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ティナリはもうなまえの笑顔を思い出せない。彼女の声はまだ耳の奥に残っているのに、彼女の笑顔だけがあの陰惨な光景に塗り潰されて見えないのだ。
なまえはまだティナリが教令院の学生であった頃の先輩だった。当時、彼女は因論派の学生だったが、なまえの存在は教令院の中でも有名だった。鉱石――特に宝石に対して異様な熱意があり、宝石を研究するために各学院に突撃しては喰らうように知識を求めるものだから、「石狂いの変人」として教令院に名を轟かせていた。かといって周囲から厭われているかというとそうではなく、教令院の学生には珍しい素直さと、その持ち前の明るさと人懐こい性格が相俟って、偏屈ばかりの多い教令院で様々な学派の人々に囲われ慕われていた稀有な存在だったことを記憶している。
年齢学派関係なく人と接し、相手への敬意と尊重が根底にあることから、周囲にはいつも人が集まっていた。自身が研究している宝石に関しての見解を聞きたいと突然研究室に飛び込んできても、皆呆れたような言葉を漏らしながら、仕方がないやつだとその口元を緩ませて彼女の周りに集まってはああだこうだと議論した。ティナリとなまえが知り合うことになったのも、なまえがティナリの所属していた研究室に突然飛び込んできたのがきっかけだ。彼女の到来は一瞬にして研究室にいた面々の関心を引き、誰もが彼女の周りに寄っていった。今度は何を研究しているんだ、何が知りたいんだ、まったくお前はいつも突然すぎる、アポイントを取れとあれほど言っているのに――興奮したように自身の発見を語る彼女の話に皆が耳を傾けていた。彼女の周りでは諍いばかりを起こす学生たちも、その時ばかりは彼女の声に耳を傾け、自身の知識をさずけるために協力しあった。そんな様子を一歩引いたところで眺めながら、ああ彼女が例の石狂いなのかと思案していたティナリと、彼女の目がばちんと合って――その瞬間に、ティナリと彼女の交流は始まった。ティナリもまた、なまえのあの明るさに惹かれる一人だった。
なまえは誰にでも好かれていた。その交友関係はあまりに広く、一度話せば誰とでもすぐに友人になった。スメールシティに彼女の名前を知らない人はいないだろうし、聞くところによれば砂漠の方にも友人が多くいるらしい。現在教令院の学者として日々宝石研究に励むなまえが、教令院に属するファルザンやレイラと友人であるのは頷けるし、ティナリ経由で知り合ったセノや、誰にでも分け隔てなく絶するカーヴェ、よく街に出かけるなまえとニィロウが友人なのも納得はできるが、あのアルハイゼンがなまえを友人だと語った時はさしものティナリも驚いたものだ。なまえは一途に、ひたむきに宝石を追い求めているが、ティナリからすれば、なまえこそが宝石である。眩い輝き、誰もがその純然たる美しさに魅了されるのだ。なまえは誰にでも好かれていた。あのまっすぐな眼差しに惹かれていた。あの明るく柔らかな声が、ティナリの名前を呼ぶ。それは鮮明に耳の奥に蘇るのに、だけどどうしてあの笑顔だけが思い出せない。
――なまえが死んだ。璃月へ旅行へ行ったその帰りに死んだ。彼女が乗っていた馬車が魔物に襲われたせいだった。なまえは、スメールに帰って来れなかったのだ。
『ティナリ、わたし璃月に行こうと思ってるんだ。あそこ、テイワット一鉱物資源が豊富な国だし、世界一の貿易都市でもあるでしょ? 色々な宝石と出会いたいんだ! 旅行ついでに、宝石巡りツアーでもしてくるよ』
璃月旅行に出かける一週間前に、ティナリの元へなまえが訪ねてきて、なまえはそう語った。きらきらと未来への期待に目に輝かせながら、弾むような声音でティナリに笑いかけるので、ティナリはまったく君はと呆れながらも、彼女の楽しげな声に耳を傾けた。
『お土産を買ってくるね。何がいい?』
――それなら、琉璃袋がいいな。薬の材料にしたいんだ。
あの時に告げた言葉も、ティナリの言葉に対するなまえの反応も、今はまだ一言一句違えることなく覚えている。つい先日まではありふれた何気ない日常の中のやり取りであったのに、今となっては記憶の底に消えてしまわないようにと必死に手繰り寄せて失わないようにと守るのに必死だった。
