背中合わせ



キャビア、食べにいくんだろ?
優しい目、愛おしそうな声色。彼は背をかがめ、私の顔のすぐそこでそう言った。



某国の犯罪組織から拳銃の密輸がなされているとの情報を得て動き始めたこの案件。なんとか掴んだ尻尾は、末端の組織員の存在だった。彼の行動を慎重に慎重に追って、その接触者から辿り組織の大枠や指示系統を明らかにした。とうとう明日には実際の取引現場へ押し入り一斉検挙という段まで来て、最終的な配備や各人員の動き、段取りの確認を念入りにしていると、気付けばあっという間に日付を跨いでしまっていた。

この規模の捜査の指揮を任されるのが初めてだった私は、柄にもなく緊張していたのだろう。
ゼロの執務室に一人居残って、資料を上から下まで何度も読み込みイメージを組み立てていた。穴はないか、あるとすればどの部分で、いざフォローが必要になったときにどう遣り繰りし対応するか。いくつものケースを想定しているうちに、時間が経つのを忘れてしまっていたらしい。
あまりに練り込んでもガチガチになってしまうし、明日に響く。今日はこのくらいにして缶コーヒーで一服してから帰ろうと決めたとき、背後でがちゃりとドアの開く音が聞こえた。

「萱島?」

アッシュグレイのスーツに身を包んだ同僚がそこにいた。

「降谷。こんな時間に登庁?」
「君も同じようなものだろ。まだ残っていたのか」
「まあ。明日の案件の最終確認してた」

私はもともと警視庁公安部の所属で、彼より数年遅れでここの配属になったため本来なら後輩にあたる間柄だ。けれども年齢は同じ。配属当初は気を遣い敬語で接していたが、向こうから砕けてよいと言われたので今は完全に同級生のそれだ。
(余談だが、降谷の直属の部下にあたる風見さんは私にとっては公安部での先輩だ。考え出すとややこしくなるのでもうそこは気にしないことにしている)
降谷は潜入捜査中なので、日の照る間は庁内にはそうそう現れない。夜も更けてから、こうして空き時間に事務処理をしに来ているようだった。

「ああ、拳銃密輸の件か。明日が本番らしいな。萱島の指揮だって?」
「そう。諸々の調整や段取りはとうに済んでるよ。イメトレしてたの」
「ふうん、熱心なんだな」

そう言って彼は背中合わせの位置にあるデスクの椅子を引き、腰かける。ぎ、とスプリングが軋む音がした。

「降谷は慣れてるかもしれないけど、私にとっては大捕物だからね」
「資料は見たけどこれだけ詰めてあるなら大丈夫だろ。一人じゃないんだ。気楽にいけばいい」
「それでも緊張するものなの」
「はは、さすがの萱島も緊張するのか」
「するに決まってるでしょ」
「僕は大丈夫だと思ってる。予定通りやればいいさ」

背中越しに、軽口であり私への配慮である言葉が飛んでくる。
一人じゃない。確かに指揮を執るのは私だけど先輩もチームに入ってくれているし、皆現場に出れば流れるように体が動く人たちばかりだ。私は私でやれることを。それでいいのかもしれない。
凝り固まっていた頭と肩から、するりと力が抜けたような気がした。

「…そうだね。終わった後に何で祝杯を挙げるかでも考えてようかな」
「いいんじゃないか。和と洋どっちにするんだ」
「大きな仕事を上げたら美味しいキャビアが食べたいって思ってたから、ウォッカと合わせようかな」
「ほう、いい組み合わせだな。僕もいただきたいものだね」

顔は見えないが、心なしか言葉に棘を感じるのはなぜだろう。
そういえば詳しくは知らないけれど、降谷の潜入先では酒の名前のコードネームが付くのだと聞いた。
彼は何という名を与えられているんだろう。知りたいような、知りたくないような。

「じゃあキャビア連れてってね、決定」
「…奢らせるつもりだな」
「いいじゃない、私にとって初めての一仕事なんだから祝ってくれたって」
「こんなときだけ後輩面するんだからな」
「よろしくお願いします、先輩」

ニッと笑って振り向き、その背中を少々力を込めて叩いてみた。
顔は見えないが、否定はされない。向こうからもふっと笑った吐息が聞こえた。よし、明日は頑張ろう。



***



その大捕物は段取りのままに滞りなく進んだ。そう思っていたが、最後の最後に自棄になった組織員が発砲。自害を目的としたものだったが躊躇いから軌道が逸れ、運悪く被弾してしまった。
発砲音が鼓膜にびりっと響くのと同時に後方から肩口にどすんと衝撃を受ける。重い。銃弾が通っていったそこは熱く、とっさに手で押さえたが指の隙間から赤黒い血液が流れ出て、生暖かさを感じた。貫通しただろうか。分からないなりに創を強く押さえ、組織員が取り押さえられたのを視界の隅に確認してから壁にもたれるように倒れ掛かった。
くそ、よりによって最後に。
でも傷を負ったのが私だけでよかった。応急処置をと布で傷を圧迫する者、搬送を手配する者。その場にいた私以外の人員は皆各々に動いてくれている。
血液を失ったせいか、撃たれた衝撃から迷走神経反射でも起こしたか。私は自身の血圧がすっと下がっていくのを感じ、黒く迫ってくる視界に抗わずそのまま目を閉じた。



