一人は楽。
傷つけることも傷つくこともない。
心の内は自分だけが分かっていればいい。
もちろん誰とも関わらずに生きることは不可能だと知っているけれど、深入りをさせなければいいだけ。
自分一人養うだけのお金を稼いで、時々は贅沢していいものを食べたり、買いそろえてみたりして。
居場所だって自分で選べる。行きたいところへいつだって飛んでいける。
この自由と身軽さを一度手にすると、誰かと何かを分かち合って誓い合って生きていくことが想像できなくなってしまう。
きっとそれがこの妙齢で独身でいる私の、私たる所以。

「私、降谷くんより2つも年上だよ。もう30越えてるんだよ」
「僕は気になりませんけど、何か問題でも?」
「私が気になる」
「なら萱島さんが気にしないでいられるように振る舞いますから、問題ありませんね」
「それに私まめじゃないしプライベート優先するタイプだし」

仕事柄、約束を放り出したり記念日を共に過ごせないなんてことはざらなので。
一人でも過ごせる強い女性が好きなんです。

そう耳元で囁かれて、私は返す言葉を見つけられず黙り込んでしまった。


仮初めを重ねる




大学在学中にゼミ懇親会で知り合った程度の、そして卒業から何年も経った後にOB会で再会した程度の関係なのになぜか唐突に、当時からその優秀さで見た目以上に注目されており卒後は警察に入ったという才色兼備で有望株過ぎる後輩に口説かれている。
私にはこの状況が少しも理解できないでいた。

「降谷くん、警察官になったんだよね」
「そうですが」
「しかも省庁勤務なんでしょう」
「そうですね、一応」
「それで何で私なの」
「萱島さんでなくちゃいけない理由があります。…周りを気にせず話したいので、二人きりになれませんか」
「……はあ、分かった」

適当に理由を付けて、OB会の場を去ることにした。
先生や同期生たちともう少し話したかったが、降谷くんの双眼の圧が選択肢を与えてくれなかった。
降谷くんはこのような場になかなか顔を出さないレアキャラだ。その上わざわざ私を口説いてくるなんて特殊な理由があるに違いない。ならばぜひその理由を伺っておきたい。面倒臭さに好奇心が勝ったというのが正直なところだった。

降谷くんの馴染みの店だという地下のバーに連れて来られた。
週末の割には客もまばら、一人客がほとんどで静かだ。床のカーペットが足音を消してくれて、落ち着いた雰囲気の店だった。近くにこんなお店があったなんて。それを知られただけでも収穫だと思った。
カウンターに並んで腰かけて、降谷くんはスコッチウイスキーのロックを、わたしはカシスソーダを注文する。
年配のマスターが洗練された無駄のない手つきで飲み物を用意するのを目で追っていると、隣の降谷くんが口を開いた。

「急にすみませんでした。実は、あなたをここに連れてきたのには理由があります」
「はあ、そうなのかなって思ったけど、どうしたの?」

す、と静かに目の前にカクテルが置かれた。続いて、降谷くんの前にもウイスキーグラスが置かれ、氷がカランと小さく音を立てた。琥珀色の液体が照明の光を帯びてとても綺麗だ。

「本来なら公言できないことですが、僕は今公安警察という身分です」
「へえ、…正直よく知らないけど、テロとか組織犯罪を扱うんだったっけ」
「理解としてはそれで充分です。それで、一般の警察官より周りの目を気にする必要があるんですが、僕一人では不自然になる場面も多くて…女性の同伴があると心強いんです。それで、もし萱島さんが良ければですが、」

目を合わせず話している彼の隣で、私も遠慮なくカシスソーダに口を付ける。あ、美味しい。ソーダの具合もカシスの甘すぎなさも程よくて私好みだ。

「降谷零の、フェイクの恋人になってくれませんか」

そう言われて彼の方へ顔を向けると、サックスブルーの瞳が真っ直ぐ私の方に向いていた。

「フェイク、」

日常に聞き慣れない言葉で、つい首を傾げてしまった。フェイクニュース、フェイクファー。偽物、ということか。

「ええ。恋人のふり、です。
僕は任務の都合上いくつかのカバー、別人格を備えていて、場合によってそれを使い分けている状況です。
本来の僕は降谷零ですが、それを知られたくない相手というのも存在します」

