寂寥





「すまない、今日は…きっと、あなたのことをいつものように扱えない」

「余裕がなくて、」

「あまりにも勝手だという自覚はある。けど、今夜は俺を満たすためだけに、あなたに触れたい」

彼は帰宅早々、大きく息を吐きながらわたしの肩に顔を埋めてこう言った。
グレーのスーツの生地は少しくたびれていて、彼の匂いを纏っている。

2日ぶりの帰宅。珍しく、ひどく疲弊しているようだった。
彼の中で何かがパンパンに詰まっていて相当に余裕がないらしい。
それでも満たせない何かがあって、そこにわたしを充てたいのかな。
彼でもそんなことがあるんだな、と思いつつ、切羽詰まった彼がわたしにどんなふうに触れるのかが気になるなんて、そんな無配慮なわたしもいた。

そっと彼の背中に腕を回して、ポン、ポン、と子どもをあやすように手のひらで優しく叩く。
大丈夫、わたしはあなたを受け止めるつもりだよ、という肯定の意思を伝えるために。
それから肩口にある彼の頭を撫でて。

「零さん、」

(どんなあなたも愛しいよ)

わたしの意図を受け取っただろう彼が、今度はなんとなく安堵に感じられる細い息を吐いた。直後、ぎゅうと力強くわたしを抱きしめてから、右手で少し乱暴に自身のネクタイを緩めていく。
なんだか苦しそうに見える彼を少しでも和らげたくて、わたしは背伸びして彼の唇に触れるだけのキスをした。

そのまましばらくお互いの唇を味わっていた。深く、浅く。啄むように、追いかけるように。その間にも、スーツの上を脱ぎ落とし、ワイシャツの首元と手首のボタンを外して。彼は、彼を作り上げる鎧を一つずつ取り払っていく。
彼の左手がわたしの膝の裏に回ったかと思うとそのまま抱き上げられて、気がついたらベッドに優しくおろされていた。



***



ひととおりの、事が終わって。
少し荒くなった呼吸を整えながら、体をシーツに投げ出してその心地よい脱力感を味わっていると、彼は優しく穏やかな手でわたしを抱き寄せて、ゆるりと頭を撫でてくれた。
いつもの彼だ。
微睡みながらまだ体温の高いその手の感触を愉しんでいると、いつしかその手が止まって、規則的な呼吸音が頭の上あたりから聞こえてくる。

最中、確かに彼はいつもより少しだけ急いて、焦れているように見えた。
それから、なんだか苦しそうな、心許な気な彼の表情が見えて、ぎゅうと心臓がつぶされそうな、切ない気持ちにわたしもなった。
なんでそんな顔をしてわたしを抱くんだろう、わたしはあなたに大事に大事にされているというのに。心底愛しているというのに。
すぐそこにいるのに、私たちを隔てるものは何もなかったのに。それでも彼は不安を抱えてしまうんだろう。たくさんのものを手にして、背負って、いくつかは隠して。そんな日常にふと擦り切れてしまう瞬間がきっとあるんだろう。

彼自身がそれをわたしに明かさなかったとしても、彼なりの最上の判断だ。

結果わたしは、彼の隙間を埋められたのだろうか。
求めてもらえるだけじゃなく、何かの支えになれているだろうか。
きっと、これからもずっと悩んでしまうんだろう。


すぐ隣から聞こえてきた小さな小さないびきの音に安堵して、わたしも緩やかに意識を手放した。
明日の朝は、いつもの笑顔が見られますように。



(寂寥:心が満ち足りず、もの寂しいこと)






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