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「なまえ、×××=v
「う……い、いや、です」
「××=B×××=v
ぐい、とわたしの手に押し付けるように、てなりが椀を渡す。それにわたしが嫌な顔をして拒絶すると、彼はばさりと切り捨て窘めるような声音でわたしにその椀を飲むように言うのだった。
この家で目覚めてしばらく、わたしはずっとてなりに看病されていた。自分では気が付いていなかったが、わたしの怪我というのは腕だけでなく身体全体に及んでいるようで、朝と夜に彼に薬を塗ってもらい、包帯を変えてもらっている。初めこそ服に手をかけられた時は一体何をしでかすつもりだとベッドの隅に寄って縮こまりながら威嚇したものだが、そんなわたしの怯えようを見て、てなりが薬と包帯を手にして、身体に塗り巻き付けるような仕草をした。完全なる善意の医療行為だったため、襲われるのではと勘違いをしていた自分が恥ずかしい。そういうことで、ここ数日は甲斐甲斐しくてなりに世話されているのだった。
……しかし、そんな看病生活の中でもひとつだけ嫌なことがある。
「ヴッ……に、にがァ……」
「××××××××、×××」
意を決して勢いよく飲み干したそれの、口当たりの酷さといったら。ぐしゃりと顔を顰めてその苦さに耐えていると、よくできましたとでも言うかのようにてなりがわたしの頭を撫でて、ひと粒のキャンディを差し出した。お口直しだ。包装紙を剥がし、口に放り込んで、下に残った苦味を消すようにころころと口の中を縦横無尽に転がして回る。
嫌なこと。このお薬≠フ時間が、わたしにとって一番といってもいいほどに嫌なことだった。なにせ、今まで味わったことがないほどに苦いのだ。確かに薬と言えば苦いもので、粉薬などはその最たる例ではあると思う。しかし、てなりに渡されるこの飲み薬は粉薬を優に超える苦さで、できればもう二度と飲みたくないと感じるほどだった。毎回渡される度につい嫌な顔をしてしまうのだが、てなりは飲めとぐいぐい押し付けるので、渋々飲んでいる。ご褒美のキャンディがあるのが救いだろう。これがなければ、大量の水を要求していたところだ。
「てなり、ありがとう……いつもごめんね」
「××××××××。×××、××××××?」
「えっと、うん」
「××××××××××××」
自分を指差し、出口の方を指差す。そうして人差し指と中指で出口の方に歩いていく仕草をするので、わたしがそれに頷くと、てなりは緩く微笑んでわたしの頭を再び撫で、そうしてこの家の外へ向かうのだった。
この数日で、言葉が分からないなりにもそこそこ意思の疎通はできていた。先程のやり取りも、てなりが「これから外へ行ってくる」と言っていたのだ。ジェスチャーの力というものは偉大である。
それにしても、てなりは中々忙しい人らしい。というのも、朝早くにわたしの世話をした後、遅くなった頃に帰ってきてまたわたしの世話をする。時々わたしの世話をしている最中にも誰かがてなりを呼びに家にやって来ることがあって、てなりはその人に何やら厳しい顔で言いつけた後、少し申し訳なさそうな顔をしてわたしの頭を撫でてからどこかへ行くのだ。
わたしはぽふりと枕に頭を預けて天井を見上げた。木造の家。ふわりと香る木のいい匂いに、肺に染み渡るような澄んだ空気。木目をじっと見つめながら、ふと最近胸の内に湧き出した不安を抱えた。
ここ数日、ここで生活をしていて気が付いたことがある。まず、ここが日本ではないこと。というのも、まあそれ自体は薄々気がついていたことではあることだけれども、てなりを初めとした人の言葉が理解できない上に、ここがわたしがかつていた場所とは遠く離れた森林の中であるからだ。もし仮にここが日本のどこかであるというのなら、少しは言葉が通じてもいいはずだというのに、しかし誰一人としてわたしの知っている言語を話していなければ、わたしの知っているものは何もない。
そして、第一にわたしがここを日本では断定した理由に、服装や生活様式から何もかも異なっていた。テレビや電子レンジといった電子機器がひとつも見当たらなければ、自動車などの移動車の音がひとつも聞こえてこない。ランプだって電池式ではなく、自ら火を灯すタイプのものであるし、なんというか時代においていかれているような感じがするのだ。それだけでなく、てなりには耳がない。厳密に言えば、頭の上に大きな耳があるのだけれども、本来顔の横に着いているはずの人の耳が存在しないのだ。彼が髪をかきあげた時、偶然目撃してしまった。ぴょこりと動く耳に、揺れる尻尾。コスプレであれと思っていたが、あれは作り物などではなく、本物の耳と尻尾なのだ。
「……ここ、どこなんだろう……」
ぽつりと零れ落ちたその言葉はあまりに弱々しく、不安に塗れたものだった。
見知らぬ場所、通じない言葉、知らない世界。この世界に来た初日に「まるで異世界にでも放り出されたような心地になった」と称したけれども、あながちそれも間違っていないのかもしれない。だって、知らないことばかりだ。見たことのないことばかりだ。到底信じ難いこと、ばかりだ。
作り話ならいいのに。なにかの間違いであればいいのに。ずきりずきりと痛むこの身体も、この状況も、嘘であればいい。テレビのドッキリでもいい、いっそのことわたしの妄想でもいいから、早く、この夢が覚めてくれたら。
わたしは静かに目を瞑った。これが悪い夢でありますように。次に目覚めた時は、見慣れたわたしの部屋でありますように。眠る前は、いつもそんなことを考えながら目を瞑っている。