ペパーミント



どうにもこうにも身動きが取れなくて、八方塞がりな気分だった。
私のやりたいこと。望む姿。何かを切り捨てないと前には進めないのに、踏み出せない。
大切なものが増えるほど選択肢が増えて、逆に苦しくなってしまう。
努力をしてきた結果がこれとは、なんとも残酷だ。

30を前にして、できることが増えてやっと仕事が楽しくなってきたというのに。
自分のキャリアに悩むなんて、二十歳そこそこの頃には考えもしなかった。
次のステージを目指すのは決して悪いことではないはずなのに、必死に作り上げてきたものを手放すのが惜しいし、怖い。

仕事帰り、月明かりと街灯しかない路地を歩きながら、どうにも晴れない気持ちのやり場を探していた。
情けないな。
大人になって一人で立てるようになったはずなのに、こんなときにはどうしても彼に会いたくなる。
忙しい彼だ。突然の連絡は控えようといつも思っているのに、ついスマホに手を伸ばしてしまう。

3回コールして、出てもらえなかったら諦めよう。
もろに落胆するのを避けるためにルールを決めてから、発信ボタンをタップした。

『もしもし、あかりさん?』

2回目の途中でコール音が途切れて、求めていた声が聞こえた。どきりと心臓が拍動する。

「あ…、安室さん、お疲れさまです」
『あなたの声の方が疲れているようですよ。何かありましたか?』

まさか出てくれるなんて思わなかったから、心の準備ができていなかった。
私の声、そんなに疲れて聞こえたかな。いや、彼は私の機微に聡い人だ、隠せるわけない。

「うん、なんだかちょっと、煮詰まってしまって。安室さん、今日はお仕事は?」
『終わりました。今日は早く帰れたからもう家です』

珍しい。だから声が少し穏やかなのかな。いいタイミングで、よかった。

『帰り道なら、うちに寄っていきませんか』

私が会いに行ってもいいかと尋ねるより先に、彼に言われてしまった。
ああもう、読まれている、絶対。

「…うん。会いたいです。そっち、行きますね」



***



彼の部屋のインターホンを鳴らすと、すぐにドアを開けて出迎えてくれた。
白のTシャツにスウェット。気の抜けた部屋着姿の彼を見ると、なんだかすごくほっとした。

「一日お疲れ様でした。あかりさん、夕食は?」
「残業前にちょっとつまんだので、大丈夫です」
「じゃあ、紅茶でも淹れますね。僕も一息つくところでした」

キッチンで手を洗っていた私のすぐ隣のコンロで、銀色のケトルがその細長い口から蒸気を吐き出していた。
完璧なタイミングだ。さすが安室透。
お礼を言うと、彼の双眼と口元が弧を描いた。

どうぞ、と促されてダイニングテーブルに着く。ジャケットを脱ぐと少しだけ力が抜けたような気がした。
頬杖をついてキッチンの彼を見遣る。
ティーポットを湯通しして温めてから、茶葉を二杯分。もう一度ポットにお湯が注がれて、茶葉がその勢いでわっと散った。柔らかい金色に染まりながら、今度はゆっくりと茶葉が沈んでいく。その工程を眺めるのがけっこう好きだ。

時計を見て、よし、と呟いた安室さんが、木製のトレーにポットとカップを乗せて、テーブルに運んできてくれた。

「お待たせしました。夜なので、カフェインの入っていないカモミールティーです」

エプロンはしていないしスウェット姿だけど、ポアロで働いているときの彼みたいだ。

「ふふ、ありがとうございます」
「お砂糖は入れないんでしたよね」
「はい」

向かい側の椅子に腰かけて、安室さんはカップに紅茶を注いでくれた。ふわりと漂う少し甘い香り。最後の一滴をぽとりと落とし、私に差し出す。

「いただきます」
「はい、どうぞ」
二人で温まったカップに口をつけた。

コーヒーも好きだけど、安室さんの入れる紅茶もとても好きだ。
重たくなくてするりと体に染み込んでいく気がする。さわやかな甘みを味わうと、ほのかなミントの香りが鼻から抜けた。

