ふたりの時間と距離



週末を迎えた金曜日の夜。
どことなく浮かれた雰囲気の街中で見覚えのある大きな背中がとぼとぼと歩いているのを見つけた。
仕事帰り、街の人達と同じく明日からの休みに少々浮足立っていた私は、その気分のまましょぼくれた背中を追いかけて、ポン、と叩いて呼び止めた。

「はーぎくん」

驚いた様子で自身の右肩越しに私を見遣ったのは、大学時代の後輩である萩原研二。
所属ゼミの関係で顔見知りになって、ふたつ年上の私にも気兼ねなく接してくれた彼はとても人当たりがよく、常に人の輪の中にいた気がする。卒業後は毎年のゼミOB会で会うくらいの間柄だった。
朗らかで、知らずに異性を引き付けるような残酷な優しさを持っているタイプ。
私は学年も違ったしあまり気にはしていなかったけど、無自覚な人たらし、というような感じの男だった。

「萱島さん?」

彼は特徴的な垂れ目を見開いて、予想外の接触に素直に驚いているという表情を見せた。

「久しぶり、見かけたから声かけちゃった。元気にやってる?」
「よく俺のこと分かったね、前の集まり以来だから半年ぶりくらいっしょ」
「萩くん背が高いから分かるよ」

髪型も変わってないし、と笑いながら私は続ける。

「なんか元気なさげに見えたしさ」

そう言うともう一度彼は目を丸くした。

「何でそんなこと分かるの、センパイ怖いよ」

なんとなく幼く見える無邪気な顔をくしゃりと歪めてその大男は言った。

「だって背中曲がってたもん。…ねえその頬っぺたどうしたの」

言葉を交わすうちに見えてきた彼の左頬はほのかに赤く染まっていた。どうかすればそのうち腫れてきそうだ。
彼は左頬をその手で押さえながら、あ、バレちゃった、と呟いた。

「なんか、叩かれちゃって」
「みたいだねえ。彼女とけんかとか?」
「そんな感じ。さっき振られてきたところ」

ばつが悪そうに眉間にしわを寄せ、目を閉じる長髪の彼。その様子からすると、叩かれるだけの理由があったのだろうか。
声かけるタイミングまずかったかな、深く聞かれたくないかも。
そう思って、そこは流して次の言葉をかけることにした。

「そっか、耳は大丈夫?」
「鼓膜はやられてないよ、顔だけ」

苦笑いをする彼の顔は相変わらず整っていた。
平手打ちの衝撃が耳に及ぶとその圧で鼓膜を破ってしまうと聞いたことがある。そうなればのんびりしている場合じゃないと思ったけれどその事態は避けられたらしい。それなら、赤くなった頬は冷やせば良くなるだろう。
思考を巡らせていると、萩原の方から誘いを受けた。

「ねえ萱島さん、もしこれから暇なら俺の話聞いてくんない?夕飯まだなら奢るからさ」
「うーん、そだね、その平手打ちの話聞いてみたいかな」

聞いてもらいたかったのか。
相変わらず切り替えとフットワークの軽い男だな、と思いながら、奢りに惹かれて私もその誘いに軽く応じてみることにした。



***



「浮気されてたんだけど、放っておかれて寂しかったからだって言われて、なんか俺もう何も言えなくなっちゃって。
そしたらいきなりこれだよ、もういい、さよならだって」

ジョッキのビールを呷って、萩原はしょぼくれた表情で状況説明をしてくれた。愚痴るようなニュアンスも多少含んでいるように感じる。
がやがやとした雰囲気の居酒屋の、半個室。そこで私と萩原は夕食兼お酒を共にしていた。

「寂しい思いさせてごめんって言えなかったんだ」
「仕事楽しいんだもん、非番だってあるけど勉強したいしさ、こう見えて俺真面目よ?」
「ふふ、そうだね萩くんは真面目だよね」

いつも自信に満ちているように見える彼のこういう話を聞くのはなんだか新鮮だった。
私の方が年上だし、奢ってくれるというなら今日は慰め役に徹しようと、彼の気持ちを肯定する。

