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ナヒーダのいるところは教令院から繋がる扉から坂をずっと登ったところにあるなんとか聖拠だ。スメールシティに根差す聖樹の頂点付近に建設されたその場所は、本来一般人が入ることは許されていないのだけれども、わたしだけは自由に立ち入りすることを許可されている。何故って、わたしがナヒーダに気に入られているからだ。なので、門番はわたしがえっちらおっちら疲れ果てた顔で聖拠に向かっても何も言わない。というか、教令院においてはわたしは閲覧禁止区域を除けばほとんどに出入りできる。これもスメールの神であるナヒーダに許されているからであり、わたしがこのスメールに留まる最大の理由でもあった。まあ、それはおいおい話すことにするとして。
「いらっしゃい、愛し子。来てくれたのね」
重たい扉を開ければ、まるでわたしの到来が分かっていたかのようにナヒーダがぴょんと草のブランコから降りてぺたぺたとわたしの前までやってきた。
「暇だったから遊びに来ちゃった」
「まあ、ふふ。嬉しいわ。ここまで来るのは大変だったでしょう?」
「うん。今度はナヒーダがわたしのところに来てよ。もう疲れて動けないよ〜」
「いいの? アルハイゼンたちは驚かないかしら」
「昼間だったらアルハイゼンもカーヴェも仕事だからいないしバレないよ。ね、それよりナヒーダ、わたし喉乾いちゃったあ」
「あら、ごめんなさい。気が利かなかったわね。すぐにお茶を用意するわ。そこにあなたの席を用意したから、掛けて待っていてくれるかしら?」
ナヒーダの指差す方を見やれば、聖拠の中央にあるステージにテーブルと椅子が設置されていた。この間来た時はなかったものだ。そういえば前来た時に座るところがないと駄々を捏ねたので、きっとわたしのために用意してくれたのだろう。彼女の言葉に甘えて席に腰掛けて足をぶらぶらさせて待っていると、しばらくして彼女がとことことトレイにティーカップとポットを乗せてやってきた。テーブルは彼女より少し高いところにあったので、彼女からトレイを受け取って代わりにテーブルに置いてやると、ナヒーダがにこりと笑ってお礼を言う。これがカーヴェならわたしは何もしないけれども、相手はナヒーダだから、これくらいの手伝いはわたしもする。ナヒーダはわたしがスメールに在ることを許してくれた存在だから。彼女がわたしの存在を許してくれたから、彼女がわたしに何があっても守り、保護してくれると言ってくれたから、わたしはここにいるのだ。
「それにしても会うのは本当に久しぶりね。またアルハイゼンたちの約束を破ったの?」
「ちょっとだけだよ。大体酷くない? 門限が夕方なんて、子供でももっと遅いよ」
「彼らはあなたのことが大好きだもの。あなたが離れていかないのか不安で仕方がないんだわ」
「ええ〜? 捨てられるまではあそこにいるよ。アルハイゼンはお金もあるし、なんでも買ってくれるし、それにカーヴェはわたしのためになんだってしてくれるからさ」
「ふふ、それなら心配いらないわね。彼らがあなたのことを捨てる日は来ないと思うわよ」
「ええ……?」
ナヒーダはそのふくふくとした手のひらで口を抑えながらくすくすと笑った。アルハイゼンとカーヴェがわたしを捨てないとどうして断言できるのだろうか? 自分で言うのもなんだがわたしは臑齧りの寄生虫で、そこに置いていても何も齎すものはない。拾った命は最後まで面倒を見るタイプの人間であったということなのだろうか。カーヴェは言わずもがな最後まで面倒を見てくれそうだが、アルハイゼンは当初わたしを家に住まわせることを反対していたので、このわたしの怠惰に堪忍袋の緒が切れたと追い出してもおかしくはないと思うのだが。まあ、犬を飼うのに反対していた父が一番犬を可愛がっている、みたいなやつだろうか。よく分からないけど。
「あなたには不思議な魅力があるわ。放っておけなくて、何故か助けてあげたくなる……ずっと見ていたくなるの。だから、彼らがあなたのことを手放すことはないと思うわ」
「へえ〜。ナヒーダもうそうなの?」
「ええ、私もよ。どれくらいと聞かれたら……そうね、あなたが毎日私のところに遊びに来てくれたら、と思っているくらいに、あなたのことをとても気に入っているわ」
「知ってる〜」
わたしはナヒーダの淹れてくれたお茶をごくごくと飲んだ。甘い紅茶だ。わたしの世界ではきっとこういう紅茶はチャイと呼ぶのだろうけど、スメールではなんと呼ぶのだろう。そういえばいつも振舞ってもらうばかりで、何の紅茶を飲んでいるのかなんて気にしたことがなかった。ちなみに、これは甘いものが好きなわたしのためにナヒーダが用意してくれているものだ。わたし専用である。
