あめのひに孵化する夢


細かい水の粒がビニールの傘地を跳ね、不規則な振動が柄を伝って右手に届く。明けの頃から降り続く霧雨は、お寺だらけの谷中町をしっとりと濡らしていた。

こういう匂い、好きだなあ。湿った木材の香りを肺いっぱいにとりこみながら、左腕の包みを抱え直した。先日お侍さんが来たあたりから調子が悪そうだった戸口のライトだ。昔これを作ってくれたからくり技師、平賀源外さんに修理してもらいに、かぶき町に向かっていた。

水溜りを避けながら、西へ西へとしばらく歩いた頃。ビニール傘に透けて、通りの向こうから警察車両が走ってくるのが見えた。数メートル先で雑に停車したそれに、何かあったのだろうか、とドキドキする。運転席の窓が開いた。

「御用」と書かれた赤提灯の裏から顔を覗かせたのは、まさにあのお侍さんだった。

『…』
「…」

け、警察官だったのか…。黒いジャケットまでしっかり着込んでいるのを初めて見てみれば、かっちりとしたその制服姿はまさにお役人さんの出で立ちだった。車体には「真選組」の文字。店長がとっている新聞にたまに載っている武装警察だ。

何も言わずにじっと見つめられて、こちらもなす術がない。謎の沈黙を続ける私たちに、助手席の黒髪の男性が口を開く。

『おいそー …いえんた』
『ちょいと顔見知りなもんで んなかりかりしないでくだせーよ ったく いじかたさんをねにしたところで かるしゅーむのかのしも摂取できなさそうぁ』

彼の発言に黒髪の男性が火を噴くかの如く怒り始めたのを見て、あ、あの絵の「ひじかた」さんかな、と思った。

お侍さんはまた私を見やると、懐やポケットを探り始めた。が、すぐに諦めてこちらに向き直った。唇が動く。

『あんた 団子屋の女だろ こんなあむの日に一人でおっつき歩くたー 見上げたドM精神だ』

喋り言葉はけっこう刺々しいんだな…。それに、そんなに大変なことをしているつもりはないけど、被虐性愛者と思われていると思うと頬がカッとなり、いろいろ説明したくなった。本当は危ないから店長が行くって言ってくれたけど、具合が悪そうだったから私が無理やり出てきた、とか。道は分かっているから迷うことはない、とか。

先程まで店長と手話で口論していた反動で動き出しそうになった右手を下ろし、代わりに懐からメモ帳とペンを取り出した。事の顛末を書き、彼に手渡す。すると、

『どこまで行くんですか』

と書かれて返ってきた。やっぱり書き言葉は丁寧なんだ。笑い声が出ないようにするのがやっとだった。店長が源外さんは指名手配されていると言っていたから、からくり堂という名前は出さないほうがいいか。

『かぶき町です』
『見廻りの範囲内なので乗ってください』

ぶっきらぼうにメモを返された後、ペンで後部座席を指されて、驚いて首を振る。だ、駄目でしょ…。仕事中のパトカーに送ってもらうだなんて、それこそ捕まってしまいそうだ。

『いーから いじかたがキレねーうちに あやく』

土方さんはもう怒っているのではないかと思ったが、お侍さんの有無を言わせない無表情に、おずおずとパトカーの扉を開けた。



車内の冷房のブーン、という音がしっかり聞こえるほどには、助手席の窓に当たる雨は強くない。こういう微妙に天気の悪い日は不貞の輩が増える。今朝監察方から得た情報を頭の中で整理しながら、道行く人々の面差しをそれとなく流す。だが気づいたことと言えば、天気が悪い時の方が煙草が美味くなることくらいだった。

と、雨の染みる未舗装の道を徐行していた総悟が、急にブレーキをかけて停車した。

ぐらりと前に揺れた身体のまま、奴を睨め付ける。罪の意識なんてさらさら無さそうなその目線の先には、ビニール傘を差した若い女が一人いた。

「おい総悟。何してんだ」
「ちょいと顔見知りなもんで。んなカリカリしないでくだせぇよ、ったく。土方さんを骨にしたところでカルシウムのカの字も摂取できなさそうだ」
「黙れ、職質でもねーなら急に止まるな!!てめぇのダチに挨拶回りしてんじゃねぇんだよ!!」

化粧っ気のないその女と総悟は、女が取り出した小さな紙でやりとりしていた。…聴覚障がい者か。障がい持ちは仕事柄よく見るがこの辺じゃ珍しいと思う。

「いーから。土方がキレねーうちに、早く」

総悟が後部座席を指すと、女が傘を丁寧に閉じ遠慮がちに乗り込んできた。

「おい、俺は既にブチ切れてるぞ。どういうつもりだ、説明しろ」
「あーあ、これだから公務員は最低限の仕事だけして高給ふんだくってるとかなんとか言われるんですよ。困ってる市民を助けるのが警察の仕事でしょう」

そう言って俺が押したハザードを解除し、今度こそウィンカーを出し、目視までして総悟は発車した。

「普段最低限の仕事もしてねぇ奴に言われたかねぇよ」
「あ、見廻りはかぶき町に変更で。土方さん、アンタの副流煙で善良な市民の健康が侵されてるんで、これ捨てますね」

片手で抜き取られた煙草が、運転席の開いた窓の隙間から雨の中に放り投げられる。止められなかった舌打ちを誤魔化すように自分側の窓も開けた。

ようやく話し始めた総悟の言い草をざっと纏めると、『女は谷中の団子屋の売り子で、サボり中に知り合った。危ないから送っていく』ということだった。

くい、と引っ張られた裾に振り向くと、女に小さな紙を渡された。

『お団子、すみませんでした。大丈夫でしたか』

何故俺が食べたことが知れているのかなんてことは聞く気にもならないが、先日のふざけた激辛団子の作り手が彼女だとしても、明らかに総悟の指示だから別に謝る必要はない。が、何と返せばいいのか分からない。手勢なんて張り込みで偶に使うハンドサインくらいの知識しかない。

慣れないシチュエーションに妙に収まりの悪い心地になってしまい、あー、とか、その、とか言っていると、横からぷぷぷと笑われた。丸い頭についに拳骨を入れる。女に返事をするのは諦めた。大丈夫かどうかなんて見れば分かるだろう。

『危ないから送っていく』、か。年端もいかない女が雨の中一人。それも目的地はかぶき町、真面目に歩いてもここからだと二時間弱かかるような場所。おまけに、総悟は全く言及しないが彼女は耳が聞こえていない。

確かに危ないことには違いないが、こういう状況はそこら中に転がっている。困っている人間全員に手を差し伸べていたらキリがないから、警察は善意を向ける相手の取捨選択をする心の強さが無ければやっていけないのだ。

だから不思議だった。普段血も涙も情もへったくれもないような振る舞いや人付き合いばかりしてる癖に、急に何だってんだよ。

…こりゃただの顔見知りじゃねぇな。一々詮索する気は無いが、これ以上公務に支障をきたすなと念を押す必要はありそうだ。




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