***



次に目を覚ましたとき、私は病院にいた。
先ほどまでいた現場の湿った空気とは違う、澄んだ消毒液の匂いが漂っていた。冷たく無機質な白い天井を認識する。
何やら処置を受けているらしい。点滴、輸血バッグ。少し離れたところから看護師だろうか、女性の声が聞こえる。意識を確認され2、3質問を受けた。認知機能は正常と判断されたのか、現状の説明が始まる。
弾はどうやら私の中に留まっているらしい。これからそれを取り除くための手術をするそうだ。
輸血の同意を口頭で伝える。これから麻酔を流し早々に手術室に運ばれる流れだと聞かされた。
しょうがない、命に別状がないなら儲けものだ。そう思いながらガラガラとストレッチャーの動く音とわずかな振動を感じていると、頭の上あたりから聞き馴染んだ声が聞こえた。

「萱島」
「…はい…」

降谷がそこにいた。なぜここに彼がいるんだろう。身元引受でないにしても、とりあえず駆けつけてくれたのか。
ひどく重く感じる瞼を持ち上げると、真剣な表情の降谷が薄っすらと見えた。

「やられたな」
「…うん」
「気を抜いたか」
「まさか…想定外だっただけ」
「そうか。弾丸さえ抜ければ問題はなさそうだから、とにかく手術後の痛みに耐えろ。リハビリをして、すぐに戻ってこい」

さすが降谷だ。シビアな物言い。いつも通りで逆に安心するくらいだ。その方が私も落ち込まずに済む。

「すぐ、かあ…」

これから行われる手術のことを思い、良い経過へ向かうのを祈るしかないと顔をしかめた。安静が長引いて体力を落とすのは避けたい。後処理もろくにできないままおとなしくしていなければならないなんて、情けなくて堪らなかった。
悔しさに涙がこみ上げてくる。その事実にさらに落ち込むな、と思っていると、

「キャビア、食べにいくんだろ?」

優しい優しい声が降ってきた。私はもう目を閉じて会話をしているような状態だったから降谷の表情は見えない。けど、恐ろしく甘くやわらかな顔で笑っていることが想像できた。
温かい。血の熱さではなく、包まれるような、日だまりのような温かさを感じる声だった。
堪えた涙がつ、と一筋落ちた。

「ん…いく。よろしく…」

意識がふわふわと揺らぐ中、キャビアには連れて行ってもらうんだと肯定の意を示して、ふっと思考を手放した。



***



体が浮くような、地に足が付かないような不思議な感覚に支配されていた。
私は撃たれた。そして手術のために麻酔を入れてもらったはずだ。きっとこれは夢なのだろうと何となく感じる。
世界は白い。四方が透き通った白に包まれているように見えた。どこまで広がるのかも分からない。
何も存在せずただ白い空間で、何も聞こえず何の痛みも心地よさも、一切の感覚を感じなかった。
歩こうにも進まない。走ろうにも進まない。声も出せない。
そこにいるのは私一人だけだった。

戻りたいなあ。皆の、降谷のいるあそこに。
頭に過るのは、ゼロの仲間たちの顔だった。ヘタをこいてしまったことを反省しなくちゃ。上司や先輩からの説教も甘んじて受ける。きっと次は抜かりなくやってみせる。
それから、キャビアとウォッカで舌鼓を打つんだ。これは約束だ。




意識が浮上し、何となく自分が覚醒したことに気付く。
右肩が鉛のように重たい。…指先はどうにか動かせるようだ。神経の損傷はなかったのかな。麻酔が完全に切れないと判別できないだろう。とにかく体がどうにかなったわけではないようだ。
それに安堵しつつじりじりと迫ってくる痛みを感じ、ナースコールすら押せない私は早く誰か来てくれないかな、と祈った。



***



撃たれたのが脚じゃなくて良かった。
あの日以来の登庁で、気まずいやら嬉しいやら複雑な気持ちだが、足取りはいつも通りだ。
同僚や先輩や上司が労いの言葉を投げかけてくれる。反面デスクの上には労災申請書と併せて溜まった回覧物やらなにやらで山が出来上がっていた。はあ、とため息とともにデスクにつく。硬い椅子の感触も久しぶりだ。
背後から椅子のキャスターが動く気配がして、背中にとん、と衝撃を感じた。

「お帰り」
「…ただいま。お世話になりました」

今度は振り向いてくれた降谷と目線が合う。彼は横目でデスクの山と私の顔を交互に見て笑っていた。

「これからが大変だな。労災申請、面倒だぞ」
「経験者なら教えてもらうよ」
「じゃあキャビアは自費だな」

皮肉めいた表情でくくっと喉を鳴らしている。
でもその裏にあるざらついた砂糖のような優しさを私は知ってしまったから。

「ちゃんと最短で戻ってきたんだし降谷の奢りでよろしく」

私がにっと笑うと降谷は否定も肯定もせずにキャスター音を残して自身のデスクへ戻っていった。
無言は肯定と同義だ。
とにかく目の前の仕事を片して、なるべく早めに日時を決めておこう。絶対にご馳走になるんだから。
そのときに、ネックレスにしてもらった弾を見せびらかそう。そう思って、よし、と気合いを入れ直し、私もデスクに向かうことにした。



(降谷に任せた店選びも味もすべて最高だった。ネックレスを見てけっこう本気で引いていた降谷の顔も面白かった。次はどこへ連れて行ってもらおうか)

※踊る大捜*線 THE MOVIE2のキャビアネタのパロディです





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