生後三ヶ月

第四次忍界大戦で世界を滅ぼしかけた男が、現在――柔らかい感触を享受しながら乳を飲んでいる。

「……」

無だ。

完全に無の境地だった。

考えるな。感じろ。いや、感じるな。考えるな。

何も考えず、ただ本能に身を委ねる。

そうしないと、精神が持たない。

三十一年分の記憶を持ったまま、この行為に向き合うのは普通に無理がある。

だが人間というのは適応する生き物らしい。

三ヶ月も経てば、こうなる。

慣れたくなかったが、慣れた。

「ふふ、ほんとによく飲むわね」

綾乃の声が頭上から降ってくる。

その声音は相変わらず柔らかく、どこか誇らしげですらある。

やめろ。

その満足そうな顔。

なんか負けた気がする。

飲み終え、口が離れる。

自然と、息が吐き出された。

「……ふぅ」

もちろん声にはならないが、内心は完全にそれだった。

抱きかかえられたまま、ゆらゆらと揺れる。

心地いい。

認めたくないが、心地いい。

くそ。

そのまま視線をさまよわせていると、ふと耳に入った。

「ほんとに、不思議な名前よね」

「そうか?いい名前だと思うけどな」

宗一郎の声だ。

「“裏葉”って書いて“うちは”だぞ?かっこよくないか?」

「それはそうだけど……普通読めないわよ」

裏葉。

うちは。

その言葉が、頭の中で反響した。

――は?

一瞬、思考が止まる。

いや待て。

今、なんて言った?

裏葉と書いて、うちは?

……は?

「……は?」

理解が追いつかない。

いや、言葉としては理解できる。

だが意味が分からない。

うちは。

それは、俺の前世の姓だ。

偶然か?

いや、そんなわけがあるか。

こんな読み方、普通しない。

じゃあなんだ。

運命か?

ふざけるな。

そんな都合のいい話があるか。

だが現実として。

俺は今、“うちはオビト”と呼ばれている。

前世と同じ名前。

同じ読み。

だが、全く別の世界。

「……」

ぞくり、と。

背筋に何かが走る。

奇妙な一致。

偶然で片付けるには、出来すぎている。

だが。

今は、それ以上考えられなかった。

思考が、別のものに引きずられる。

窓の外。

そこに、“いる”。

黒い何か。

人の形をしている。

だが歪んでいる。

顔がない。

腕が長い。

異様に長い。

窓の外に、へばりつくように。

ゆらゆらと揺れている。

「……」

声は出ない。

だが、意識ははっきりしている。

あれは、何か。

分からない。

分からないが。

間違いなく“普通じゃない”。

(ほんとに……なんなんだ)

忍界にも、あんなものはいなかった。

少なくとも俺は知らない。

白ゼツでも、尾獣でもない。

もっと――気味が悪い。

そして気づく。

増えている。

最初に見た時よりも、数が。

少しずつ。

確実に。

(なんなんだよ……)

警戒する。

だが、どうにもならない。

身体は赤ん坊だ。

外に出ることも、戦うこともできない。

ただ、見ることしかできない。

その時だった。

体の奥で、何かが動いた。

違和感。

だが不快ではない。

むしろ――懐かしいような。

血が、熱い。

(……?)

どくん

どくん

どくん

脈打つ。

はっきりと感じる。

血流。

鼓動。

それが、やけに強い。

意識を向けた瞬間。

変化が起きた。

指先。

そこに、何かが集まる。

(……おい)

熱が、集中する。

そして。

ぷつり、と。

小さな血の粒が、浮かび上がった。

(あ、)

空中で、止まっている。

重力を無視して。

ゆらり、と揺れながら。

さらに。

形が変わる。

伸びる。

細く、鋭く。

針のように。

(おいおいおい)

理解が追いつかない。

だが、感覚はある。

これは、自分の意思で動かせる。

試しに、ほんの僅か意識を向ける。

すると。

ぴくり、と。

血の針が、わずかに動いた。

(これって……)

忍術ではない。

印も、チャクラも使っていない。

だが似ている。

いや、もっと直接的だ。

血そのものを操っている。

その瞬間。

窓の外にいた黒い影が、びくりと震えた。

(……あれ)

反応した。

確かに。

こちらを“見た”。

顔はないはずなのに。

それでも、分かる。

見られている。

次の瞬間。

すっと。

影が、後ろに引いた。

そして。

消えた。

まるで、逃げるように。

(……逃げた?)

静寂が戻る。

窓の外には、何もない。

さっきまで確かにいたはずの存在は、跡形もなく消えていた。

家の中も、変わらない。

宗一郎はのんびりしているし、綾乃は穏やかに笑っている。

誰も気づいていない。

あれに。

この力に。

「……」

指先の血は、いつの間にか消えていた。

元に戻ったのか、体内に戻ったのか。

分からない。

だが、確かなことがある。

(……ただの世界じゃねぇな、ここ)

忍界とは違う。

まったく別の理屈で動いている。

そして俺は。

その中で、何かを“持っている”。

血を操る力。

名前も、仕組みも分からない。

だが。

確実に、使える。

(面白ぇじゃねぇか)

ほんの少しだけ。

口元が、緩んだ気がした。

恐怖よりも先に。

好奇心が勝つ。

それは昔から変わらない。

たとえ身体が赤ん坊でも。

中身が、うちはオビトである限り。

その本質だけは、変わらなかった。


〆栞
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