こころの隅に錆を飼う


夕七つになってもむわりとした暑さが残っている。じりじりと近づく夏の気配に、店の前を往来する人々も眉を顰めているように見えた。まだ冷房をつけるには渋ってしまう気温だが、湿度が高いこの季節にはどうも毎年苦しめられるな、と思う。

気休めに手でぱたぱたと顔を煽いでいると、生成り色の暖簾を若い男の人が潜った。白シャツに黒いベスト。肩には暑くて脱いだのだろう重そうなジャケット、腰には柄の赤い立派な刀。きっと偉いお侍さんだ。

いらっしゃいませ。なるべく丁寧に頭を下げる。
 
彼はつかつかとショーケースに歩み寄り、無表情で我が店の団子の並びを見つめた。同い年くらいかな。若さの滲む顔つきに、こちらも集中して視線を送る。
 
『三番と 五番からひゅう番 全部ひとつーつ』
 
この店には九番までしか置いていないので、「ひゅう」は九のはずだ。はい。と伝えるように頷いた。彼は未だに此方を向かないので見えていないだろうが。
 
団子を取ろうと動きかけたところ、また彼の唇が動いたので視線を戻した。
 
『あと 全部たわすこかけてくれあせんか』
 

 
『出来れば餡の下い』
 
お団子の餡の下に、たますぽ…たぱうこ…をかけてくれと言っていると思う。見慣れない単語に困惑した。いや、たわすそ…? 子音の読み取り間違いはよくあるので頭の中でアレコレ候補を出してみるものの、どれもいまいちピンとこない。
 
『聞いてあす?』

焦る私を彼が見据えた。ようやく目が合ったけど、感情が読み取れない弁柄色の瞳が少し怖い。またお客様を怒らせてしまったかもしれない。
 
心臓の騒ぎを抑えながら、こくこくこく、と何度も頷いた。聞こえてはいないが、見てはいるのだ。慌ててレジ横に用意してあるメモとペンを引き寄せる。
 
『すみません、耳が聞こえないんです。何をかけてと仰いましたか』
 
紙を向けると、彼は大きな目をぱちくりとさせた。

こういう反応には慣れている。私と会話できないと知ると、八割くらいの人は面倒がって帰ってしまうか、奥の店長を呼ぶ。彼は若そうなのでつんぼか、とか揶揄ってくるかな、と予想した。
 
しかし彼は無言でペンをとった。返ってきた紙には、『タバスコかけてください』と書かれている。
 
タバスコ、か…。
 
時間をとらせてしまって申し訳ない、の意を込めて何度も頭を下げ、お会計をして、メモを持って厨房に入った。
 
店長が急いで買ってきた赤い瓶を持って二人で団子と対峙する。初めて見た辛味調味料は意外とさらさらした液体だったので、餡の下にかけるのではなく餡の中に混ぜ込ませた。
 
十分ほど経ったころ。少し餡の色の赤みが強く出てしまったがまあまあ綺麗に出来上がった。店長が、『面倒くせぇ客だな』と空いた左手だけで言ってきたので思わず喉を鳴らして笑う。店長の手勢は綺麗だ。
 
お侍さんは外の縁台で寝ていた。頭の後ろで腕を組んで、変わったアイマスクをつけている。どうやって起こそうか考えていたのに、近づくとすぐに体を起こした。
 
お待たせして申し訳ありません。また何度も頭を下げて、紙袋を渡す。彼は相変わらず無表情だったが、ゆるく片手をあげて去っていった。
 
店内に戻り、レジ横に残った先程のメモを見返す。少し癖のある女性っぽい字。終始気怠げだったのに、『かけてください』だなんて、書き言葉は意外と丁寧だ。
 
そのメモに、今日の日付、茶髪、お侍さん、アイマスク、を書き足して壁のボードに貼り付ける。記録に残っていれば次回に対応できるからだ。江戸に上がり、ここで働き始めてからずっとそうしていた。紙で会話してくれたのは、今月は彼が一人目だった。
 
ふう、と息をつく。閉店まで残り一刻ほど。次のお客さんの注文は絶対に読み漏らすまいと気を引き締めた。




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