虫が寄り付かない街

変化は、じわじわと。

だが確実に、広がっていた。

最初は家の中だけだった。

黒い虫が減る。
空気が軽くなる。
視界が澄む。

それが、いつの間にか。

家の外へと、滲み出していた。

「最近、この辺り空気いいわよね」

朝の道端。

買い物帰りの主婦たちが、そんな会話をしている。

「分かる。なんか前よりもスッキリしてるっていうか」

「変な臭いもしないし、湿気も少ない感じがするのよね」

「ねぇ、あれじゃない?風の通りが良くなったとか」

「そうかしら?」

笑い合う声。

誰も気づいていない。

その“変化の正体”に。

ただ。

確かに、感じている。

この街が――住みやすくなっていることを。

(……そうか?)

俺は、抱えられながらぼんやりと思う。

正直なところ、実感は薄い。

だがひとつだけ、確かなことがある。

黒い虫が、いない。

いや。

正確には――

(近づいてこない)

見える。

遠くに。

電柱の上。

建物の影。

うごめく黒い靄。

だが。

それ以上、近づいてこない。

一定の距離を保ったまま、こちらを“見ている”。

(……なんだこれ)

前は、普通に家の中まで入り込んできていた。

だが今は違う。

境界がある。

見えない線が、引かれているような。

それ以上は、踏み込めない。

そんな“壁”が、確かに存在していた。

(俺か?)

自然と、そう考える。

理由はそれしかない。

家の中で、虫を潰していた。

それが外にも影響している?

(……広がってる?)

範囲が。

自分を中心に。

じわじわと。

まるで――

(結界みてぇだな)

ぽつりと、そんな言葉が浮かぶ。

忍界にも似たような術はあった。

侵入を防ぐための結界。

だがこれは違う。

意識して張っているわけじゃない。

勝手に、形成されている。

(……気持ち悪いな)

便利ではある。

だが、理解できないものは気味が悪い。

それでも。

虫が来ないなら、それでいい。

それだけだ。

その頃。

通りを、一人の男が歩いていた。

黒いスーツ。

鋭い目。

ただの一般人には見えない。

だが、その視線は。

周囲の“何か”を、確かに捉えていた。

足を止める。

わずかに、眉をひそめる。

「……この辺」

空気が違う。

淀みがない。

本来なら、この規模の住宅地には必ずあるはずの“濁り”が。

まるで存在しない。

「妙に……呪いが薄い」

呟く。

違和感。

明らかに、異常。

人が多ければ、呪いも増える。

それがこの世界の理だ。

なのに。

ここは違う。

澄みすぎている。

「誰かが祓ってる……?」

いや、違う。

それにしては、範囲が広すぎる。

継続性もある。

一点ではなく、面で維持されている。

(結界……?)

思考がそこに至る。

だがすぐに、否定する。

術式の痕跡がない。

呪力の流れも、不自然なほどに静かだ。

「……なんだ、これ」

分からない。

だが確かに。

この一帯には、“何か”がある。

視線を巡らせる。

そして、ふと。

一軒の家の前で、止まった。

裏葉家。

ごく普通の、一戸建て。

だが。

「……ここか?」

直感が告げる。

原因は、ここにある。

その時。

玄関が開いた。

「オビトー、ちょっと外の空気吸おうか」

宗一郎が、赤ん坊を抱えて出てくる。

(……外か)

ぼんやりと、外を眺める。

その瞬間。

男と、目が合った。

ほんの一瞬。

だが。

確かに、交差した。

「……っ」

男の背筋に、寒気が走る。

何かを見た。

だが、それが何か分からない。

ただ。

本能が告げる。

――触れるな。

あれは、危険だ。

理解不能な何か。

視線を逸らす。

何事もなかったかのように、歩き出す。

だが。

足取りは、わずかに早かった。

(……なんだ、今のは)

振り返らない。

振り返れない。

ただ一つ、確かなこと。

この街は、普通じゃない。

そして。

その中心にいるのは――

小さな、赤ん坊。

裏葉オビト。

本人は。

そんなこと、何も知らずに。

「……ふぁ」

小さくあくびをした。

この世界にとって。

自分がどれほど異質な存在か。

まだ、知る由もなかった。


〆栞
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