だというのに大地は心安らかな日々にもどることもできず、いつまでも一人で悶々としていた。つい横目で久世紬の動向を追ってしまう。紬はいつ見ても大概おなじ顔でおなじ体勢でおなじ場所にいた。
季節は秋を過ぎて冬のはじまりにさしかかる。それだけの時間をかけても、志島大地には久世紬のことがさっぱりわからないまま。
「大地くん、計算もうすこし頑張りましょうね」
「……はーい」
返されたプリントを、大地は憂鬱な顔で受け取る。朝の自習時間というものに配られる小テストのようなもので、曜日ごとに教科が変わる。今日返されたのは昨日やった算数のプリントで、大地のテストは計算がぼろぼろだった。暗い気持ちで席に戻る途中、うつむいていたせいで次に呼ばれた奴と肩をぶつけてしまう。
「うわっ」
「ぎゃっ、ごめんっ!」
「ってー、なんだよ大地ー」
「こぉら、早く取りにきてー」
「はーい」
先生に呼ばれて、ぶつかった相手がそっちに歩いていく。ため息をついた大地は、手の中からプリントが消えていることに気付いて慌てて周囲を見回した。
「あれ……っ?」
「志島」
聞こえたのは、忘れたくても忘れられない、あの冷たい水みたいな声だ。ぎくりとして振り返る。すぐ横の席に座っていた紬が、大地のペケだらけのプリントを拾い上げて差し出していた。
「これ」
「………」
穴があったら埋まりたい。蒼い目に見返されるのに耐えられなかった。大地は紬の手から乱暴にプリントを奪い取り、自分の席までダッシュで戻る。こら大地くん、という先生の言葉も耳に入らない。見られた。よりによってあいつに見られた。
ガタンと椅子に座り、頭を抱えて机に突っ伏す。俺はいったいなんだってあいつのことをこんなに気にしてるんだろう。テストの点数がいいの悪いのと友達と笑い飛ばし合うのなんていつものことだし、それだって大して気にしたことはない。でもあいつは駄目だ。なんか駄目だ。怖い。そうだ、俺はずっとあの転入生のことが怖かったんだ。俺が突き飛ばしたときでさえ何一つやり返してこなかった、あの物静かなクラスメートのことが。あいつの前に立つと、雪山で裸になったような異常な心もとなさをおぼえる。自分のなにもかもが間違っているような気持ちになるのだ。あいつは俺に怒らない。俺を笑わない。だけど、だから。俺はあいつが怖かった。……あいつに静かに軽蔑されることが、なぜか、ひどく、怖くてたまらなかった。
その日はもうずっと散々だった。注意力散漫でドジりまくっては先生に怒られ友達に笑われる。そのたび紬の視線が気にかかり、意識しすぎてそっちに目をやることもできなくなった。
長い一日が終わり、気力も尽き果てて遊びの誘いも断った。のたくたと靴を履き替え、とぼとぼ昇降口から外に出る。
冬が近くなったせいで、もう大分日が短くなっていた。青かった空は濃いオレンジに色を変え、金色の太陽と派手なグラデーションを描いている。校庭の樹も緑から赤に色を変え、なにもかもが夏の若さを忘れてしまったようだ。
こうしていても思い出すのは、あの人形みたいな久世紬のことばかりだ。胸が苦しさに重たくなるのはこの季節や夕暮れのせいだろうか。大地は深い、ふかぁいため息をつく。
こん。
そのとき、俺の後ろ頭になにかが当たった。小鳥につつかれたような感触だった。驚いて頭を押さえて振り返る。かさりと音をたてて、白い紙飛行機が大地の足元に落っこちたところだった。
「……なんだこれ」
大地は目をまるくして紙飛行機を拾い上げる。どっから飛んできたんだろう。しかしよく見れば、それはただの紙ではない。折り返しから赤ペンの丸と綺麗な字の回答が覗いている。かさかさと開いてみれば、それは大地が今日受け取ったのと同じ算数のプリントだった。
「これ……」
綺麗な字で埋め尽くされた全問中、間違いが何個かあるだけでほとんど丸しかない 92点のテスト用紙。母さんに怒られた事ないんだろうな、いいな…なんて思いながら名前の欄を見つめ 大地は納得する。
久世 紬
