引っ越し前日

第十三話「引っ越し前日」

家の中が、ひっくり返っていた。

箱。箱。箱。

段ボールという文明の塊が、そこら中に積み上がっている。

「宗一郎、それ割れ物だから気をつけて!」

「分かってるって!……うお、重っ!?」

「だから言ったでしょ!」

慌ただしい。

とにかく慌ただしい。

(……なんだこれ)

オビトは、ベビーベッドの上からその光景を眺めていた。

引っ越し。

それが、今の状況の原因らしい。

だが。

(この箱、便利すぎないか?)

まずそこに目がいく。

軽い。

積める。

運べる。

収納できる。

万能か?

忍界だったら、荷物運搬の常識が変わるレベルだ。

「これ、どこ入れるんだ?」

「それは向こうで使うから別にして!」

「了解!」

バタバタと動き回る二人。

(……忙しそうだな)

ぼんやりと見ていると。

ふと、別のことに気づく。

(あ、虫)

視界の端。

壁の隅。

黒い靄。

一匹。

久しぶりに、近い。

最近はあまり見なかったが。

(……残ってたか)

まあいい。

潰すだけだ。

そう思って、血に意識を向けようとした――

その瞬間。

ぱしん

音。

一瞬。

黒い靄が、弾けて消えた。

(……は?)

思考が止まる。

今の。

見間違いじゃない。

確かに。

綾乃が。

手で。

叩いた。

そして。

消えた。

「……あれ、今の何?」

宗一郎が、きょとんとする。

「ん?何が?」

綾乃は、普通に箱を持ち上げている。

「いや、今なんか……」

「気のせいじゃない?」

軽く流される。

だが。

(いやいやいや)

オビトの中では、完全に引っかかっていた。

見えてる。

今の、確実に“見えてた”。

しかも、普通に叩いて消した。

(……なんだそれ)

俺だけじゃないのか?

この虫、見えるの。

いやでも。

今までの様子を見る限り、二人とも気づいてなかったはずだ。

(……たまたまか?)

偶然、当たった?

いや。

あの動き。

明らかに狙っていた。

(……分からん)

結論。

分からない。

まあいい。

消えたなら、それでいい。

「オビトー、退屈してる?」

綾乃が、覗き込んでくる。

「もうちょっとだからね」

(別にいいけどな)

内心で答える。

正直、このドタバタは見ていて面白い。

未知の作業。

未知の流れ。

それを観察するのも、悪くない。

そのまま。

時間が過ぎる。

日が落ちる。

夜。

家の中は、だいぶ片付いた。

必要なものだけが残っている。

「……ふぅ」

宗一郎が、ソファに座り込む。

「疲れた……」

「お疲れ様」

綾乃が、隣に座る。

その間。

少しだけ、静寂が流れる。

寝室。

布団の中。

オビトは、眠っていた。

静かに。

穏やかに。

その寝顔を、二人が見つめる。

「……なあ」

宗一郎が、ぽつりと呟く。

「この子さ」

「ええ」

綾乃は、すぐに察する。

「普通じゃないわね」

「だよな」

苦笑する。

だが、その目は優しい。

「……怖くはないの?」

宗一郎が、聞く。

綾乃は、少しだけ考えて。

首を振った。

「怖くないわ」

即答だった。

「だって、この子だもの」

それだけで、十分だった。

宗一郎も、小さく笑う。

「……そうだな」

だが。

問題は、それで終わらない。

「呪術界は……」

宗一郎の声が、低くなる。

「甘くない」

「ええ」

綾乃も、静かに頷く。

「特に、御三家は」

空気が、重くなる。

禪院。

加茂。

名前だけで、十分だった。

「血を、力を……」

宗一郎が言う。

「全部、“価値”で見る」

「ええ」

綾乃の目が、わずかに鋭くなる。

「人じゃなくて、“素材”としてね」

短い言葉。

だが、その中に詰まっているものは重い。

オビトの寝顔を、見る。

小さくて。

無防備で。

何も知らない。

「……こんなところに、置きたくない」

宗一郎が、静かに言う。

「絶対に」

「ええ」

綾乃も、同じ気持ちだった。

だからこそ。

ここを離れる。

守るために。

「……この子は」

綾乃が、そっと手を伸ばす。

オビトの頬に触れる。

柔らかい。

温かい。

「自由に、生きてほしい」

その言葉は、願いだった。

強い、願い。

宗一郎も、ゆっくりと頷く。

「……ああ」

それ以上の言葉は、いらなかった。

静かな夜。

新しい場所へ向かう前の、最後の時間。

その中で。

二人は、ただ。

我が子の未来を、願っていた。


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