私の隣人兼幼馴染みは、所謂お金持ちだった。
私の身長を優に越す塀にぐるりと囲まれた大きな家。その塀にある門を潜れば、中には侘びを感じさせる、美しい枯山水が描かれた広い和風庭園が存在していた。
敷き詰められた石畳を歩けば、割りと普通の玄関に辿り着く。しかし扉を開けると、また別世界だった。そこにはいつも衝立のように何かが立っていた。それが屏風だったのか、はたまた只の大きな木の置物だったのか、そこまでは記憶に無い。
その隣にぽつんと在る、小さな建物。灰色の煉瓦の塀があるだけの、こじんまりとした、只の有り触れた私の家だ。決してお金持ち等ではない、極々普通の家庭である。
だから家を出る度に、家に帰る度に、まざまざと思い知らされるのだ。圧倒的違いを。
そんな違う世界に生きる幼馴染みに恋する不毛さを実感するのが嫌で、隣家に遊びに行かなくなったのは何時からだっただろうか。少なくとも、玄関の様子が思い出せなくなるくらいには昔のことみたいだ。
「もしかして、名前ちゃん?」
『お久し振り、です』
今日も今日とてその違いを実感しながら学校へ行くんだと、成る丈視界に入れないように家を出た。すると、幼馴染みの家のお手伝いさんと偶然にも遭遇した。
数年来会ってなかったけれど、相変わらずの美人なご婦人だ。初めてあったときは、彼のお母さんかと思ったぐらいだ。口許に宛がわれた指に、上品さが滲み出ている。
「ふふ、とても綺麗になったわねぇ。素敵なお姉さんになっちゃって」
『え、否、そんなこと……』
こんな美人な方に言われると照れてしまう。追い討ちをかけられるように「本当よ」と微笑まれ、ついにくすぐったくて居た堪れない気持ちになった。
でも、誰に綺麗になったと言われても、貴方のところの坊ちゃんは私に見向きもしないですよ。そりゃ、幼馴染みで席が隣ということもあってか、私には他の人より話しかけてはくれるけど。多少は優越感感じてるけど。
溜め息を吐きたくなる事実に思わず下を向くと、腕時計が目に入った。そろそろ行かないと遅刻しそうだ。
それを伝えようと顔を上げ、しかし声にさえ出せなかった。
「ああ、そうそう。名前ちゃんには言っておこうかしら」
『何をですか?』
「征十郎さんね、次の日曜にお見合いすることになったのよ」
陶器で頭を殴られたような衝撃。まるで呪いのよう。
お見合い、って言った?
そりゃ私とは住む世界が違うだなんて、幼心でも分かっていた。只、こんなところで余計に理解してしまうなんて、思ってはいなかった。
『へぇ。そう、なんですか』
やっとのことで絞り出した声は震えていて、次に気が付いた時には学校にいた。どうやってここまで来たのか、ちゃんと挨拶をしてお手伝いさんと別れたのか、全く覚えていない。真っ白だ。去り際に「また遊びにいらっしゃい」と言われたような気はする。けれどあんなことを言われた手前、次に行ったときには征十郎の婚約者がいると考えたら、行きますなんて容易く答えられる筈がなかった。
じわじわと心に穴が開いていく感覚だけが、気持ち悪いほど私を支配していた。まるで、お前の恋が本当に叶うとでも思っているのか、身の程知らずが、と言われているようだった。
今日ほど、あの時首を傾げた自分を恨んだことがあっただろうか。今日ほど、席が隣だったことを恨んだことがあっただろうか。
「おはよう」といつも通りに挨拶しながら座る幼馴染みに、私は初めて返事をしなかった。
「何かあったのか」
『……』
気遣うような声色と、労るように頭を滑る手のひら。久々に聞いたそれに、今の私の表情が易々と予想出来た。
『お見合い、するんだってね』
征十郎の纏う空気が変わった。普段冷静さを欠かない彼が、僅かに動揺したのが分かった。
しかしそれも一瞬のこと。
「何故名前がそれを知っている」
『何時から決まってたの』
「……完全に決まったのは先週だが、先月には、話は持ち上がっていた」
確かに遊びにはいかなくなったし、一緒に登下校もしなくなった。それでも誰よりも話しかけてくれることが、私は嬉しかったのだ。嬉しかったのに。
何故、私には何も話してくれなかったの。
話したところで今更何が変わるわけでもないからだと分かってはいたが、問わずにはいられない。
何事もなかったかのように笑いかけて、見向きもしないくせに何処かで期待させて。
『ひどい』
「は?」
『ううん。上手くいくといいね、お見合い』
無理矢理にでも口角を吊り上げ、思ってもない言葉を吐いた。
差を知りたくないと言いながら、同じクラスになれて舞い上がったのは何時のことだっただろう。あわよくばと願っていた隣の席に私がなれたことを秘かに喜んだのは、どうしてだったんだろう。
結局彼の全ての行為が、幼馴染みだったからだ。何時の間にか消えていた手のひらも、柔らかい視線も。
嗚呼、この先貴方の隣に知らない誰かが立つぐらいなら、お見合いなんて破談してしまえばいいのに。
「……」
『……』
その日、私達の間に会話は無かった。
何か一言でも喋ると、泣いてしまいそうだった。
← →