知らないふりの針の庭


匂い立つ土と草に、本格的な夏の到来を覚えた。売り場はついに冷房をつけ始めたけれど、外から涼しそうに見えなければ客は集まらない、と、桶と柄杓を持って店先に出る。

額の汗を拭いながら、人の流れを避けて水を撒いた。きらきらと弾ける光の粒に少しだけ涼しさを感じるけど、もう少し早い時間帯にやるべきだったな、と思う。太陽が一日の中で最も高く登るこの時間、砂と砂利で固められた道に染みる水分は、撒いたそばから蒸発しているようだ。

横の人の気配に顔を上げる。店長が眉間に皺を寄せて仁王立ちしていた。

『名前、暑すぎるから戻れ』
『でもこうやって打ち水で涼しくおけば、もっとお客さんが来るでしょう』
『汗まみれの看板娘のいる茶屋なんか誰も寄らねーよ』

確かに腕で拭うのが間に合わないくらい汗はかいていた。でも多分、みっともないからじゃなくて、熱射病とかを心配してくれているのだと思う。渋々店内に戻って、朝から氷出ししておいた冷茶を二つ用意し、ショーケース前にも置いてある縁台に二人で腰掛けた。

『厨房はクーラーつけないんですか?』
『電気代馬鹿になんねぇだろ。客のいる方だけでいい』

私より一回り年上の彼、店長こと鎰屋八兵衛さんは、とても優しい。健聴だが、彼の親は二人とも聾だった。だから手勢がとても上手なのだ。幼馴染の私が数えで八つの頃、突然の高熱で聴覚を失ったとき、両親より気にかけてくれた。

村人からは不具者と罵られ、口を開けば寺子屋の同年代からは変な声と揶揄われた。次第に私は喋らなくなり、反比例して彼が教えてくれる手話が大好きになった。将来のために口話も諦めない方がいいと店長には言われたが、自分の声も聞こえないのにどうして人に馬鹿にされながら喉を動かさなければいけないのかと聞かなかった。

役立たずは要らないと言わんばかりの両親と村人たちに半ば追い出されるようにしながら、故郷を出て彼と江戸に来た。谷中に団子屋「鎰屋」を構え、二階の居住スペースに彼と一緒に暮らしながら働いて数年。父であり兄であり恩人である彼は、私がつかみ損ねた家族からの愛情というものを拾い上げ、代わりにその意味を分からせてくれた。

彼の優しさは店内の至るところに表れている。例えば、団子の種類ごとに番号が振られていて、お客さんが注文の際番号を言うように促すことで、私が読唇しやすいようになっている。人が敷居を跨ぐとピカッと光るように仕掛けられている洋灯は、私が来客に気付きやすいようにするためのものだ。

二人で休憩がてら涼をとっていると、中年の浪人風の男性が二人、暖簾をくぐった。急いで立ち上がり、いらっしゃいませの礼をする。

『おや こらまたぺっぴんがいたもんだ』
『おまえさん この店わあじめてか 鎰屋のかんまん娘といえば名前ちゃんだろうが でも 見ねーうちに綺麗になったな』
『へー 名前ちゃんか どれ 冷茶と笹団子をもらおーか』
『おい この子 つんぼなんだよ 旦那をよもー』

幾度となく繰り返されてきた会話。戻ってきた店長は何とも言えない顔をしていて、そんな顔をさせてしまって申し訳ないと思う。

しばらくしてお茶とお団子を運んできた私を、彼らは先程よりさらにじろじろと見つめた。

『道理で喋らねーまけだ 看板娘がきーてあきれるな なるほど客もあいってねーよ』
『もったいねーよな ま 女なら関係ねーや 仕事ができなくても嫁にいけばいんだもの』

私が失聴者だと分かって気が大きくなったのか、歯に衣着せぬ物言いになった。こういうのは慣れているのであまり動じなくなったが、それでも気になって、ショーケースの内側に戻ってもつい読唇をしてしまう。聞こえないけど”聞こえる”し、喋らないけど喋れるのにな。

『まあでも 口がきけねーてのも いーかもな なにしても大人しくしてるんだろ』
『なにしてもってあんた なんする気だよ』
『なにってそらー…』

ニヤリと歪んだ口元を見ていられなくなって、ようやっと目線を逸らした。ふと、戸口のライトが鈍く光る。気だるそうに入ってきたのは、いつかのタバスコのお侍さんだった。茹だるような暑さに今日はスカーフまで外しているが、ベストやらスラックスやらのせいであまり涼しくはなさそうだ。

彼はショーケースまで大股で近づいてきたと思うと、無表情のまま私に向かって両手で八を作った。

八番のお団子。甘さを控えめにした代わりに塩味を効かせたずんだ餡のたっぷり乗ったそれは、先日彼に注文されたもの中で唯一タバスコを入れられなかった。少し混ぜただけで過激な赤色になってしまったからだ。

こくこくと頷いて、ショーケースを開ける。彼は縁台にどかりと座って足を組んだので、今日は店内で召し上がるらしいと分かった。冷茶と共に彼にお出しする頃には浪士たちはいなくなっていて、彼らの空の皿と湯呑みは縁台にほったらかされていた。

お侍さんはお茶を一気に飲み干し、串に四つ連なった店長の自信作を上から二つまとめて口に入れた。しばらくもぐもぐと口を動かしたかと思うと、レジ前のメモを取り、縁台を机がわりにしてペンを走らせ始めた。何が始まったのだろう、と少し離れたところでそっと見守る。

しばらくしてぶっきらぼうに渡された紙には、奇妙な絵が描かれていた。

串を持った黒髪の男の人が口から炎のようなものを噴き出していて、その隣でお侍さん本人らしき丸っこい頭のキャラクターが高笑いしている。彼の手にはお団子が握られていて、それぞれの横に、ひじかた、おれ、ずんだ(うまい)と書いてあった。

なるほど。お侍さんとどういう関係なのかは分からないが、この黒髪の男の人に悪戯目的でタバスコ団子を食べさせたのだろう。自分は綺麗な枝豆色のそれだけを食べて、美味しかったからまた来てくれたということだろうか。

色々面白くて、思わず声を出して笑ってしまった。店長以外の人の前で喉が動いたのは久しぶりだった。

ハッと口を隠すと彼はまた目をぱちくりさせてこちらを見ていた。大きな瞳以外は相変わらず動かないので、何を考えているかは分からない。『気持ち悪い声』と罵倒されるだろうか。遠い記憶が頭をよぎった。

でも彼は何も言わなかった。空の湯呑みを私に押し付けると、またゆるく手を上げて帰っていった。

細身の後ろ姿に何度も頭を下げた。ありがとうございます。また紙で話してくれて、馬鹿にしないでくれて。表情が少なくて胸の内が分かりにくいけど、彼は悪い人じゃない気がする。

彼の記録がまた増えた。今日の日付と、ずんだが好き、と書き足してボードに貼る。妙ちくりんな絵のおかげでレジ前が少し華やかになった。次は彼の名前も書き足せるといいな、と思った。




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