INFINITY WORLD
あたしと就職

 八月三十日。今日は喫茶店でのアルバイト最後の日である。
 明後日九月に入ってからは仕事が始まるので一日休みの為に残して今日が最終日。半年には達しないが、こんなあたしを長期雇ってくれて融通も利かせてくれたマスターには感謝の言葉しかない。

 お礼の品(菓子折り)を持ってバイト先に行く。勿論仕事を始めてからも暇があれば行こうと思っている。目指せ常連。
 今日も一日頑張ろうと意気込みながら裏口から喫茶店へと足を踏み入れた。

「おはようございます!」

「おはようそらちゃん」

 開店の準備をしていたマスターがにこやかな笑みを浮かべて挨拶をしてくれた。あたしはささっと身支度を済ませて開店準備を手伝う。
 珈琲の匂いがしみついた空間はみんなの心を癒す。勿論あたしも例外ではなく、働き出してから毎日のように嗅ぎ慣れたこの匂いともお別れと思うと少し寂しかった。まあさっきも言ったけどお客として来るんだけどね。

 手慣れたように二人して準備をする。そして開店時間になると、常連さん達が続々と来る。

「おはようマスター。そら」

「おはよう」

「おはようございまーす」

 この常連さんはちょいちょい話に出てきていた人。あたしが学校潜入をすると言った後ノリノリでビデオカメラや制服を提供してくれて、編集してDVDまで焼いてくれたけど遊びで入れて欲しくない場面を勝手に取り入れて楽しんでた人。あとこの前の避けられてるかもって相談してた時にもいたな。
 勿論その件では強く言ってないけど怒りましたよ、そしたらケラケラ笑ってはぐらかされただけで終わった。でも楽しかったからよし。勿論謝礼は支払ってます。

 年齢は30代後半の方で、映像関係の仕事をしているから映像編集とか得意なんだって。制服の入手経路は結局聞いてもニコニコして教えてくれなかった。犯罪とかには手を出していないだろうけど、あたしからすればこの方は未知だ。

 店員として接するのも今日が最後かと思うとやっぱり寂しい。
 そう思いながら彼の指定席に座った「いつものな」と言われマスターにオーダーを通す。一番マスターの珈琲が美味しいからね。あたし含めてどの店員もあの味を超える事は出来ないと思う。ちなみにいつものとはブラック珈琲のモーニングセットの事。

「いや、今日はそらに淹れて欲しい」

「え。あたしでいいんですか?」

「お前最後だろ?最初と今でどれだけ味が変わったかみてやるよ」

 最初に飲んでもらった時「まだまだだな」って言われたのをよく覚えている。見返してやると密かに思ったけどそれからはあんまり飲んでもらっていないから、久しぶりなのでちょっと緊張する。

 いつものように丁寧に珈琲を淹れる。そして常連さんに提供すると湯気が立つ温かい珈琲のカップを持ち上げ香りを嗅いで一言。

「香りは大分いいな」

 あなたは審査員か何かですか。
 最初に飲んでもらった時と同じようにそう心の中で呟く。常連さんは一口飲むと味わってから次いでもう二口程飲んでカップを置く。ドキドキしながら見ていると、常連さんは顔を上げて微笑んだ。

「マスターには程遠いけど、大分マシになったな」

「あ…どうも…」

 そりゃマスターには敵わないっしょ。でも凹んだあたしに常連さんは笑うと美味しいよと言ってくれた。
 あたしはそれを聞くと嬉しくてヘラヘラ笑った。お世辞でも美味しいと言われて嬉しくないわけがない。

「よかったね。そらちゃん」

「はい!」

 マスターに何回も教えてもらって練習して、マスターを日々観察した成果だ。マスターに頭を撫でられ自然と笑みが溢れた。
 そしてその常連さんからお疲れの意を込めてお菓子を頂き、お礼で今日のモーニングセットをあたしの奢りにさせてもらった。

