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 木造の家。ふわりと香る木のいい匂いに、肺に染み渡るような澄んだ空気。今まで気にしたこともなかったけれど、肺に篭もる清涼感というものは今までに感じたことがないほどに心地よいもので、今まで自分が住んでいたところは空気が汚れていたのだということを実感する。自然の中での生活は不便だろうに、それでも好んでそこに住まう人々の気持ちが少しわかったような。ただそれを理解すると同時に、益々自分が見覚えのない知らない場所にいる、ということを痛感してしまうのだけれども。
 わたしは目線だけを動かして辺りを見渡した。机や棚、台所といった生活スペースが見られることから、ここは今現在誰かが住んでいる家なのだろう。出口に扉はなく、向こう側に広がる外は緑豊かな木々たちが見える。普通に考えれば、この家の持ち主は目の前に座る大きな耳の彼なのだが。
「×××、××、×××××?」
「な、なにいってるかわかんないよ……」
「××……××××」
 わたしはほとほと困り果てていた。恐らく、彼もそうなのだろう。なにしろ、まったく言葉が通じないのだから! 例えばそれが英語であったなら、わたしも知っている単語を駆使して話せただろうに、どうにも彼の言語はそれとはまったく違うように思った。ならば中国語だとかフランス語だとかのそういった言語かと言われればまた違うようで、どうにも聞き覚えがない。地球には百九十五の国があって、言語は六千以上にも及ぶと言われているが、彼の容貌からして文化力は大分あるように見えるし、どこか都会から切り離された民族のようには見えない。だからつまり何が言いたいのかと言われれば、わたしはまるで異世界にでも放り出されたような心地であったというわけである。
「あ、あの……わたし……」
 何かを考え込むように黙り込む彼に、わたしはびくびくしながらそっと声を掛けた。すると、ぴょこりと彼の耳が動いて、その独特な二層の丸い瞳がわたしをじっと見つめる。作り物みたいに綺麗な瞳だ。カラーコンタクトなのだろうか。そうでなくとも、その頭についている耳だって生きているみたいに動く。例えるなら、そう、フェネックのような。人間に動物の耳なんて生えるわけがないから、作り物だとは思うのだけれども、ぴこぴこと動くその様は本当に神経が通っているかのようだ。
「××××」
「え?」
「×××リ=v
 彼の耳に気を取られていると、ふと彼が何かを話した。聞き返すと、再び同じ言葉を話す。人差し指を自分の方に向けながら、彼のその双眸がじっとわたしを見つめ、ゆっくりと同じ発音で話すので、わたしはぱちぱちと瞳を瞬きながら、その声に耳を傾けた。
「×ィ、ナ、リ」
「い、いなり?」
「×××、ティ、ナ、リ」
「てなり……」
 彼の言葉を繰り返すと、正解! と言っているかのように彼がにこりと笑うので、どうやら上手く伝わっているようでほっとした。
 てなり。初めこそ、一体何を言っているのか、と思ったけれども、自身に向けているその人差し指から察するに、てなりとは彼の名前なのだろう。わたしは恐る恐る人差し指を彼に向けて、ちらちらと窺うように彼を見つめながらそっと呟く。
「て、てなり?」
「××!」
 わたしの言葉に彼はにこりと柔らかく微笑むと、自身に向けていた人差し指をわたしの方に向けた。
「わ、わたし?」
 確かめるように自分に指を向けながらそう言うと、彼はそうだ、と言っているかのように頷く。最初にてなりが名乗り、そして、今度はわたしの名前を聞こうとしている。言葉が通じないなりにコミュニケーションを測ろうとしてくれているのだ。わたしはそれに答えるように自分の名前を告げた。
「なまえ、なまえ……」
「×××?」
「なまえ」
「××なまえ?」
「そう! そうです!」
「なまえ。なまえ」
 何度も口の中でわたしの名前を転がして、確かめるように呟く。
「なまえ、××」
「えっ?」
「××。××」
 同じ言葉を繰り返しながら、彼がわたしの身体を指差した。そして、謝るようにぴんと立てた手を胸の前に掲げた後に、そっとわたしに掛けられた布団を捲る。
「××。なまえ、××=v
 彼が目を向けるわたしの身体には包帯が巻かれていた。じわりと滲む血の跡が見るからに痛々しい。まさか自分が怪我をしているとは露知らず、驚愕に腕を持ち上げれば、ずきりと鈍い痛みが走った。思わず呻くわたしを見て、彼は少し呆れたように優しくわたしの腕に触れるとそっとベッドの上に下ろし、再びわたしをじっと見つめた。
「××=A××、××」
 わたしの腕を指差し、この家の出口を指差し、そして最後に腕でバツ印を作る。ひとつひとつの単語は分からずとも、ジェスチャーをしてくれれば少しは理解はできるというもので、彼の言葉を確かめるように彼と同じ動作を繰り返しながら、彼にゆっくりと訊ねる。
「え、えっと、外に出ちゃいけない……ってことですか?」
「××」
 包帯。出口。バツ印。わたしの指し示した指に、彼はこくりと頷いた。
 そこでようやく状況がひとつ整理できた。恐らく彼はどこかでわたしを見つけて、介抱してくれたいたのだろう。そして甲斐甲斐しく包帯を巻き、世話をしてくれていた。外に出るな、というのは、まだ怪我が治っていないということなのだろうか。
 たった一夜の間に、一体自分に何があったのか。現在の自分の状態は理解できても、目覚める前に起こった空白の時間が分からない。コンクリートで整備された街から自然豊かな森の中の家に移動していることも、怪我をするほどの目に遭ったというのにそれ気が付かず眠っていたことも、そして不可思議な容貌をしているてなり≠ニいう人のことも。一体わたしに何があったのだろう。どうしてわたしはここにいて、わたしは一体どこにいるのだろう。
 てなりをみつめて、出口を見つめて、そうしてわたしは黙り込み、ごくり、と乾いた唾を飲み込んだ。言葉も通じない見知らぬ場所で、理解の及ばない状況の中にいる。不安で胸が押しつぶされそうな心地になりながら、弱音を零しそうになる口を抑えるようにぎゅうと下唇を噛んだ。

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