目を細めて、髪に口づけられた。色素の薄い目がそれをじっと見つめていて、既視感に捕らわれた。身長差のせいで俯いた彼の肩から、長い銀髪がしな垂れ落ちる。
 銀髪で色素の薄い目を持つ長身の男性、といえば。なぜジンがここにいる?

「……これでも、俺がわからないか」
「え、あ……おチビ?」

 こんな自分よりも身長の高い男性に対してそう呼ぶのはどうかと思ったが、目の前にいる彼は満足そうにそうだと答えた。疑問が尽きない。

「裸足のまま掛け出すとは、随分とやんちゃな真似をしたもんだな」
「……殺されると、思ったから」
「お前じゃなければそうなってただろうさ」

 目の前にジンがいる。漫画のキャラである彼が、なぜここにいる?
おチビのほうでもそう疑問を感じていたけれど可愛いからいっかと思考を放棄していたのが仇になったか。もう少し何か調べていればよかったと後悔する。

「家まで送る」
「いや別に結構で、うわあ」

 返事を待つまでもなく流れるような仕草で肩に抱え上げられ思わず変な声が吐き出された。身を起こして進行方向を見ればアニメで幾度か見た真っ黒なポルシェが視界に入る。自動車税とか維持費すごいって聞くけどそこらへんどうなっているんだろうか。車好きな兄からこういった車は最低でも1000万はすると聞いたけど本当かしら。
……こういったふざけた思考ができるということは冷静になったのかそれとも防衛的本能か。

「大人しくしろ。別にとって喰いやしない」
「端から見たらこれ誘拐犯罪ですが一体」

 あの特徴的な黒いコートを着ていないことから流石のジンでも真夏では着ないんだと呑気に考える。現実逃避しないとやってられない。

「足は、傷ついて無いみたいだな。サンダルは座席の足元にある」
「え、あ、どうも」

 やけに気遣うようにゆっくりと助手席へ降ろされて一息つく。カバンも座席にあったことから、わざわざ持ってきてくれたらしい。
彼が運転席に座り、低いエンジン音を鳴らせて車を発進させた。私の住所を知っているのか、この人は。

「……」
「……おチビ?」
「なんだ」
「あ、えっと、大きくなったね?」
「ふっ、そういうお前は変わらねえな」

 車内の無言に耐え切れずについこんな言葉が口に出た。それでも彼は怒るでもなく笑って返したことから悪い印象は感じていないらしい。

「連れが驚かせて悪かったな」
「連れ?」
「あの部屋にいたとき、お前の背後から来た奴のことだ」

 ジンの連れ、というと同じ黒の組織幹部であり相棒とされるウォッカだろうな。確実に。

「部屋で何があったのか見たのか」
「……実際に見てはいないけど、想像はつく」

 犯罪者であるジンがいて、赤い液体が流れていた。そこまでわかれば知人がどうなっていたのか理解してしまう。いけ好かない人物だったが殺されたとわかっても何も感じない私は人でなしかもしれない。

「ドアの向こうで、君じゃないおチビが溶けて、血が流れているのを見ただけ。部屋の奥は見えなかったから、どういうことがあったのかはわからないけど」
「溶けた?」
「うん、黒い泥みたいなのがあったはずだけど……見てなかった?」
「そうか、あれがか」
 会話がかみ合わない。彼はおチビが何だったのかを知っているのか。
「……いつ頃からか、よく夢を見るようになった」
「?」
「知らない人間のもとで飼われる小動物になった夢だ。随分と乱雑に扱われて、ダンボールにつめられてそこらに捨て置かれた。そこである女に拾われて生活をする……そんな夢だ」

 夢。つまり彼は寝ているときに小動物になって私に飼われる夢を見ていたと。

「そういった夢を何年も見続けた……最後に、女に連れられた先で不穏な気配がしたから抜け出した先で自分を見るとは思わなかったがな。それ以来、ずっとあの夢を見ていない」

 随分と、メルヘンでファンタジックな話だ。通常ならば変な夢だと気にしないものなのに、こうして目の前に存在する創作物の産物がいると荒唐無稽な存在でも信じてしまう。

「よく、その夢を信じる気になったね」

 私は目の前にジンというキャラクターがいるからこの話を信じられるし、何より今までも不思議生物と生活してきた。……正直、今までのできごとが色々ありすぎて、現在進行形で行われている彼との会話も全部長い夢だと言われたほうが納得できるくらいなのに。
 まあ、車内に染みている独特な煙草の臭いや小さく開けられた窓から入り込む風がリアルだと訴えかけるので現実だと認めざるを得ない。