ああ、やっぱり。納得した大地の目に 二つめ三つめと次々に紙飛行機が映る。なんだこれどういうことなの。そもそもどっから降ってきてんの。両手に紙飛行機を山と抱えながら上を見上げる。そのとき、新しい紙飛行機がついと空に放たれるのを、見た。
屋上の柵の外側に、フェンスにもたれて空を見上げているちいさな人影がある。その手から離れた紙飛行機は、大きな弧を描きながらゆったりと降りてきた。まるで招かれたみたいに俺の手元に。俺はぽかんと口を空けてその人影を見上げた。
夕焼けの陰影が濃くて、ここからじゃそいつの顔がよく見えない。でもわかった。一歩踏み外せばまっさかさまに地面に叩きつけられるような狭い足場で、人形みたいな静けさでやっぱり空を見上げているそいつが一体誰なのか。
「落ち込んでる…?」
顔は見えない。でもどこか落ち込んでる雰囲気。自殺しちゃいそうな、そんな…。
気がつけば大地は駆け出していた。息をするのも忘れるような必死さで、つんのめりながら階段を駆け上がる。屋上は立ち入り禁止でいつも鍵がかかっていることになっているけど、用務員の爺ちゃんがこっそり煙草を吸ったあとにたびたび鍵をかけ忘れるのは一部の生徒には有名なことだ。
でもほんとにこの先にあいつはいるんだろうか。俺の頭はこんがらがってめちゃくちゃになる。もしかしたらあれは幻だったかもしれない。だっておかしいじゃん、こんなに頭いいのに自殺しそうだなんて。
あいつはいつも冷静で、大人びていて、無駄口だって叩かなければ俺たちみたいな馬鹿騒ぎだってしない。どんな奴なのかぜんぜんわからない。完璧な奴なんじゃないかって思えた。それがどんどん膨らんで、俺の中で勝手な引け目になっていった。なあ、お前って一体どんな奴なの。
たどり着いた屋上の扉は、常にない圧迫感で大地の頭上からのしかかってくる。大地は息を切らしながら、ごくりと唾を飲み込む。
俺はこの扉に開いてほしいんだろうか、開いてほしくないんだろうか。
大地の腕の中から、ばらばらといくつもの紙飛行機が落ちる。たったそれだけのことで大地の両腕は自由になった。この扉が開くのか開かないのかはわからない。開けるか開けないかは、俺の自由だ。
指先に、鉄の冷たさと錆びて剥がれかけた塗料の感触。すこしのためらいと、早鐘を打つ心臓。その手に力を込めるために、大地はありったけの勇気を振り絞った。
ぎい、と錆びついた蝶番が鳴る。細く開いたドアの隙間から、水があふれるみたいにしてオレンジの光が滑り出す。それに目をほそめながら、大地は思い切って大きくドアを開けた。
屋上には、何度か忍び込んだことがある。そのときと何も変わった様子はなかった。ただひとつ、フェンスのあっちがわに、見慣れてしまった背中があること以外は。そいつの背中は夕日の中で、びっくりするくらい細くちいさく、弱々しく見えた。
「…志島?」
肩越しに、紬が振り返る。くるくる跳ねた前髪の合間で、あの蒼い目がオレンジにきらめく。フェンスの向こうの紬は高さに怖がるそぶりもなくて、その足元には口の開いたランドセルと、紙飛行機の形にされてしまった自習プリントが並んでいる。
「……な……、」
「……?」
「なに、やっちゃってんの、お前……」
大地はかろうじて、それだけ振り絞った。
「? なにって?」
「と、とにかくなんでそんなとこ立ってんの」
「そんなとこ?」
「うっわ! ううう動くな! 動くんじゃありません!」
30センチほどの隙間で気軽にターンを決める紬に、大地の心臓の方が止まりそうになる。大地が慌てて怒鳴ると、フェンス向こうの紬が静かに小首をかしげる。足を踏み外したら死んじゃうってことをわかってるんだろうか。もしかしたらわかっていないのかもしれない。
「志島、こんなとこで何してるの…?」
「おおおおおお俺のセリフー!」
「なにが?」
「だからっ! お前が何してんの!」
「………」
そこで何故か紬が黙り込む。初めて見るどこかバツが悪そうな様子で、足元の紙飛行機をちらっと見た。
「あっそれ!」
「………」
「お前なにプリント飛ばしちゃってんのっ?」
「…いらないから、投げるの」