例えば昨日の夕食は和風ハンバーグだった、とでも話すかのようにごく自然に明かされたが、これは重要機密事項だ。
公安警察が潜入捜査などのために自身とは別の人間を演じることがあると、テレビドラマで目にしたことはあった。それを実際に行っている人間がすぐそこに存在しているなんて、さすがに容易には信じがたい。
疑いの気持ちも湧くが、目の前の降谷くんの瞳は真剣だ。

「降谷零も一人の人間として誰かに揺さぶられたりすることがあるはずです。人間らしさは、僕の動きをごまかしやすくする。その材料と言えば余りに失礼ですが…簡単に言うと降谷零の恋人という存在を作りたい。そうすれば二人きりの空間を持つことができて、その中で僕は自由に動き、指示が出せる。それすら監視されるならその監視を利用する。萱島さんを巻き込むことになるのは否定できませんが、精一杯守ります。
それに、あなたなら大丈夫でしょう?」

降谷くんの綺麗な唇が弧を描いて、スマートに笑っている。
まるで自身に隙や感情、人間らしさがないと話しているかのようだが、そうでなければ公安警察など務まらないだろうなとなんとなく納得する私もいた。

あなたなら、と言われたが、確かにわたしは一般人(区別するわけではないけれど)とは少し違う境遇を持っていた。
警察官だった父が柔道剣道のみならず格闘技全般に精通していたため幼いころから護身術を覚え込まされ、警察官になるように言われて育ち法学部に進学した。けど私自身はそれを望んでないんだよね、という話を在学当時の降谷くんにした覚えがあった。降谷くんは警察に入ることを明確な目標に掲げていたから、私の父の話を聞きたかったんだろうけど。

結局大学を卒業して私が選んだ職は製薬会社のMR、外部向けに自社の医薬品の情報を取り扱う営業に近い職種だった。
扱う品には根拠となる法令があり、それに基づいた解釈と取り扱いが必要であるため法学部卒、というか文系理系問わず採用の枠が設けられる業界だ。多種多様な人間と出会える仕事。医療や薬の知識も知れば知るほど面白くて、いい選択をしたと今でも思っている。

警察官を目指すのに適した環境にありながらそれを選ばなかった私。
精神論は幼いころから父に叩き込まれてきた。「誰かのための自分」「他者を守り、結果として国を守ることの尊さ」を教えられた私にとって警察官という職が魅力的に見えたこともあったけれど、反面、父の正義感の強さにどこかうんざりしていたのだ。自己犠牲の塊というか、公僕として自身や家族を犠牲にすることを厭わない人だった。心配そうに父の帰りを待つ母をそばで見ていたからだろう。
悩んだ末、最終的には自分自身が興味のある道へ進むことにした。意外にも、父は成人した私の意志を否定せず認めてくれた。それは単純に嬉しかったし、自分のためであり誰かのために働くのだという精神は大切にしている。

「大丈夫かどうかは、…私はただのMRだよ」
「だからいいんです。複数の医療機関を渡り歩き、自由度が高く社用車での単独行動が多い職種だ。その隙間に恋人と連絡を取ったり会ったりしていたとしても大きな違和感はない。常に動き回っている人間というのが僕にとっては都合がいいので」

はぁ、と声と息が混じった気の抜けた音が口から洩れた。
正直なところ何をするのかイメージできないが、私という人間を買ってくれていると思っていいのだろう。
私個人というより私の持つ環境含めて、というのが正しいか。

「よく分からないけど、降谷くんが身動き取りやすくなるように、恋人のふりをしてほしいってこと?」
「その通りです。理解が早くて助かります」
「ん〜…、さすがに簡単には決められないかなあ」
「実際に恋人が?」
「いや、いないけど」