『ティナリ、それじゃあ行ってくるね!』
ティナリにしばしの別れを告げに来たなまえはそれからシティへと戻り、その一週間後に璃月を経ち――そのまま、帰ってこなかった。
なまえの死体を見つけたのはティナリだった。なまえが帰る期日になっても帰ってこないことに不安になっていると、教令院にスメール行きの馬車が行方不明になっているという報が届いたのだ。それから馬車の捜索が行われ、間もなく魔物に襲われた馬車の残骸が見つかった。誰もがその事実に絶望した。なまえは死んでしまったのだと――しかし、乗客、駄獣、御者の死体が見つかる中で、なまえの死体だけが見つからなかった。もしかしたら、なまえはまだ生きているのかもしれない……ティナリもまた、限りなく低い希望に縋る一人だった。だって約束をしたのだ。なまえはティナリに土産を買ってくると約束した。彼女は決して約束を違えたりしない……一抹の希望を求めて、ティナリは必死になまえを探した。
だがなまえの死体は見つかった。無惨にも野獣に貪られた姿にかつての姿はなかった。蛆虫が飛び、腐敗した肉塊となった死体がなまえとは到底思えなかった。なのに視界に映り込む教令院の学者服が、なまえの身につけていた髪飾りが、ちぎれた人差し指に嵌められた指輪が、ティナリの明晰な頭は視界のそれがなまえなのだということを鮮烈に教えた。
――ティナリはもうなまえの笑顔を思い出せない。彼女の声はまだ耳の奥に残っているのに、彼女の笑顔だけがあの陰惨な光景に塗り潰されて見えないのだ。
喰い破られた顔面は血に濡れていた。柔らかく緩まる眼も、怒ると少し膨らむ鼻も、花のように綻ぶ口元も、皮膚と肉ごと喰われてしまって、影も形もなかった。
なまえの死体を見つけたのはティナリだった。そして――なまえの死体を埋めたのもまた、ティナリだった。
彼女はスメールシティに戻れないまま、暗くじめじめとしたアビディアの森の地の深くに眠っている。唯一彼が彼女のものとしてシティに持ち帰ることができたのは、まだ形が残っていた指輪の嵌められた人差し指だけだった。
……ティナリはもうなまえの笑顔を思い出せない。彼女の声はまだ耳の奥に残っているのに、彼女の笑顔だけがあの喰い破られた姿に塗り潰されて、何も、何も見えない。
胸の奥深くにある心にぽっかりと穴が空いたような喪失感が、なまえを見つけたその日からずっとティナリを責めたてている。
だというのに、なまえのいなくなったスメールには変わらず朝がやってきて、変わらない日常を運んでくるのだ。なまえがいない日も世界は周り、そしてティナリもまたなまえのいない日常を送る。
――なまえが死んだ。璃月へ旅行へ行ったきり、一人寂しく野獣に喰われて死んだ。
誰もがなまえの死に心を痛め、悲しんでいる。その中で、ティナリだけがなまえの最期を知っていた。
ティナリだけが、なまえの無念を知っていた。
――かつてティナリが教えたレンジャーに助けを求めるためのサイン。もしもアビディアの森に迷ってしまった時は、このサインで助けを呼べとティナリは教えた。そうすれば自分が必ず助けに行くからと。そうすれば、どこへいたってなまえを見つけることができるから、と。
きっとなまえは生きたかったのだ、死にたくなかったのだ、だから必死に助けを求めて――その結果、野獣を呼び寄せる結果になってしまったのだろう。
ティナリはもうなまえの笑顔を思い出せない。柔らかく緩まる眼も、怒ると少し膨らむ鼻も、花のように綻ぶ口元も、なまえの顔が何も思い出せない。写真を撮っておけば、あんな凄惨なものではなく、なまえ本来の笑顔を見つけることができるのに、なまえの写真はどこにもなかった。一枚も撮っていなかった。いつか共に写真を撮ろうと誘われたことがあったのに、ティナリは写真が好きではなかったから断ってしまった。だから、なまえはどこにもいなかった。見つからなかった。……土の下に埋まって、死んでしまった。
今日もスメールには朝が来る。
彼女がいない今日が、また始まる。