「いらないから投げるって何!?何なの!?」
「……なにかまずいかな?」
「この子ったらもおおおおおおおおお!」
一切感情のない機械人形というイメージがガラガラと音をたてて崩壊していき、代わりに変人のイメージが作られていく。わからない。本当にわからない。フェンスの向こうの転入生は、わずかに視線を揺らしてから自分のつまさきを見遣る。
「わたしはまた、何かきみを怒らせることをしたのかな」
紬の言葉に、大地はおもわず瞬いた。
「え?」
「ごめん」
息を呑む。どうして。何を謝るんだろう。いつだって、勝手に突っかかるのも空回るのも全部俺なのに。俺がしたことなのに。大地はただ 紬を見つめる。
「怒らせてごめん。……わかんなくてごめん」
「……なに、」
「わたし、よくわかんないんだ。何が良くて、何がだめなのか」
「……え?」
「どうしても、志島みたいにやれない」
俺みたい?予想もしない言葉を聞いて大地は絶句した。俺みたい?俺みたいっつったか今。人形みたいな顔は、夕日を背にして暗い陰を落とす。表情もないのにまるで悲しんでるみたいだ。
大地はまごついてフェンスをつかむ。それに脅えるかのように、紬の手がフェンスから離れた。
「志島はすごいね」
風が吹く。紬のパーカーが泳ぎ、中の頼りない身体がことさらに目立つ。そいつはまるで怖がる風もなく両腕を広げ、踵でくるりと半身を返した。大地の目にはその横顔が映る。
「いつも誰とでも仲良くやれる。誰の間に入っても上手くやれる。いつも楽しそうに笑ってて、何を話したらいいのか、どう動いたらいいのか、いつ笑ったらいいのか。自分がどこにいなきゃないのか、何をしたらいいのか、ちゃんと知ってる」
「………」
「……わたしはわからない」
久世紬の目は遠くを見ていた。ずうっと遠く。胸が痛むくらいに透明な眼差しで、ここではないどこかを見ている。
「きみと友達になるにはどうしたらいいのかも、よくわからない」
「―――…と、」
ともだち?思いもかけない言葉を聞いて、大地はフェンスをつかむ手にぎしりと力をこめた。顔がぼぼぼと熱くなる。なんだろう。この内から湧き上がる気持ちは一体何なんだろう。
「……志島は嫌、でしょう?」
わかってるよ、と少女は落ち着いた声で言う。
けれど今初めて理解した。いつもいつも無表情だが、それでもこいつだって感情がないわけじゃない。こいつは今ものすごく落ち込んでいる。一人屋上でたそがれて紙飛行機とばしちゃうくらいには落ち込んでいる。涼しい顔して人形やってる間も、何をどうしたらいいのかわからなくてとりあえず空を見上げるしかないところまで追い詰められていたんだろう。
大地は深いため息をつき、そのまま力尽きてコンクリートに膝を突く。
馬鹿か。俺は馬鹿か。なんでこいつが完璧なんて思い込んだんだ。だってそう見えたんだよ。この頭がいいのに、極度に不器用で、悲しいときに悲しいとか苦しいときに苦しいとか、そういうことを言えないこいつのことが。
「志島?……大丈夫?」
紬がちょこんとしゃがんで大地の顔を覗き込む。
落ちやしないかとひやりとした俺はフェンス越しに転入生の手をつかんだ。どれだけこうしていたのか、指先は冷え切ってる。こいつの目が、すこしの戸惑いに揺れる。
「……しじま?」
「あのさ」
「なに?」
「俺もさ」
「?」
恥ずい。なんだこれものすごく恥ずい。しかし遠まわしでは死ぬまで通じない気がする。俺はなんだってこの少女をいつまでもいつまでもしつこく気にしていたのか。過剰反応しては勝手に空回っていたのか。友達になりたかったなんて言われてこんなにも舞い上がってるのか。
「……どーしたらお前と友達になれんのか、わかんなかったの」
俺は、その転入生が目を丸くするのを、はじめて見た。
「わたし、あんまり人と関わったこと ないんだ」
「はあ?」
「お母さん、わたしに興味がないの。いつも男の人とばっかりいる」
フェンス越しに、俺たちは背中をあわせてもたれた。あいつが落ちないか心配だったので、手は握ったままだ。あいつは相変わらずの口調で訥々と話す。
