Close yet far




「こんにちは」
「いらっしゃいませ、萱島さん」

チリン、と小気味よいドアベルの音を鳴らして店の扉を開ける。
出迎えてくれた彼にいつものように挨拶をして店内へ入った。

ランチタイムが過ぎてしばらく経った喫茶ポアロは客もまばらで、静かで穏やかな空気が漂っていた。空いているしいいかな、と窓際の席に腰掛ける。
やや傾き始めた日差しが優しく差し込むその席は、わたしのお気に入り。
通りを行き交う人を眺めたり、雲の流れに目を向けながらゆっくりと時間の流れを感じるのが好きだ。

「メニュー、ご覧になりますか?それとももうお決まりですか?」

水と少しの氷が入ったグラスを持ってきた彼がわたしに尋ねる。

「ええと、じゃあ温かいコーヒーを、アメリカンでお願いします」
「かしこまりました。お持ちしますので少々お待ちください」

いつもの笑顔とともに軽く会釈をした安室さんは、スマートにカウンターへ戻り、カップを準備し始めた。
その様子をぼんやり眺めるのもわたしの好きな時間のひとつ。



***



喫茶ポアロには、仕事の合間の休息や休日のブランチに、ときどき訪れていた。ある時、新しいスタッフが入ったと榎本さんに紹介されたのが彼だった。

「慣れるまではご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」と挨拶した安室さんは、傍目から見ても完璧だった。

容姿端麗、気遣いのある言葉と柔らかい物腰。とても落ち着いていて、目線の動かし方や指先の仕草までがわたしにはとても整って見えた。
ミルクのつけ忘れなどのちょっとしたミスをして苦笑いする彼の姿もあったけれど、それも含めて完璧だと感じたのは、わたしが完璧主義者だったからかもしれない。
どこか隙がある方が、人は親しみを感じやすいものだ。わたしには、彼があえてそれを演出しているように思えた。

矛盾しているような、不思議な感覚。
でもそれらを含めてさえ、彼は「喫茶店の好感度の高い店員」としてひどく整って見えたのだ。
だからだろう、彼のことがなんとなく気になった。



***



その彼に職場で鉢合わせた時には、それはそれは驚いたものだ。

警察庁の事務官。それがわたしの仕事だった。毎日通勤ラッシュに揉まれて霞が関へ通勤している。
総務課所属のわたしは普段から庁内の人間の動きに関わっているけれど、安室透という名前は聞いたことがなかった。だからこそ、庁内に彼の姿があるなんて想像することもなかったのだ。

来客という風ではない。同じ年くらいかもしかしたら少し上になるだろう男性を複数連れ歩きながら、鋭い目線を周囲にめぐらせつつ堅い空気を纏う彼。貫禄のある姿だった。
すれ違いざまにふと目線が絡み、顔を向き合わせた。一瞬目を丸くしたわたしに彼は、見慣れた「安室さん」の柔らかさをわずかに滲ませた笑みをくれた。

それは本当に短い瞬間で、彼の目線はすぐに、真っ直ぐ前へ向き直っていた。すごく遠くを見据えているような目で。
それからわたしたちは、お互いそのまま動きを止めることなく距離を広げていった。


この建物の中には特別な事情や任務を抱えている者が多くいることを、わたしは知っている。
おそらく安室さんもその一人なのだろう。それくらいは察することができる。
深追いすることもできなくはないけれど、知りすぎることがまたリスクになる。それがこの少し特殊な組織の日常であることも知っている。

気にならないわけじゃないけれど、いつか自然にそこに行き着くまでは答えを探ることはせずにいよう。と、わたしはわたしを納得させて、改めて背筋を伸ばして歩き続けた。



***



「僕は任務として、ここにいます」

ポアロで彼にそう言われてさらに驚きが増したのは、すれ違った翌週のことだった。






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