本人が言っている通り、ナヒーダはよくわたしを気にかけてくれていた。それはきっと、この世界で唯一彼女だけがわたしが異世界人であることを知っているから、ということにも起因しているのだろうけど。
紅茶と一緒に用意されていたナツメヤシキャンディをざくざくと食べる。ナヒーダはにこにことしながら頬杖をついてそんなわたしを眺めていた。用意されたナツメヤシキャンディをすべて食べてから、わたしはぺろぺろと汚れた指先を舐めて、ふいにナヒーダに問いかける。
「ね、ナヒーダ」
「何かしら?」
「元の世界に帰る方法、見つかった?」
「いいえ。まだ見つかっていないわ」
「そっかあ」
アルハイゼンとカーヴェに拾われて、それからしばらく経ってナヒーダの元に連れてこられて、わたしは初めて自分の状況を理解した。ナヒーダには会う度に元の世界に帰る方法のことを聞いているけれど、これといった答えは未だに返ってこない。当時世界樹だとか根源だとかよく分からない話をされたけれど、要するにこの世界に異邦へ渡るための術は記録されていなかった、ということらしい。彼女はわたしが帰れる方法を探してくれると言ってくれたが、かれこれわたしがこの世界に来て半年が経った。本来なら、元の世界に帰る方法を探すべく旅に出るべきなのだろうけど、生憎わたしにはそんな体力もないし、スメールシティの外には魔物だとか盗賊だとか危険な存在がたくさんいるらしい。痛いのも嫌だし、怖いのも嫌だ。それなら時間がかかってもわたしに優しいこの街に留まって、堕落した毎日を送った方がずっと簡単だ。幸い、わたしにはたくさん養ってくれる飼い主候補がいるし、生活には困らない。
「がっかりしたかしら」
「ううん、まあ分かってたことだし。まあ最悪、永住も視野に入れないとなのかなあ」
「あら、それなら歓迎するわよ。あなたをスメールの民として、私がずっと庇護してあげる」
「頼もしい〜。ナヒーダ、もしわたしのことを誰も飼ってくれなくなったら、ナヒーダが責任持ってわたしのこと飼ってね。言っておくけどわたし、プロのヒモだから、何もしないけど」
「いいわよ。あなたのことは私が大事に守ってあげる。別に、今からだっていいのだけれど」
「勝手なことしたらアルハイゼンとカーヴェに怒られる! 今度は三日どころか一ヶ月外出禁止にされちゃうよ」
「それは残念ね。でも、私は本気よ」
ナヒーダの四葉の深緑の瞳がわたしをじっと見つめた。
「あなたならいつでも、どんな時でもここに来ていいわ。好きなものを食べて、眠くなったら寝て、好きに過ごしていいのよ。私はあなたの怠惰も堕落も許すわ」
「ふーん……」
ナヒーダの言葉を聞きながら、我ながら甘やかされているなあと思った。これが異世界人を保護すると決めた神としての責任なのだろうか。正直なところ、どうしてわたしがこんなに許されているのかが分からない。アルハイゼンやカーヴェなんて、本来わたしのような怠惰を許すようなタイプでもないはずなのに。これも異世界人の特性なのだろうか。元の世界でよくあった物語にある転生特典、みたいなやつだ。最も、わたしは転生課に所属する女神様にあったこともなければ、死んだ覚えもないけれど。
まあ、そんな奇天烈なことはまずないと思うので、やはりスメールの人たちはペットに飢えているのだろうと思う。スメールは学術都市だし、自分にも他人にも厳しい人が多いので、癒しがないのだ。何をしても許してくれるような人間もいないのだろう。そんなところに現れた人権も尊厳も捨てたわたしのようなヒモが現れたとなれば、内なる献身欲というものが疼くのも仕方ないのかもしれない。ナヒーダの言葉も、要は好きなだけヒモになっていいよということらしいので、いつかの時のためのカードとして取っておくことにした。
「じゃあ、どこにも行くところがなくなったらそうさせてもらうね。わたしのための部屋、用意してくれる?」
「ええ! とびきりの部屋を用意するわ」
ナヒーダが嬉しそうに今日一番の笑顔を浮かべた。わたしのためのテーブルと椅子が用意されていたように、きっと彼女はすぐにわたしの部屋を作ってくれるのだろう。この聖拠に作るには少し手狭のように感じるが、増築でもするのだろうか?
まあ、わたしとしてはわたしを守って助けて養ってくれるなら誰でもいい。それがアルハイゼンであっても、カーヴェであっても、レイラであっても、放浪者であっても、神である、ナヒーダであっても。
わたしにはこの世界の神への信仰なんてないし、重要なのは凍えることのない暖かなおうちと飢えない程度の食事、欲を言えば清潔を保つための綺麗な衣服が与えられるならどこだって、誰だっていい。いい。異世界生活は過酷なのだ。こんな簡単な尊厳さえ、何も持っていなければ手に入れることができないのだから。
それからナヒーダと駄弁って、時間が来るのを待った。落ちる夕日の色は、元の世界と何ひとつ変わらない。