「ペパーミントがブレンドしてあるんです。さっぱりしていいかなと思って」
「いいですね、気分がすっきりします」
「そういえば、お疲れの原因は?」

小首をかしげた彼に真正面から目を見つめられて、少しどきりとした。
でもすぐに立て直して、ここ最近の私の事情を彼に聞いてもらう。
仕事は楽しいこと。けど貪欲すぎるのかやりたいことはまだまだあって、実現するには今の環境から離れなくちゃいけないだろうこと。今手元にあるものはとても大切なのにここに留まっていてはいけないように思えて、でも離れがたいこと。今を捨てるようで自分が薄情に思えてしまって息苦しいこと。

頭の中を整理しつつ、ぽつりぽつりと言葉を選びながら、彼に伝えてみた。
その間、彼は真剣な表情で相槌を打ちつつちゃんと話を聞いてくれていた。

「…それで、今どうしたらいいのか分からなくなっちゃって。
欲張りなのかな。チャンスがあるなら動いた方がいいって頭では理解できるんだけど、どうしても…」
「成る程、そういうことでしたか」

うーん、と彼は顎に軽く握った拳をあてて考えを巡らせているようだった。
私はその間、温かい紅茶をこくりこくりと一口ずつ喉に落としていく。

「大切なものを増やすということは、とても勇気がいることなんです」
唐突に、安室さんはそう告げた。

「大切なものがたくさんあるのは一見素晴らしいことのように思えて、実のところはなかなか苦しいものでして。抱えきれなかったり、取捨選択するのに身を切る思いをしたり。どう扱うかは自分次第なんですけどね」

失う覚悟をもって、失ってもそれが自分の中に積みあがっていくならいいと思えるか、最も大切な一つから離れないことを選ぶか。

「難しいですよね。でも、それがきっとあかりさんの生き方のベースになると思うんです」

だから、と安室さんは続けた。

「今のあなたにはしっかり悩んでもらいたいかな」
「……はあ、そっか、」

薄っすらと笑みをたたえた口元と、真剣さを帯びた瞳。
この人、本当に私と同い年だったっけ。普段から余裕綽々としているけれど、大人びて見える。実は中身は35歳とかだったりしないかな。いや、それだけ経験が多いということか。時々見せる鋭い目線や瞬きの色に、この人はきっと大きな何かを抱えているんだろうなと感じることがあった。そういうこと、なのかもしれない。

つい目の前の安室さんのことを思い、眉間にしわを寄せてしまう。
考え込んでいるように見えたのだろう。
それから、どれも大切にしたいと思う私の気持ちも見透かされていたようで。

「いいじゃないですか、欲張りなあかりさん。
どれも大切にしたらいいんです。まあ、それはなかなか大変なことかもしれませんが、いずれ絶対にあなたを魅力的にすると僕は思いますよ」

にこにこと笑顔を私に向ける彼は、これまでどれだけのものと向き合ってきたんだろう。
よく分からないし彼を追いつめてまでそれを暴こうとは思わないけれど、安室さんの言葉はいつも誠実で重たくて、それからほんの少し甘い。

「…うん、ありがとうございます。
私、やっぱりどれも捨てたくない。自分のものにしていきたいです。辛くても」

噛み砕けたか、飲み込めたかどうかは分からないけれど、なんとなく向く先は定まってきたような気がする。
気が付いたら手の中のカップは少しぬるくなっていて、彼のそれはもう空になっていた。
勿体ない、と思って口に運ぶ。舌に優しい温度の紅茶もするりと流れていき、さっきとはまた違うほぐれた甘さを私に与えてくれた。
ふう、と息を吐く。
すると目の前の安室さんが私の眉間をつんと人差し指でつついて、

「眉間のしわは悩んで向き合った証ですよ。でも寝る前にはちゃんと緩めてくださいね」

ひどく優しく甘い表情で私を見つめていた。
指をどけて眉間を手で押さえて、…私はどんな顔をしていたんだろう。



***



一通り吐き出して気持ちの置きどころをなんとなく見つけられた。
彼の淹れてくれた紅茶のペパーミントの香りとともに少しだけ心が軽くなった。
大丈夫。そう思えるのは彼がいてくれるからだ。

彼の抱えるものはきっと数多くあって、それぞれが価値の重いものなんだろうと思う。
今の私の心に、それを知り得るだけのスペースはない。
望むことすら烏滸がましく、それこそ欲深いことなのかもしれないけど、
いつかそんな彼に、同じように安心を与えてあげられるようになりたい。
今はまだすごく遠いところにいるんだろうけれど。

まずは私も紅茶の淹れ方、練習しよう。



(ティーバッグでもいいかな)
(それでもきっと彼はおいしいと笑ってくれるんだろう)


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