裏方とはいえ、これだけ大きな組織だ。事務官の業務も多岐に渡る。
総務課広報室担当。主には報道発表や情報公表に関する諸々の処理。広報誌に関すること。データや実績の整理。それ以外に、表立って説明しにくいことも多くある。
デスクから一歩も動けない日もあれば、どこそこの部署へ回ってばかりでさっぱり席に着けない日もある。なるべく他部署との交渉事は足を使って行いたいわたしにとっては尚更だった。
メールも電話も便利だけれど、やっぱり顔を合わせて話すのが一番だ。言いにくいことも伝えやすくなるし、相手にとってもそれは同じだろうと思うから。
情報を拾おうとせずともいろんなことが耳に入ってくるこの組織では、敢えて耳を閉じておくことも必要なのだと入庁からしばらくして学んだ。
先輩が言うには、そうでなくては務まらないらしい。
花形ではなくとも、地味に組織を支える縁の下の力持ちとして貢献できれば何よりだと、わたしは思っている。わたしはわたしの仕事が好きだ。地道に国を支える仕事の手伝いができれば、と。
多分、きっと、安室さんは花形の方なんじゃないかな。
ただそこにいるだけで自然と目を引く立居振る舞い。色素の薄い髪の毛と褐色の肌。引き締まった体にグレーのスーツがとても似合っていた。対組織の捜査とか、諜報とか、そういう場所の中心に彼はいるんじゃないかなと勝手に思っている。
彼はなぜ、安室透と名乗って喫茶ポアロにいるんだろう。
すれ違ったあの日からこのところ、彼に対する疑問が頭の中の一部を占めていた。
わたしのプライベートな空間に、警察庁の人間がいるというのは気になるものだ。
知らなければよかった。
でも、知る前には戻れない。
あれから、ポアロへ足が向かずにいた。
あからさまに避けているつもりはないのだけど、なんとなく気まずいというか、別に悪いことをしたわけじゃないのに向こうの反応が気になってしまうのだ。
でも、ポアロのコーヒーは好きだし、夕食を作りたくないときにふらっと寄るのにちょうどいいお店だから、今までどおり利用したい。
ひとしきり考えて、悶々と考えることが面倒くさくなったわたしはそれをやめた。思い切ってポアロへ行ってみることに決めたのだった。
その日の仕事帰り、少し遅めの夕食をとポアロに立ち寄る。スタッフは安室さんひとりだった。
(逃げられないけどちょうどいいか)
そう思いつつ、二人掛けのテーブルに着いて、肩にかけていた柔らかい皮のバッグをそばに置いた。
「お疲れさまです。お仕事帰りですか?」
「こんばんは。遅い時間にすみませんが、ナポリタンと食後にホットのアメリカンをお願いします」
「かしこまりました、お待ちください」
いつもの笑顔の、安室さんだった。今日、彼は締めのシフトらしい。
ラストオーダーぎりぎりの時間の来店で少し申し訳なく思うが、滑り込めたことを嬉しく思う自分もいる。客としては当然なんだけど。
手早く調理されていく様子を頬杖の向こうに眺めつつ、スマホで明日の予定を確認しておく。それが終われば、今日の仕事はお仕舞い。この隙間の時間は、わたしにとって仕事とプライベートを切り分けるための大事なひとときだ。
やっぱりこの空間は心地いい。
しばらくして、出来立てのナポリタンが運ばれてきた。
粉チーズを振ると、ちょうどいい甘辛さと相まってわたしの好みの味になる。お気に入りのメニューだ。
閉店時間を気にしつつナポリタンをいただいて、食後のコーヒーを楽しんでいると、
「今日はもうお店も終わりですし、萱島さんがよければ少し話しませんか」
と、声をかけられた。
お、向こうから仕掛けてきた。と心の中で思いつつ、「ええ、いいですよ」と返事をする。
ちょっと待ってくださいね、と彼は外へ出て、店のライトを消し、ドアの鍵を閉めた。
それから手早くテーブルを拭き、フロアの電気をひとつ消した。これで外から見れば閉店だ。
