赤血操術の暴走
「今日はお風呂の日だぞー」
風呂か。
嫌いじゃない。むしろ好きだ。
最初の頃は、あの“水に沈められる感覚”に本気で警戒していた。戦場での経験がある分、視界を奪われる状況には本能的に身構える。だが三ヶ月も経てば慣れるものだ。今ではすっかり、日課のひとつとして受け入れている。
服を脱がされる。
手慣れた動きだ。
「ほらほら、暴れるなー」
暴れてない。これは抵抗の意思表示だ。
だが身体は言うことを聞かない。
そのまま、小さな桶に入れられる。
そして――
ちゃぷん。
ぬるいお湯が身体を包み込む。
(ああー)
これは悪くない。
ちょうどいい温度だ。熱すぎず、ぬるすぎず。じわりと身体の芯が緩んでいく。
自然と力が抜けた。
「気持ちよさそうね」
綾乃の声が、優しく落ちてくる。
「オビト、お風呂好きね」
(まあな)
内心で頷く。
この時間だけは、妙に平和だ。何も考えなくていい。ただ温もりに身を任せるだけでいい。
だが。
その“何もない時間”は、長くは続かない。
ぞわっ
背筋を撫でるような違和感。
(またか)
黒い靄。
ここ最近、頻繁に見るようになった。
窓の外。廊下の隅。天井。影の奥。
人の形だったり、塊だったり、形は様々だが、共通しているのは――気持ち悪い、という一点。
(鬱陶しいな)
正直、それ以上でもそれ以下でもない。
怖いというより、邪魔だ。
視界に入るたびに集中が削がれる。
忍の世界にも似たようなものはあった。森で寝ていると顔にまとわりつく虫。耳元で羽音を立てるやつ。
つまり――
(これ、虫だな)
結論。
黒い靄の虫。
うん。
そう思うことにした。
その方が楽だ。
そして今。
風呂場の天井。
そこに、一匹。
黒いのが張り付いていた。
腕が長い。
顔がない。
だらりと垂れている。
(……気持ち悪い)
完全に虫だ。
しかもデカい。
(よし)
思考はシンプルだった。
(潰すか)
その瞬間。
どくん
体の奥で、何かが動いた。
血。
あの時と同じ感覚。
熱が巡る。
意思に応じて、流れが変わる。
(来たな)
慣れつつある自分がいるのが、少し怖い。
だが躊躇はない。
指先に意識を集中する。
すると。
お湯の中で。
するり、と。
赤い糸のようなものが伸びた。
(お、)
血だ。
自分の血。
だが、不思議なことに。
湯は汚れない。
血だけが、形を保っている。
まるで水と混ざらない別の存在のように。
(便利だな)
素直な感想だった。
その血が、ゆらりと浮く。
水面を抜け。
空中へ。
重力を無視して、天井へと向かう。
狙いは明確。
あの“虫”。
血は細く、鋭く形を変える。
針。
それが。
ぷすっ
黒い靄に突き刺さった。
「……」
一瞬。
時間が止まったように感じた。
次の瞬間。
ぼん
音もなく、靄が弾ける。
煙のように、消えた。
(おお)
あっさりだ。
拍子抜けするほど簡単だった。
虫退治、完了。
満足感が広がる。
だが。
その満足は、長く続かなかった。
お湯の中。
視界の下。
自分の周囲。
赤。
血。
いっぱい。
ぷかぷか浮いている。
(あ、)
理解した瞬間。
一気に現実に引き戻される。
やばい。
これ。
冷静に考えて。
完全にアウトだ。
赤ん坊が風呂で、大量出血してる図。
(やばいやばいやばい)
俺が焦った、その時。
「綾乃」
宗一郎の声。
振り向く。
「……え?」
綾乃も、見る。
そして。
沈黙。
空気が、止まる。
風呂桶の中。
赤ん坊。
周囲に浮かぶ血。
完全にホラーだ。
(終わった)
そう思った。
通報されるレベルだろこれ。
いやその前に、普通にパニックになるはずだ。
だが。
「……すごい」
ぽつり、と。
綾乃が呟いた。
(は?)