さっきのOB会という名の飲み会で散々同期その他諸々に追及された話題なんだから分かってるでしょ、と眉間に皺を寄せる。絶対わざと聞いてる。
くく、と俯いて笑う降谷くんは相変わらずだ。学生時代もなんだかすべてを知り得たような達観した顔をして笑っていた、気がする。

「なら、僕としてはぜひご協力いただきたいのですが。
萱島さんならもし探られたとしても以前からつながりのある人物として現実味を持たせられるし、こうして数年単位で顔を合わせているわけだから恋人同士になったとしても不自然ではないでしょう。あなたにとって損になるような行動は慎みます。例えばプライベートを必要以上に詮索したり邪魔をするようなことは決してしないつもりです。あなたが現実的な婚活に挑もうというならそれはもちろん否定しませんし、」
「ああもういいから!婚活とかする気はこれっぽっちもないし休みは家で適当に過ごしてるし、そんなもんだから!別に配慮はいらないから!」
「なら、協力してもらえますね」

見事にたたみ込まれてしまった。思い返せばこの男は学生のころから口が達者で負けず嫌い、教授とも対等に渡り合えるような人間だった。
隣の彼は両目を細めて、甘く微笑んでいる。その瞳の裏はきっと真っ黒だ。

「…分かった。でも条件がある。私のできること以上のことはできない。私は降谷くんほど器用じゃないからぼろを出す可能性も大いにある。それでもきっちりフォローしてもらえるならやってもいいよ」

悔しまぎれに、私自身が下手をこくリスクを告げた。インフォームドコンセント、説明と同意。私が仕事上大切にしていることだ。この場では何の意味もなさないかもしれないけれど。

「もちろん、そこのところはご心配なく。僕はそこそこ優秀なので」

嬉しそうな降谷くんの謙虚なんだか何なんだか分からない発言に頭を抱えたくなってきた。お酒が回ったわけじゃないのに頭が痛んだ気がして、ついさっきの自分の発言を顧みて少し、いや半分くらい後悔している。

「ちなみに期限は?」
「僕がフェイクの恋人を必要としなくなるまで、もしくは萱島さんに恋人ができるまで、ですね」



******



バーで適当に飲んだ帰り道。恋人(偽)は駅まで送ると言い、私の隣を歩いていた。
半ば開き直って、協力するにあたって気になったことを降谷くんに問う。

「そういえばこれ、報酬ってあるの?」
「公安の協力者名簿に登録していいなら報酬費として出せますが、個人的にはあなたをその名簿に載せたくないんです。交際届は出さなければいけませんが、御父上が元警察官であれば何の問題もないでしょうし、こちらの方が諸々スムーズにいくかと」

なるほど、そういう面でも父の存在は役に立つという訳か。
計算ずくの上で選ばれたのだと妙に納得してしまう。しかし、

「…今更ながら父と結婚した母の気苦労が知れるよ…。大変なんだね、警察官って」

結婚相手の身辺調査がなされるとは聞いたことがあるが、交際だけでも届出が必要とは。改めて母親の覚悟を思う。それを受け入れるだけの愛情があったのだろう。今も仲の良い両親の顔が頭に浮かんだ。

「あなたに負担をかける以上、タダというわけにはいかないのは承知です。デートの費用はすべて僕が持ちますし、欲しいものがあれば強請ってくれてかまいませんので、それでチャラになりませんか」
「それ、なんだかすごくむかつくんだけど」
「やりやすいなあ、本音が駄々洩れじゃないですか」
「馬鹿にしてる?」
「滅相もない。感情を出してもらえるとそれらしく見えます。やっぱりあなたは適任でした」

ははっ、と声を出して笑う恋人(偽)がやっと歳相応に見えた。
仮初めの関係とはいえ、並んで歩くのに違和感はないだろうか。不安が過るが、先輩として頼られたのだと思えばいいか。いや、よくない。落とし込む理由を探さないと。

「大丈夫ですよ、負担にならないように、うまくやりますから」

満足そうな表情の彼に、出てくるのはため息だけだった。






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