 他にも続々常連さん含めお客さんが来て、今日はちーちゃんも来た。そしていつものように振る舞い勤務時間を終える。

「マスター。今までありがとうございました!本当にお世話になりました」

「こちらこそありがとう。よく働いてくれていたから助かったよ」

「いやいや、あたしなんて全然。ご迷惑掛けっぱなしで…でもとてもいい経験になりました。また来ます」

「うん。いつでもおいで。ああ、手伝いに来てくれてもいいけどね」

「あはは!あたしでよければ」

 別のバイトの子がカウンターに出てくれているのでその間に挨拶をし、持ってきた菓子折りを渡す。すると少し待っててねと言われてその通りに待っていると戻ってきたマスターに包装された袋を渡された。

「え!」

「お疲れ様の意味と就職祝いにね。みんなからだよ」

「ええー!ありがとうございます!嬉しい、開けてもいいですか?」

「いいよ」

 まさかのサプライズで喜び袋からプレゼントを取り出すと、それは水色の可愛いキャラクターが描かれたエプロンと同じ絵柄のタオルで保育中に使えそうな物だった。

「ほおおおお!!ありがとうございます!大事に使います!」

「ははは、喜んでもらえてよかった。頑張ってね。疲れた時はいつでも息抜きしにおいで。みんな待っているからね」

「はい!」

 ヤバい、泣きそうだ。いい人過ぎるダンディーマスター斎藤さん。
 あたしは他のバイトの子にも挨拶をして喫茶店を後にした。

「終わったか」

「あら、ちーちゃん」

「…ついでだ。送ってく」

 あたしが終わる時に帰ってったと思ったけど、まさか待ってくれているとは思わなかった。あたしは目を瞬かせて驚いたがちーちゃんのデレが見られてぐふぐふ笑うと、ちーちゃんの隣に並んで歩き出す。

「気持ち悪い」

「辛辣!」

 横目で見下されながら笑い方を指摘されるが気にならないくらいあたしは気分がいい。それを読み取ったのか微かにちーちゃんは笑うと一言呟く。

「お疲れ」

 その言葉でまた嬉しくなったあたしは調子に乗ってちーちゃんの頬をグリグリ人差し指で押していると、イラッとした顔でその人差し指を反らされた。折れるかと思った。










 九月一日。あっという間に八月が過ぎていき、今日からあたしは保育士として都内の某保育園で働く。
 電車に乗って数駅。そこから徒歩で直ぐの所にある保育園へ向かった。勿論プレゼントでもらったエプロンやタオルを所持している。ちなみに以前みんなからサプライズでもらった筆記用具やノートなどもある。プレゼントでもらった物は仕事で使えそうな物ばかりで嬉しいしありがたい。

 就職前に何度か保育園に訪れ職員同士の挨拶や仕事内容の確認などしているが、今日も着くと改めて職員さんへ自己紹介をして担当クラスである4歳児のクラスへ向かう。
 暫くは研修期間なので担任の先生と一緒に行っていく。だが二ヶ月もするとその先生は産休に入ってしまうのであたし一人になる。それまでにしっかり覚えなければ。経験はあるといっても暫くしていなかったのでやや緊張気味。喉乾いてきた。

 そして勤務が始まる。園内の掃除をしたり子どもを受け入れたり。あたしを見て新しい先生だと喜んでくれる子どもが天使過ぎて辛い。久しぶりに子どもに関われてうっほほい!ってなりながら仕事に勤しむ。
 これから日誌や計画や壁面の作成、連絡帳の返事などしていくんだろうし仕事が増えていく事を考えるとやや憂鬱だが、子どもの笑顔が見られるなら頑張れる気がして意気込んだ。

 だが体は18歳でも中身が24歳なので子どものパワーにやや押され気味で一日目は結構疲れた。子ども…恐るべし。
 帰宅後、気疲れもあるのだろうがいつもより疲れた体を引きずりソファーへ身を沈める。そこで一つやる事を思い出し目をカッと開く。

「そうだ真ちゃんにテレフォン!」

 あたしは急いで鞄から携帯を出すと真ちゃんにテレフォンする。コール音が数回鳴って繋がった。

『はい』

「あ、もしもし真ちゃん?そらだけど。今いい?」

『ああ。今部活帰りなのだよ』

「おーお疲れ。あのさ、前に言ってたピアノ教えてくれるって話なんだけど」

『ああ…今日から仕事だったな。お疲れ様』

「ありがと。んでね、一週間で曲覚えて早速弾いて欲しいんだけどって言われてさ!指定されたその曲意味わかんないんだよね。だから忙しいのわかってるけど教えて欲しい!結構早急に!」