「お前がここにいる。それだけで証明になるだろ」

なんでもないように吐き捨てる。
私はそこまで信じられるに値することをしたことがあったか。

「あの黒い液体の正体については確証できないが、恐らくはドッペルゲンガーのような物だろうよ」
「自分とそっくりな姿をして現れて、見たら死ぬっていう?」
「ああ。死んだのはあっちのほうだったがな」

 自分の姿を見て消滅したこと、姿がよく似ていたこと。他にもドッペルゲンガーの特徴をあげられていくとなるほどと納得できた。荒唐無稽。だけどそれしか思いつかない。
 もしかしてあれはドッペルゲンガーの子供で、大人になるために私に飼われていたのだろうか。オリジナルであるジンが死んだのではなくおチビのほうが消滅したのは、まだ子供だったから成り代わることができなかったとかで。真相は誰も知らない。

「今回のこと、誰にも話すなよ」
「言えませんよ、こんな戯言」
「……あいつは、麻薬に手を出していた」
「えっ」
「あの部屋の持ち主のことだ。そのせいで俺らに目をつけられた」
「うわあ……わかった言わない絶対に」

 いくら悪い噂があったからって、本当に厄介なことに手を出しているとは思わなくって気の抜けた声しか出なかった。そういえばと思い出すと、あの部屋のテーブルには錠剤が散らばっていたから、部屋の奥にはその大本が保管されていたんだろうか。巻き込まれなくてよかったと考えたけど隣の彼を見てもう遅いと改めなおした。面倒なことには巻き込まれたくないものだ。
 思ったよりも会話が続いて、私が住んでいるマンション近くの公園に止まった。人のいない寂れた場所が都合よくておチビを連れて遊んだことがある。覚えていてくれたのか。

「ここで良いか」
「ここで良いです。ありがとうございました」

 そして、ここでお別れだろう。ジンとはもちろん、おチビとしても。
 彼は犯罪者で私はただの一般人。もともと相いれない仲だ。
 彼としてもこんな女に飼われていたなんてことプライドが許さないだろうし、私としても彼の住む犯罪社会に巻き込まれるつもりは無い。足を引っ張らないためにも、安全でいるためにもここで永遠にさよならすべきだ。きっと。
 ドアを開けて、お別れを告げる。それでもう会わないだろうなと思いながら出ようとすると、腕を掴まれた。

「……なあ」
「はい」
「……俺を、また飼うつもりはないか」
「え」

 君はなんてことを言い出すんだ。

「でも、飼い主は」
「あいつはもう死んだ。……そもそも、俺はあいつを飼い主だと思っていないがな」

 ジンの表情を伺うも、まっすぐ見つめるそれは真剣なそれで冗談を言っている様子は無かった。
 真剣だけどどこか不安を感じさせるような眼差しに、かつて家の前で凍えていたあの子を思い出す。
 この人にとってはまやかしが見せた夢でしかないはずなのに、何が彼をここまで動かせた?

「まだ、死んでいないでしょう?」
「……どういうことだ」
「君の飼い主は、まだいる。そうでしょう……ジン」
「っ!!」

 初めて、彼の名前を口にする。おチビのときにも呼ばなかった名前。
 驚愕に目を見開かれ、色素の薄い瞳がよく見える。

「案の定、知っていたのか」
「……」
「知ってたんだな」
「私と君では、住む世界が違いすぎるよ」

 手の力が抜けたところをすり抜け、車から出る。
 だいぶ肌寒さを感じるようになった時間帯になり、公園からは鈴虫やカエルの鳴き声が聞こえてくる。
 車のドアをあける音がして、ジンが車外に飛び出たのが視界の隅で見えた。

「組織を抜ける」
「…………は!?」

 私は幻聴でも聞いてるのか。

「何年かかるかわからねえが、必ず戻る」
「……あれはドッペルゲンガーが見せた夢でしかなくて、もしかしたら私が見せた催眠かもしないのに?」
「それでもいい」
「本気で言ってるの」
「でなければこんなこと口にするか」

 おチビとして一年以上一緒に暮らしていたけど、ジンとは今日が初対面だ。普通、会ったばかりの他人にこんなことを言うか?
 組織の幹部で忠誠心が高いと言われているジンが、こんなことを言い出すなんて。

「……まだ、一緒にいてくれるの?」
「冥界のザクロをあれだけ食わせやがったからな、責任とってもらおうか」
「誰がハデスだ」

 むしろ君のほうがお似合いだ。ペルセポネっていう面してないぞ。

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