「でもさ、ちゃんと理由は説明してたわけだし、向こうがここまで寂しがりだとは思わなくてさ」

向こう、とは元彼女?のことなんだろうな。
まあでも、彼のような人気者の恋人をするのはなかなか大変なのかもしれない。
きっと他の誰かに取られてしまうんじゃという不安もあっただろうし、それを上手に噛み砕くには相応の人生経験が必要だったんだろう。

「価値観の相違ってやつだったんだろうね、しょうがないよ、萩くんには萩くんの生活があるんだしさ」

フォローを入れつつ、ほら冷やしなよ、とおしぼりを彼に差し出す。
ありがと、と受け取った彼の手は私のそれより一回り大きく、指も長くてきれいな造形をしている。彼の一部分だけでもこんなに魅力的なんだからそりゃあ捕まえたなら心配になるだろうよ、と頭の中でひとりごちた。

「俺なりに好きだったんだけどなー、、」

はあ、と長めのため息を付いて、彼は枝豆の殻を指先で弄んでいる。
なんとなく心が痛んでしまった私はどんな顔をすればいいのか分からなくて、目を伏せて「そっか」と相槌を打ってみせた。

彼は人懐こい大型犬のようななりをして、誰にでも尻尾を振るわけではないことを私は知っている。
ちゃんと好きだったんだろうな。きっと、彼女は幸せ者だっただろうに。
それでも我慢できないことってあるんだろうな。
恋愛にはここしばらく縁遠い私が言うのもなんだけど。

「いい男の思考はさ、女の子には理解されにくいもんだと思うよ」

なんとなくそれっぽいことを言って、グラスを傾けた。
ドライなジントニックの辛さが舌先に響く。ライムの風味が鼻から抜けて気持ちいい。
私も大学生のころは甘いカクテルばかり飲んでいたのに、きっと歳をとったんだなあ。
同じように萩くんも歳をとる。社会に出て、目指していた職に就いた今がきっと一番楽しいときなんだろう。それは彼の様子から手に取るように分かる。

「ふふ、ありがと萱島さん。俺また頑張れるわ」

にっと歯を見せて笑った。昔から私はこの笑顔が好きだったのを思い出す。

「何をがんばるつもりですか、萩原くん」
「とりあえず仕事かな。余裕ができるまでは恋愛はしばらく置いとくことにする」
「ほー、それは誠実な答えですね」

軽口を交わすテンポも以前と変わらなくなってきた。
空いた時間が自然に、少しずつ埋まっていくのを実感する。

きっとその女の子も、もう少し年齢を重ねて自分の時間を過ごすことに軸を置けるようになればこんなことにはならなかったのかもしれない。
時間の流れは残酷で、でも何かをぼかしてくれたり際立たせたりすることもあって、皆に平等だ。

「でもさ、こうしてたまには俺の愚痴に付き合ってよ、センパイ」

左頬を冷やしつつテーブルに肘をついて微笑んでいる彼の姿はとことん自然体だ。深い意味はなさそうだけれど、私は年甲斐もなく幼い期待を抱いてしまいそうになる。

「萩くん、余裕ないんじゃないの」
「えーだって萱島さん大人だし楽しいんだもん一緒に飲むの。いいじゃん、時々は息抜きしよーよ息抜き」

こんなふうに絶妙な塩梅で甘えてくるのが、この大型犬のいいところなんだよな。
ため息でもなく失笑でもなく、気が付いたら私はふっと口元を緩めていた。たぶん、眉尻も下がっていると思う。

「しょーがないなあ、付き合ってあげるからなんかあったら連絡していいよ」
「やったね、毎回奢りじゃないけどいいっしょ」
「それくらい全然、私も社会人よ」

(私にしとけばいいのに)
なんて言わないあたりが、やっぱりお姉さんなんだろうな。
店員を呼び止めて次のビールを注文する彼に重ねて、私もお酒のお替りを頼んだ。

恋ではないけど嫉妬はできそう。男女だけど違和感ない。
私は欲張りじゃないから、波の流れとタイミングを見て、もしかしたら、なんて。
楽しいからまあいっか、と自分を納得させて、次のお酒を待つ彼とつまみを選ぶ。こんな感じでしばらくはやってみようと思った。



(そのあと二次会カラオケに繰り出した末に二人して眠りこけてしまったのはまた別の話)
(膝枕を貸した覚えはなかったはずなんだけどな)


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