第十話「噂」

それは、静かに広がっていた。

誰も気づかないうちに。
誰にも理解されないまま。

だが、“異常”というものは、必ずどこかで引っかかる。

呪術界。

その裏側で。

「……最近、妙な報告が上がってる」

薄暗い室内。

資料をめくる音。

机の上に並ぶのは、複数の記録。

「“呪いが消える住宅地”だと?」

「はい。正確には、“異様に呪いが薄いエリア”です」

報告書が差し出される。

住宅地の地図。

その一角だけ、ぽっかりと空白のように記されている。

「通常、この人口密度でこの数値はありえません」

「結界か?」

「痕跡はありません」

「呪具の影響?」

「それも確認できず」

沈黙。

ありえない現象。

だが、確かに存在している。

「……調査対象だな」

結論は、早かった。

「誰か送れ」

「既に手配済みです」

そうして。

一人の呪術師が派遣された。

特別強いわけではない。

だが、経験はある。

異常の“匂い”を嗅ぎ分ける程度には。

――そして。

その住宅地。

「……ここか」

男は、足を止めた。

空気が違う。

明らかに。

淀みがない。

むしろ、澄みすぎている。

「気持ち悪いくらいだな……」

呟く。

本来なら、呪いは溜まる。

人がいる限り、必ず。

だがここは違う。

まるで、誰かが常に“掃除”しているような。

しかも。

「範囲が広すぎる……」

一軒や二軒の話じゃない。

一帯が、まるごと。

その中で。

ひときわ“中心”のように感じる場所。

裏葉家。

「……ここだな」

確信に近い直感。

門の前で、立ち止まる。

その時。

「ん?」

中から、男が出てきた。

裏葉宗一郎。

見た目は、ごく普通のサラリーマン。

だが。

(……あ?)

呪術師の男は、眉をひそめる。

違和感。

この男。

“ただの一般人”じゃない。

隠している。

だが、完全には隠しきれていない。

体の動き。

重心。

視線。

(元、か……?)

警戒レベルを、一段上げる。

「すみません」

声をかける。

宗一郎が振り返る。

「はい?」

穏やかな顔。

だが、その奥に。

わずかな緊張。

「この辺りで、妙な現象があると聞いて」

探るような言葉。

一歩、踏み込む。

「心当たり、ありませんか?」

沈黙。

ほんの一瞬。

だが、その間で。

互いに、理解する。

(……来たな)

宗一郎の内側で、スイッチが入る。

かつての“顔”。

呪術師としてのそれが。

「……何の話ですか?」

とぼける。

だが。

男は引かない。

「とぼけなくていい」

一歩、踏み込む。

「ここ、異常だろ」

空気が、張り詰める。

次の瞬間。

動いたのは、宗一郎だった。

速い。

一般人の動きじゃない。

一瞬で距離を詰める。

「――ッ!?」

男が反応するより早く。

懐に入り込む。

崩し。

投げ。

地面に叩きつける。

「がっ……!」

息が詰まる。

そのまま、押さえ込まれる。

(……は?)

呪術師の男は、理解できなかった。

術式を使う暇もなかった。

純粋な体術で、制圧された。

「……何者だ、あんた」

低い声。

宗一郎の目は、先程までのそれとは違う。

冷静で。

鋭い。

「……そっちこそ」

男も、歯を食いしばる。

「ただのサラリーマンじゃないだろ」

睨み合い。

数秒。

やがて。

ふっ、と。

宗一郎が力を抜いた。

拘束を解く。

「……悪いな」

手を差し出す。

「ちょっと過敏になってた」

男は、警戒しつつも手を取る。

立ち上がる。

「……で?」

息を整えながら、問う。

「何なんだ、ここは」

宗一郎は、少しだけ視線を逸らした。

迷い。

そして。

諦め。

「……俺にも、分からん」

正直な言葉だった。

「ただ――」

家の方を見る。

その視線は、どこか柔らかい。

「最近、妙に空気が良くてな」

「それだけか?」

「それだけだ」

嘘ではない。

だが、全部でもない。

男は、しばらく黙っていた。

そして。

ぽつりと呟く。

「……中、見せてもらっていいか」

その言葉に。

宗一郎の表情が、ほんの僅かに変わる。

「……家族がいる」

「分かってる」

視線が、ぶつかる。

数秒。

やがて。

「……少しだけだぞ」

折れた。

完全ではない。

だが、譲歩した。

二人は、家へ入る。

その奥。

静かな部屋。

布団の中。

眠る、赤ん坊。

裏葉オビト。

男が、その姿を見た瞬間。

「……?」

違和感。

何かがおかしい。

だが。

分からない。

ただの、赤ん坊にしか見えない。

だが――

「……なんだ、この感じ」

空気が、違う。

この部屋だけ。

妙に、澄み切っている。

いや。

“ここから”広がっている?

男の視線が、オビトに向く。

その瞬間。

ぞくり、と。

本能が、震えた。

(……なんだ、これ)

理解できない。

だが、分かる。

これは――

触れてはいけない。

宗一郎が、そっと前に出る。

わずかに、庇うように。

「……ただの、俺の子供だ」

静かな声。

だが、その奥には。

強い意志。

守る、という覚悟。

男は、しばらく黙っていた。

やがて。

小さく、息を吐く。

「……分かった」

それ以上、踏み込まない。

踏み込めない。

「報告は……適当にぼかす」

「助かる」

短いやり取り。

男は、踵を返す。

玄関へ向かう。

その背中を見送りながら。

宗一郎は、ふと呟いた。

「……なあ」

男が振り返る。

「これ、やっぱり普通じゃないよな」

ほんの少しだけ。

親バカのフィルターが、剥がれていた。

男は、苦笑する。

「普通だったら、俺は来てない」

その言葉に。

宗一郎は、ゆっくりと頷いた。

「……だよな」

だが。

それでも。

視線は、優しいままだった。

部屋の奥。

眠る赤ん坊へと。

「まあいい」

小さく呟く。

「俺の子だからな」

その一言に。

迷いはなかった。


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