赤ん坊

生きている。

それを実感するまでに、思っていた以上に時間がかかった。

いや、正確には――認めるまでに、だ。

目が覚めるたびに、視界はぼやけている。
身体は思うように動かない。
手を動かそうとしても、空を掴むようにふらふらと揺れるだけだ。

そして何より――小さい。

どう考えても、これは。

「……赤ん坊、かよ……」

当然、声にはならない。
喉から出るのは、意味を成さない音だけ。

それがまた、現実を突きつけてくる。

死んだはずだった。
終わったはずだった。

なのに、どういうわけか――俺は今、赤ん坊として生きている。

意味が分からねぇ。

いや、本当に分からねぇ。

分からねぇけど。

「……腹、減った……」

これだけは、やけにハッキリしていた。

理性とか過去とか関係なく、身体が訴えてくる。
強烈な飢餓感。

そして次の瞬間。

「はいはい、どうしたの?」

優しい声とともに、抱き上げられる。

――母親。

裏葉綾乃。

前世にはいなかった存在。
だが今の俺にとっては、間違いなく“母”だ。

柔らかい匂いと温もりに包まれる。

……妙に安心するのが、なんか悔しい。

「お腹すいたのね」

そう言って、当たり前のように。

口元に、乳が当てられた。

――ちょっと待て。

いや、待て待て待て。

これ、分かってるぞ俺。

理解してる。

何をされてるか、理解してる。

理解してるけど――

「……いや、これは、その……」

葛藤が、凄まじい。

精神年齢三十一歳。

中身は完全に大人。

だが身体は、生後間もない赤ん坊。

つまり。

「飲まねぇと死ぬ」

結論が、あまりにもシンプルすぎた。

一瞬の逡巡。

次の瞬間には。

本能が、全てを蹂躙した。

「――っ」

吸い付く。

飲む。

飲む。

……美味いとか不味いとかじゃない。

ただ、身体が求めている。

止まらない。

「ふふ、よく飲むわね」

楽しそうな声。

その余裕が、なんか腹立つ。

――いや、違う。

腹立つとかじゃねぇ。

これ、慣れたら終わりな気がする。

必死に理性を保とうとするが。

無理だ。

身体が勝つ。

完全に負けた。

「……くそ……」

飲み終えた頃には、ぐったりしていた。

精神的に。

そのまま、ぽんぽんと背中を叩かれる。

げっぷが出る。

――屈辱だ。

いや、でも楽だ。

くそ。

そんな葛藤をよそに。

「宗一郎ー!見て、今日もいっぱい飲んだわよ!」

「ほんとか!?すげぇなオビト!」

父親、裏葉宗一郎が駆け寄ってくる。

テンションが高い。

高すぎる。

そして。

「よーしよしよしよし!」

頬擦り。

――痛ぇ。

「……ッ!?」

声にならない悲鳴。

原因は明確。

髭だ。

剃ってはいるんだろうが、僅かに残るそれが、赤ん坊の柔肌には凶器すぎる。

痛い。普通に痛い。

「宗一郎、痛がってるわよ」

「え、マジで!?」

離れる。

助かった。

「ごめんなオビト!」

いやほんとに。

そこはちゃんと気をつけろ。

母親の頬擦りは、普通に気持ちいい。
柔らかくて、温かくて、安心する。

だが父親のそれは、完全に攻撃だ。

分類するなら近接武器。

以後、警戒対象とする。

そんなことを考えていると。

今度は、別の問題が発生する。

じわり、と。

下半身に違和感。

――あ、これ。

理解した瞬間、全てが終わった。

「宗一郎、オムツ替えるわよ」

「任せろ!」

いや任せるな。

何を任せてる。

待て、待て待て待て。

さっきの流れを思い出せ。

こいつ、勢いで来るタイプだぞ。

案の定。

「よし、いくぞー!」

軽快にオムツを外される。

――終わった。

羞恥とかそういうレベルじゃない。

もう概念としての何かが崩壊する。

だが抵抗はできない。

身体が動かない。

完全無力。

「おー、元気だな!」

何がだ。

何を見てそう判断した。

やめろ、その観察眼。

やめろ。

やめてくれ。

「ほら、綺麗にするぞー」

「はいはい、暴れないでね」

無理だ。

暴れる意思はある。

だが身体がついてこない。

結局、されるがまま。

全てが終わった頃には、精神がかなり削れていた。

――なんなんだこれ……。

戦場の方がまだマシだった気がする。

いや本当に。

その後、ベビーベッドに寝かされる。

ふかふかしている。

やたら快適だ。

天井には、揺れる飾り。

カラフルな何か。

そして。

視界の端に、置かれているぬいぐるみ。

黄色い、丸い顔。

赤い服。

「……?」

見覚えは、ない。

だが妙に存在感がある。

母親がそれを手に取った。

「これね、“プーさん”っていうのよ」

――プーさん。

知らねぇ。

完全に未知だ。

だが。

「ほら、オビトのお友達よ」

目の前に差し出される。

丸い。

柔らかい。

なんか、いい匂いがする。

無意識に、手を伸ばす。

掴む。

――ちょっと待て。

普通に、落ち着くんだが。

「気に入ったみたいね」

母親が笑う。

否定できないのが悔しい。

そのまま、口元に何かを当てられる。

おしゃぶり。

反射的に、咥える。

吸う。

……落ち着く。

「……」

認めたくねぇ。

だがこれは。

普通に、落ち着く。

くそ。

完全に赤ん坊の機能に適応している。

理性がどうとか関係ない。

身体が求めてる。

そのまま、視界がぼやけていく。

眠気。

抗えない。

最後に見えたのは。

覗き込む、二人の顔。

嬉しそうに、幸せそうに、笑っている。

その光景が。

妙に、胸の奥に残った。

――まあ、悪くねぇか。

そんな風に思ってしまった時点で。

たぶん、もう。

完全に始まっているのだろう。

この、“やり直し”が。


〆栞
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