エプロン姿の安室さんはカウンターの椅子をこちら側へ向けて腰かけた。
わたしの向かいにある椅子に座るわけじゃない、その距離感が絶妙だ。
「本庁17階のエレベーター前ですれ違ったときのこと、覚えてますか」
今度は、わたしから話を振ってみる。
「ええ、もちろん」
裏の見えない笑顔でさらりと返された。
「わたしは総務課所属の事務官なんです。
庁内で安室さんのお名前を見かけたことがなかったので、お声かけするのは控えましたが」
「そうでしたか、お気遣いいただいたようで。
事務担当の皆さんにはいつもお世話になっているので、我々は頭が上がりませんよ」
諸々の融通を利かせてもらったりもしていますしね、主には物品購入申請や始末書関係で。と彼は苦笑いして見せる。
偽名だろうという指摘を含んだセリフのつもりだったのに、軽く流された気がした。
「僕自身が登庁する機会はそんなに多くないので本当に偶然だったんでしょうね。
普段ここには警察庁の関係者の出入りはありませんから、僕も驚きました」
事件を呼ぶような人間は近くにいますけどね、と手で口を押さえてくくっと小さく笑う。わたしは他のお客さんやこの近辺の事情には疎いから、安室さんのいう事件を呼ぶ人間というのが誰かは分からない。確かに事件の多い町ではあるけれど。
それにしてもこの間本庁で見かけたときの鋭いそれとはまったく違う、表情のころころ変わる柔らかな印象を彼から受ける。まるで別人みたいだ。
気になったことをぶつけてみる。
「安室さんは、なぜこちらに?」
にこり、といつもの営業スマイルで彼は答えた。
「僕は任務として、ここにいます」
「任務、ですか」
「ええ。なので、ここでは僕が警察庁の人間であることは伏せて、安室透として接してほしいんです」
一瞬ぴりっと空気が冷えた。
任務ということは、何かしらの捜査や調査対象がこの近くにいるということか。
「それから、僕が安室透としてここにいることを知る人間は多くない。できればこのことは庁内でも内密にしてもらいたいのですが」
親しみとともによそよそしさも感じる、貼り付けたような笑顔のままで彼は告げた。
なるほど、ここで出会うのは『ポアロの安室さん』であって、庁内で見かけた彼とは別人。触れてくれるな、ということらしい。
「ええ、それはもちろん。わたしたちが勤めている場所の特殊さも含めて、業務上の守秘義務については理解しています。
わたしにとってもここはお気に入りの場所なので、出入りを控えてほしいと言われるより全然気楽ですよ」
別人だと認識するくらいならどうということもない。知りすぎない方がお互いのためだ。
しかし終始向こうのペースなことがなんとなく悔しくて、わたしも余裕の顔を見せてみようとにこりと笑い返してみた。
「ふふ、助かります」
「これからもここには立ち寄らせていただきますので、よろしくお願いします。安室さん」
話すうちに手元のコーヒーは冷めてしまっていた。それに気づいてカップを口へ運ぶ。
思ったよりも苦みは際立たず、すっきりとした優しいコクが舌の奥を通り過ぎて行った。
***
帰り際。
会計を済ませて、閉めていた鍵を開けてもらう。どうぞ、と大きな手を差し出した彼にふと、尋ねてみた。
「そういえば、安室さんっておいくつなんですか?」
「調べようと思えばすぐにでも分かるでしょうに、律儀な人ですね。あなたより少しだけ年下ですよ」
逆に、わたしの歳を知っていたことにぎくりとする。恐らく調べたのだろう。
それから、その落ち着き払った態度やすれ違ったときの堂々とした姿を思い浮かべて、なんで年下なのにこんなに出来た人間なんだろう、と嫉妬に似た感情を覚えた。
いや、比べる対象じゃない。それはあまりにも烏滸がましい行為な気がする。
とりあえず、わたしにとっての彼は謎を纏っている存在であること、距離を取るのが得策な相手であること、ただそれだけだった。