──あの日から、わたしは彼の人形になった。といっても、特段何かが変わったわけではない。
あなたは何を求めているんだろう…と、隣に座り、朝ご飯を食べているイザナの横顔を見つめながら、涼音は思い耽る。
イザナは涼音に特別な事をさせるわけではなかった。ただ隣にいて、ぽつりぽつりとこちらに話しかけてくるだけで特別な事は何も。何故、彼はわたしを拾ったのか?…いくら考えても答えは出なかった。
「食わねえの?」
気が付けば、隣の彼はもう朝ご飯を食べ終わっていて。それなのにわたしのお皿には半分以上残っていた。涼音はぶんぶんと首を横に振り、急いでご飯をかけ込む。
隣にいる彼は、食べ終わったはずなのに席を立たない。何も言わずに、涼音が食べ終わるのを待っていた。
──黒川イザナは、わたしに何を求めているんだろう。それを口にしてくれれば、その通りに動けるのに。何も言ってくれないから、宙ぶらりんのまま。
『人形』と呼ぶからパシリに使われるのだと思っていたのに、彼はわたしに命令しなかった。
「聞いてみたら、答えてくれるかな」
…いや、そんなの無理だ。聞く勇気はわたしにはない。涼音は膝を抱え、うんうんと唸る。
今、涼音の悩みの種である黒川イザナはここにはいない。彼は離れて暮らしている“兄”と遊びに行っているようだ。
すこし寂しいけど、彼が幸せなら我慢するしかない。涼音は溜め息をこぼした。
「やーい人形!今日もしゃべれないのかー?」
ぐるぐると考えを巡らせていた涼音の耳に届く子供特有の甲高い声に、涼音は頭痛がして、眉を顰めた。涼音の周りにいるのは主に二種類
──涼音をからかって遊ぶ子供と、涼音を遠巻きに見る子供。目の前の少年は前者のようだ。
今の涼音に、目の前の彼のために割く余裕はない。ぎゅっと体を小さく丸めて、嵐が過ぎ去るのを待つ。それでも少年は去らずに、むしろ無視した事で勢いが増したようにも思える。
目の前で騒ぐ少年に辟易して、涼音が溜め息を吐きかけた、その時だった。
「ねえやめなよ!」
子供を咎める声に、涼音は顔を上げる。そこにいたのは気の強い女の子のようで、キッと少年を睨めつけていた。
「お母さんとお父さんが亡くなって日が浅いから優しくしてあげてって言われてたでしょ!」
「な、なんだよ!全然喋らねえこいつが悪いんじゃん!」
「目の前で殺されたの見ちゃったから、そのショックで喋られないの!!ちゃんと説明されてたじゃない!」
人の話を聞きなさい!と一喝する少女の勢いに呑まれ、少年は肩を縮こませた。
「そんな子をからかうなんて…
可哀想でしょ!」
──きっと、この子はこの子なりに涼音を守ろうとしたんだろう。それでも、涼音の心を一番抉ったのはこの少女の言葉だった。
涼音が喋れないのは、元からだった。両親が生きていた頃から涼音はあがり症で、他人とコミュニケーションをとるのを苦手としていた。だから喋られない事と、両親の件は関係ないのだが、それは誰にも言えてないから知らないはず。だからそれはまぁ、いい。
──わたしは、可哀想なの…?