「宗一郎、見て」
「……ああ」
二人とも。
じっと、こちらを見ている。
だがその目は。
恐怖でも、困惑でもない。
――輝いていた。
「これ……この子が?」
「間違いないな……」
何を納得している。
いや待て。
待て待て。
「すごいわオビト!」
綾乃の顔が、ぱあっと明るくなる。
「こんなに小さいのに……!」
「やっぱり俺たちの子だな……!」
宗一郎も、感動している。
いや何に。
何に感動してる。
完全に状況おかしいだろ。
血だぞ。
風呂だぞ。
赤ん坊だぞ。
組み合わせとして最悪だろ。
「ねえ宗一郎、見てこれ、ちゃんと形保ってる」
「ああ……水に混ざってない」
「コントロールしてるのよ、この子」
「天才か……?」
(いやいやいや)
待て待て待て。
なんでそんなポジティブなんだ。
おかしいだろ。
普通もっとこう、あるだろ。
悲鳴とか、焦りとか。
なのに。
「うちの子すごい!」
満面の笑み。
(……なんだこの親)
理解が追いつかない。
いや、別の意味で追いついた。
――親バカだ。
これが噂に聞くやつか。
いや噂じゃないが。
前世では知らなかったが。
なるほど。
ここまでとは。
だが。
そのおかげで。
俺は、普通に助かった。
「オビト、えらいわねぇ」
綾乃が、優しく頭を撫でる。
「ちゃんと使えてるのね」
宗一郎も、うんうんと頷いている。
いや使えてるとかそういう話じゃない。
暴走だぞこれ。
完全に無意識だぞ。
だが。
否定する術はない。
赤ん坊だからな。
「……」
ふと、天井を見る。
さっきまでいた黒い靄は、もういない。
代わりに、何もない空間。
静かな風呂場。
(……まあいいか)
虫を潰した。
それだけの話だ。
少なくとも、俺の中では。
あれは危険な何かじゃない。
ただの、鬱陶しい存在。
だから。
(見つけたら潰す)
それだけだ。
忍としての習性かもしれない。
邪魔なものは排除する。
単純な話だ。
その結果が、多少ホラーでも。
親が喜んでるなら、まあ問題ない。
たぶん。
「ほらオビト、あったかいねぇ」
再び、湯に沈められる。
血は、いつの間にか消えていた。
何事もなかったかのように。
温もりが、戻ってくる。
(……悪くねぇな)
ほんの少しだけ。
そんなことを思ってしまう自分がいた。
風呂か。
嫌いじゃない。むしろ好きだ。
最初の頃は、あの“水に沈められる感覚”に本気で警戒していた。戦場での経験がある分、視界を奪われる状況には本能的に身構える。だが三ヶ月も経てば慣れるものだ。今ではすっかり、日課のひとつとして受け入れている。
服を脱がされる。
手慣れた動きだ。
「ほらほら、暴れるなー」
暴れてない。これは抵抗の意思表示だ。
だが身体は言うことを聞かない。
そのまま、小さな桶に入れられる。
そして――
ちゃぷん。
ぬるいお湯が身体を包み込む。
(ああー)
これは悪くない。
ちょうどいい温度だ。熱すぎず、ぬるすぎず。じわりと身体の芯が緩んでいく。
自然と力が抜けた。
「気持ちよさそうね」
綾乃の声が、優しく落ちてくる。
「オビト、お風呂好きね」
(まあな)
内心で頷く。
この時間だけは、妙に平和だ。何も考えなくていい。ただ温もりに身を任せるだけでいい。
だが。
その“何もない時間”は、長くは続かない。
ぞわっ
背筋を撫でるような違和感。
(またか)
黒い靄。
ここ最近、頻繁に見るようになった。
窓の外。廊下の隅。天井。影の奥。
人の形だったり、塊だったり、形は様々だが、共通しているのは――気持ち悪い、という一点。
(鬱陶しいな)
正直、それ以上でもそれ以下でもない。
怖いというより、邪魔だ。
視界に入るたびに集中が削がれる。
忍の世界にも似たようなものはあった。森で寝ていると顔にまとわりつく虫。耳元で羽音を立てるやつ。
つまり――
(これ、虫だな)
結論。
黒い靄の虫。
うん。
そう思うことにした。
その方が楽だ。
そして今。
風呂場の天井。
そこに、一匹。
黒いのが張り付いていた。
腕が長い。
顔がない。
だらりと垂れている。
(……気持ち悪い)
完全に虫だ。
しかもデカい。
