鎰屋八兵衛のひとり言


最近名前の機嫌が良い。

今日も、警察の小僧との昼飯からにこにこしながら帰ってきて、営業に穴を開けたことを何度も俺に謝ってくるものの顔周りには色とりどりの音符が飛んでいるかのようでちぐはぐにも程がある。

『お前がいないせいで午後カオスだったんですけどぉ。レジ金も合わないしぃ』
『もー、ごめんなさいってば』

でもちょっとした仕返しのつもりで小言を垂れても、本気で怒れていないのは力の入らない指先から伝わってしまっているのだろうと思う。表情は口ほどにものを言うし、手先は表情ほどにものを言うから。甘やかしすぎか知らん。

『楽しかったか?』
『え、…まあ、はい。ふふ』

ならいっか、と思ってしまうあたり重症である。

今日の営業は終了し、時刻は暮れ六つ。鎰屋二階の居住スペースに二人で帰宅してすぐ、名前は割烹着を付けて台所に入った。

名前とは彼女が豆粒みたいな大きさだったころからの仲だ。所謂幼馴染。幼くして聴覚を失った彼女に、今のコミュニケーション方法である手話を教えたのは自分だった。楽しそうに手を動かす名前が微笑ましかったと同時に、残っているはずの声帯を使う意欲を失わせてしまった負い目がかなりある。俺の前ではたまに笑う時などに声を出すことはあるものの、彼女は基本的には喋らない。

名前が十四、俺が二十三の頃。二人で江戸に上がり谷中に団子屋「鎰屋」を構えた。街の発展とともに悪くなっていく治安から彼女を守るように一緒に暮らしてきた。店の二階の居住スペースで、寝る部屋や風呂の時間は分けているものの基本的には生活の全てを共にしている。

お互い家族のように思っているため自分たち的には何も問題ないのだが、なにせ三十路近い自分と年の離れ方が絶妙なためにご近所さんからの視線が少々気になってきた今日この頃。

名前も障がい持ちとはいえもう十八で、さすがに一人で暮らす力もあるとは思う。けど、もうすこし面倒を見ていたいという気持ちがあった。耳が聞こえていないと、身の回りの危険に気づきにくいからだ。例えば電話、インターホン、緊急避難警報、物の倒れる音、やかんの鳴る音。そして外での生活では、車の近づく音、動物の鳴き声、背後の足音。

彼女がかなり鼻や目が効き気配を察知する能力が高いとはいえ、耳が機能していないと危ないことだらけである。江戸の街は発展したとはいえ、障がい持ちが安心して暮らせるほど整備されていないし、社会的弱者に悪いことをしてやろうという輩もうじゃうじゃいる。それらを差し置いても、単に女の子だから心配ってのがデカいのは否めないが。

だが俺だけじゃセコムし切れないときも多々あるので、悔しいがまあ好い人でもできればいいなあと思っていた。だがこれも中々難しい。贔屓目なしにしても美人なので初対面の男は割と寄ってくるが、しかし障がい持ちだと知るとその多くが去っていくからだ。

男に限らず客は基本、名前との深いコミュニケーションを避ける。接客する分には問題ないが、必要以上の会話をしようと奴は中々いなかった。単に面倒がる客もいれば、聞こえないのならあまり話しかけない方がいいだろう、という哀れみで踏み込んでこない客もいる。前者はこちらからはどうしようもない。しかし後者の慮りも実は、当事者からすれば偏見と紙一重だったりする。彼女は人と話したくない訳ではない。幼い頃揶揄われた故に自分の声を気にしてしまったり、筆談するにしても時間がかかってしまうため怒られることに怯えているだけなのだ。

だからこそある日現れた警察の小僧は俺たちの生活に新鮮味を与えた。最初は新聞にたまに載っているお騒がせ野郎がよく来るなあ程度の印象だったが、来る度名前に新たな思い出と楽しげな余韻を残していく奴にだんだんと興味が沸いた。

見ていると、名前と同い年くらいのあの男は、恐らく名前に対しての同情のような感情は皆無だ。耳が機能していないのなら紙に書けばいい、それも段々面倒になってきてみれば手話をすればいい、だって激辛団子作ってほしいから、そしてその団子で同僚に無事一泡吹かせたことを報告したいから。そんな程度にしか考えていないから、相対的にたくさん話せているし、名前にとっては気が楽で楽しいのだろう。タバスコの注文には参ったが、悪い奴ではないのは名前も俺も十分分かった。

まあ、最近やけに名前に絡んでくるのが気になるけれども。だって、ここから真選組の屯所って割と距離あるはずのに、結構な頻度で来るし。しかも、パトカー乗せるとか、依頼の帰り送るとか。今日だって仕事中の名前を突然連れ出して昼飯に行ってしまった。センスがあるのか手話もすぐ覚えるし読み取りも上手いし、なんか悔しいんですけど。

台所に立ち何やらフライパンで炒めている彼女を見やる。彼女は俺のせいで甘味の他は丼ものとか簡単な麺とかの男飯しか作れない。匂いからして恐らく今日は親子丼あたりだろう。

『もう少しでできますよ』

火が近いからか、頬が上気している。名前の肌がつやつやで水信玄餅に絵の具を垂らしたみたいだな、なんて思ったから、笠森神社の納涼祭の出店の商品はそれにしたのを思い出した。ああ、アイツも名前の肌綺麗だなとか思ってんのかな。くう。

『父さんは寂しくなんて全然ねーから…』
『えっ、何?見てませんでした。もう一回やって』

これは男の勘だが本人たちですら気づいていない感情が芽生えているのではないか。若いっていいな。別に羨ましくなんかないけど。全然悔しくなんかないけど。

名前がどんぶりに盛り付けながら頭をリズミカルに左右に揺らしている。昔聴いた曲でも頭の中で口ずさんでいるのだろうか。

何にせよ、最近名前の機嫌が良い。

2021.8.9.




back

top