先程の少女の言葉が、頭から離れない。わたしを思い遣っての言葉だと分かっているのに、喉に刺さった小骨のように、涼音の心に引っかかっていた。
両親の死の場面はあまり記憶にない。だけど命をかけてわたしを守ってくれていた事だけは覚えてるから。
──可哀想だって、思わないで欲しい。だってわたしは、自分が可哀想だって思ってないから。
言いたい事はある。あるのに、声が出なくて。口から漏れる空気に、自分でも嫌になって。じわり…と目頭が熱くなった。
「
──俺の人形に何してんの?」
一瞬で空気が塗り替えられた。がさり…と紙が擦れる音と共に、抑揚のない声が耳に届いた。そちらに視線を向ければ、いつの間にか帰ってきていたイザナが、2人に冷え切った視線を向けていた。
そんな只事ではない様子のイザナに、目の前の2人は恐怖で震える。
「…なぁ、何してんのって聞いてんだよ」
声は荒げていない。しかし先程より言葉に圧が込められている事から、かなり怒っている事が分かった。
イザナの圧にあてられた少年は、恐怖で声が出せないのかただただ震えるばかり。その様子に苛立ったのか、イザナは舌打ちをし、そして少年の胸ぐらを掴んだ。
「な、なんだよぉ…」
「なんだよ、じゃねェんだよ。さっさと俺の質問に答えろ」
胸ぐらを掴まれた少年は、もう既に半泣きだ。そんな少年の様子など気にも止めず、イザナは圧を込めながら睨み付ける。
涼音はその様子を茫然と見ていたが、ふと我に返り、首をぶんぶんと横に振った。
早く、止めないと。このままじゃイザナが少年を殴ってしまう。そうなってしまえば、大人に怒られるのはイザナだ。イザナは悪くないのに。
「…あ、のっ…!」
か細い声が部屋全体に響き渡る。イザナ達は目を見開き、その声の持ち主である涼音を凝視した。
涼音が、声を出した。今まで頑なに声を出さなかった少女が、今。あまりの衝撃に、イザナはつい掴んでいた手を離してしまう。
「う、うわぁぁぁ〜…ん」
解放された少年は、一目散に駆け出した。それを追うように、少女も部屋を後にして。でもイザナはそんな彼らに目もくれず、涼音に近付いた。
「何があったんだ?」
先程の凄みが嘘のように優しい声を出す彼は涼音の頭に手を置き、視線を合わせながら問いかける。小さな妹に接するかのような対応に、なんだかくすぐったく感じた。
「……あの、えっ、と…両親のことで、ちょっと…」
正確には彼らの勘違いなのだが、“両親の死”の話題であった事は本当だ。涼音はどもりながらも彼らとのやり取りを話していくと、彼の表情が徐々に険悪なものに変わっていった。
「
──なぁ」
「っ……は、はい…」
イザナは涼音の顔を両手ではさみ、顔をぐいっと近付ける。間近にあるイザナの顔に、涼音は息が止まったかのような錯覚に陥る。彼は何故か怒っていた。
どうして?どうして怒っている?何が彼の引き金になったのか分からない涼音は、脳をフル回転させながら考えてみる。が、原因が全く分からない。涼音が恐る恐る…とイザナの目を見つめると、彼は溜め息をひとつこぼした。
「
──忘れちまえ」
「……?」
「泣きたくなる程辛いなら、死んだ奴なんか忘れちまえよ」
えっ…とぱちぱちと瞬きしながらイザナを見つめるも、そんな涼音の様子など気にも止めずに、彼はただただ言葉を続けた。
「他の奴らなんかに泣かされんな。俺の言葉だけ聞いてろ
──お前は俺の人形だろ」
じんわりと心の中に広がってくる彼の言葉。言葉は乱暴だけど、その言葉は涼音を思ったもので。
胸がいっぱいになり、涙があふれそうになる。彼を困らせたくない一心で、瞬きをし、涙を引っ込めようと踏ん張った。
「忘れられるかは分からない。…けど、あなたのために生きるって決めてる、から…」
涼音は胸の前でぎゅっと握り締め、震える声で、丁寧に言葉を紡いだ。
そんな涼音の返答にイザナは満足げに頷くと、涼音の頭の上にぽんぽんと軽く叩いた。涼音より少しだけ大きい、涼音の大好きな手。それに少し擦り寄ると、頭上から呆れたような笑いが耳に届いた。
「……ああ、そうだ。これやるよ」
イザナが足元にある紙袋をがさがさと漁り、そして取り出したもの
──それは可愛いうさぎのぬいぐるみ。わぁ…と感嘆の声をあげる涼音に気を良くしたイザナは、にっと笑みを浮かべてみせた。
「お前が元気ない事を真一郎に相談したら、何かプレゼントしろっていうから……」
ほら、とこちらにぬいぐるみを差し出すイザナ。彼からそれを受け取ると、涼音はぎゅ…と優しく抱きしめた。
嬉しい、嬉しい。わたしを気にかけてくれた事、そして可愛いぬいぐるみを貰えた事が嬉しくて、ついぬいぐるみの頭に顔を埋める。
…あっそうだ、お礼を言わないと。そう思った時、ふと気付いた事がある。わたしは彼の事を、なんて呼べばいいんだろう、と。
「あ、の……えっと…」
「?なんだよ」
「あの…、名前…」
「
──イザナ」
「……?」
「イザナって呼べ」
ああ、と心得た様子のイザナは、なんと名前で呼ぶ事を許してくれた。イザナ、イザナ……と教わった名前を幾度も反芻しながら涼音は瞳を閉じた。
「イザナ…、」
「ん?」
「…ありが、とう。すごく、すごく、嬉しい…」
涼音が嬉しそうにはにかむ。それはいつものぎこちない笑みではなく、誰もが見惚れるだろう綺麗なもので。
そんな涼音の表情を呆然と見つめていたイザナは、じっと涼音を見つめ、そしてにっと笑ってみせた。