(よし)
思考はシンプルだった。
(潰すか)
その瞬間。
どくん
体の奥で、何かが動いた。
血。
あの時と同じ感覚。
熱が巡る。
意思に応じて、流れが変わる。
(来たな)
慣れつつある自分がいるのが、少し怖い。
だが躊躇はない。
指先に意識を集中する。
すると。
お湯の中で。
するり、と。
赤い糸のようなものが伸びた。
(お、)
血だ。
自分の血。
だが、不思議なことに。
湯は汚れない。
血だけが、形を保っている。
まるで水と混ざらない別の存在のように。
(便利だな)
素直な感想だった。
その血が、ゆらりと浮く。
水面を抜け。
空中へ。
重力を無視して、天井へと向かう。
狙いは明確。
あの“虫”。
血は細く、鋭く形を変える。
針。
それが。
ぷすっ
黒い靄に突き刺さった。
「……」
一瞬。
時間が止まったように感じた。
次の瞬間。
ぼん
音もなく、靄が弾ける。
煙のように、消えた。
(おお)
あっさりだ。
拍子抜けするほど簡単だった。
虫退治、完了。
満足感が広がる。
だが。
その満足は、長く続かなかった。
お湯の中。
視界の下。
自分の周囲。
赤。
血。
いっぱい。
ぷかぷか浮いている。
(あ、)
理解した瞬間。
一気に現実に引き戻される。
やばい。
これ。
冷静に考えて。
完全にアウトだ。
赤ん坊が風呂で、大量出血してる図。
(やばいやばいやばい)
俺が焦った、その時。
「綾乃」
宗一郎の声。
振り向く。
「……え?」
綾乃も、見る。
そして。
沈黙。
空気が、止まる。
風呂桶の中。
赤ん坊。
周囲に浮かぶ血。
完全にホラーだ。
(終わった)
そう思った。
通報されるレベルだろこれ。
いやその前に、普通にパニックになるはずだ。
だが。
「……すごい」
ぽつり、と。
綾乃が呟いた。
(は?)
「宗一郎、見て」
「……ああ」
二人とも。
じっと、こちらを見ている。
だがその目は。
恐怖でも、困惑でもない。
――輝いていた。
「これ……この子が?」
「間違いないな……」
何を納得している。
いや待て。
待て待て。
「すごいわオビト!」
綾乃の顔が、ぱあっと明るくなる。
「こんなに小さいのに……!」
「やっぱり俺たちの子だな……!」
宗一郎も、感動している。
いや何に。
何に感動してる。
完全に状況おかしいだろ。
血だぞ。
風呂だぞ。
赤ん坊だぞ。
組み合わせとして最悪だろ。
「ねえ宗一郎、見てこれ、ちゃんと形保ってる」
「ああ……水に混ざってない」
「コントロールしてるのよ、この子」
「天才か……?」
(いやいやいや)
待て待て待て。
なんでそんなポジティブなんだ。
おかしいだろ。
普通もっとこう、あるだろ。
悲鳴とか、焦りとか。
なのに。
「うちの子すごい!」
満面の笑み。
(……なんだこの親)
理解が追いつかない。
いや、別の意味で追いついた。
――親バカだ。
これが噂に聞くやつか。
いや噂じゃないが。
前世では知らなかったが。
なるほど。
ここまでとは。
だが。
そのおかげで。
俺は、普通に助かった。
「オビト、えらいわねぇ」
綾乃が、優しく頭を撫でる。
「ちゃんと使えてるのね」
宗一郎も、うんうんと頷いている。
いや使えてるとかそういう話じゃない。
暴走だぞこれ。
完全に無意識だぞ。
だが。
否定する術はない。
赤ん坊だからな。
「……」
ふと、天井を見る。
さっきまでいた黒い靄は、もういない。
代わりに、何もない空間。
静かな風呂場。
(……まあいいか)
虫を潰した。
それだけの話だ。
少なくとも、俺の中では。
あれは危険な何かじゃない。
ただの、鬱陶しい存在。
だから。
(見つけたら潰す)
それだけだ。
忍としての習性かもしれない。
邪魔なものは排除する。
単純な話だ。
その結果が、多少ホラーでも。
親が喜んでるなら、まあ問題ない。
たぶん。
「ほらオビト、あったかいねぇ」
再び、湯に沈められる。
血は、いつの間にか消えていた。
何事もなかったかのように。
温もりが、戻ってくる。
(……悪くねぇな)
ほんの少しだけ。
そんなことを思ってしまう自分がいた。
【〆栞】