「うち、離婚と再婚繰り返してるみたいで、いつも転校ばかり」
「り、離婚?転校?」
「うん。わたしの知ってるお父さんですら、最初のお父さんじゃないんだって」
「ま…まじかよ…」
「いつも1年したら離婚しちゃうの。わたしが懐かないから」
「…それは、」
「だからお母さん、わたしが鬱陶しいみたい。いつも怖い顔してて。だから、喜んで欲しくていっぱいいっぱい勉強したの」
「喜んでくれた?」
「ううん、興味なさそうにしてる。でも、わたしが100点以下のテスト持って帰ると、すっごく怒る」
「………」
どう反応したらいいか分からない過酷な家庭環境である。もごもごしている大地に構わずに話は進んでいく。
「だから なにを言ったらいいのか 全然分からない。なにをしたら喜ぶのか、なにをしたら友達になれるのか。…どうしたら好かれるのかとか」
「……そーか……」
大地は脱力して、ずるずるともたれた背中をすべらせた。そうか。そうなのか。かさりと音がして、横目で見遣れば転入生が足元にあった紙飛行機を拾い上げるところだった。
「……なんで紙飛行機なんか飛ばしてたんだ?」
尋ねると、紬はまたあの気まずげな顔を見せる。
「志島たちが前に飛ばしてたから」
そんなことがあっただろうか。あったかもしれない。日々にまぎれるささやかな出来事を、こいつは一体どんな気持ちで大事に覚えていたんだろう。それを真似てみようと思ったんだろう。こんなところからひとりぼっちで飛ばしてみようと思ったんだろう。教室のまんなかから、どんな風に俺たちを見つめてたんだろう。
「きれいだったから、真似したかったんだ。でも上手くまっすぐに飛ばない」
「……そっか」
「……志島みたいにできたらいいのにな」
「………」
「上手くいかない」
焦がれるような声は、胸をかきむしるようにさみしい。それは多分紙飛行機だけの話じゃなかった。
俺は単なる根っからの事なかれ主義で、そうも澄んだ目で褒めたたえられるようなものではない。いたたまれない気持ちで大地はうつむいてしまう。
「俺なんかぜんぜん駄目だよ」
「……そう?」
「先生にも怒られてばっかだし、勉強もできねーし、ケンカも弱いしさ。俺より上手くやってる奴なんかいっぱい居んじゃん」
「………」
「逆ギレしてお前転ばせたりとかさ。……ロクなもんじゃねーじゃん?」
逆ギレ?と不思議そうな声がする。そうだよ、とヤケクソのように答える。いまはなぜか、取り繕ったりごまかしたりする気にはなれない。唾を飲み込もうとしても、口のなかがカラカラでどうにもならなかった。心臓が早鐘を打つ。緊張に、背中がつめたく汗ばむのを感じた。
「あのさ、」
「ん」
「あのときはごめん」
「………、」
「痛かったろ。……ごめんな」
ずっと、多分もうずっと喉につかえていた言葉が、ようやく口から滑り出た。こんな簡単な一言もつたえられなかった。拳に爪をくいこませる。
「(俺はばかだ。ずっと後ろめたさから逃げてきたんだ)」
後ろから吐息みたいな笑い声が聞こえる。
「あんしんした」
顔を。見ていればよかったと、フェンス越しの背中の熱を感じながら思う。その顔が見てみたい。
「わたし、志島のこと好きだよ」
でもだめだ。鼻の奥がツンと痛んだ。振り返ったら、この情けない顔も見られてしまうから。
おれも、とかすれた声が出る。なんで俺たちの間にはフェンスなんてあるんだろう。こんなものなければいいのに。せめて握った手に力をこめた。全部がこれで伝わるように祈った。
「俺も、お前のこと好きだ……ほんとは」
こんなのまるで恋の告白みたいだ。だけど分け合う背中の熱が、焦げ付くように心臓に染みる。それはよろこびなのに鈍く胸を刺した。痛いくらいに深く。紙飛行機の折り方をおしえてやろうと思った。飛ばし方のコツも。もうこんなところで一人ぼっちで飛ばさずに済むように。
俺たちのぜんぶは、まずそこからだった。
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