『わかったのだよ。だがそらさんの家にピアノはなかったはずだが…』

「ない。だから今日の帰りに電子ピアノ買いに行ってきた。車ないから明日届けてもらう事になってる」

 帰宅途中楽器店で購入してきた旨を伝えると、真ちゃんから思わぬお誘いが。

『そうか。…今日から練習したいのならオレの家まで来てくれれば教える事は出来るのだよ』

「え!?いいの!?」

『ああ。人事を尽くす者に手を貸す事は惜しみないのだよ』

 その言葉にあたしは感動して神!!と電話越しに崇めているとやや怪訝な声色で神ではないのだよと言われた。
 そして一度シャワーを浴びてから真ちゃん宅に行く事になり、急いで準備をすると家を出た。










「リズムが違う。そこはもう少し遅く」

「う」

「そこは右手の此処が♭なのだよ。よく見てみろ」

「うう」

「左手が止まっているのだよ!」

「ううう」

 全然弾けない。あれ?ピアノってこんなに難しかったっけ?
 真ちゃんは気長に教えてくれていたが上手く弾けないあたしに最終的に少し言い方が厳しくなった。別に厳しく教えられる分にはいいんだけど、右手と左手同時に動かせないってどゆこと。

「予想以上に弾けていない…」

「面目ない」

 あたしがチーンと落ち込んでいると真ちゃんは一つ息を吐いて待っているように言い姿を消す。
 あたしは目の前にある高そうなピアノを見つめた後部屋をぐるりと見渡す。綺麗なこの部屋はピアノ専用の部屋らしい。

 赤君だけがお金持ちだと思ってたけど真ちゃんもいいとこ育ちなようで、家も大きい。そして母君が美しい。家に着いた時に出迎えてくれた方が母君であまりの美しさに後光が見えた程だ。

 再度ピアノとあたしが持ってきた保育園でもらった楽譜を見比べて溜め息を吐き出す。弾けるのかな。

 コンコンコン

「失礼します。紅茶でもどうぞ。休憩してね」

「え、あ!ありがとうございます」

 母君が来られてその持つトレーの上にはクッキーと紅茶二つが乗っていて、近くにあったテーブルへ置かれた。

「すみません、わざわざ。夜分遅くにお邪魔までして…」

「いいのよ、気にしないで。真太郎が女の子を家に上げるなんて初めてだから嬉しいわ」

 ウフフと上品に可愛らしく笑うのを見て泣きたくなった。美し過ぎて。真ちゃんの美しい顔立ちは母君寄りなのかね。

「そらさんよね。よく真太郎から話を聞いているわ」

「へ?あ、そうなんですか?」

「変わった人がいるって」

「ああ…」

 そっちね…と遠い目をした。可愛くて気前のいいとてもいい人とか紹介されてるのかと思ったわ。それはないか。自分で言ってて悲しくなった。
 でも真ちゃんがあたしの話題を家族に出してくれているのが嬉しく、同時に照れ臭くなった。真ちゃんツンデレ。

「でもいつもそらさんの話をする時いい顔をするのよ」

「…へぇ」

「これからもあの子を宜しくね」

「あ、いえこちらこそ。真太郎君にもお世話になります」

 綺麗にお辞儀されてあたしも慌ててぺこりと頭を下げる。そしてにこやかな笑みを浮かべて退室した。
 あたしはお言葉に甘えピアノから離れてテーブルの前に座り、温かい紅茶を一口飲んだ。アールグレイだ。うまし。

 すると少しして真ちゃんが戻ってきてあたしの様子を見て少し瞠目した。

「…母が持ってきたのか」

「うん。本当綺麗なお母さんだよね」

「そうでもないのだよ」

 いやあれを綺麗と言わずして何になる。真ちゃんはあたしの正面に座り同じように紅茶を飲むと、何かを持ってきたのかあたしに差し出す。

「何これ」

「簡単な楽譜だ。昔オレが練習に使っていた。留意点など書いてあるからわかり易いと思うのだよ。これをまず少しでも練習して慣れればあの曲ももう少しマシに弾けると思ってな」

 薄い楽譜の本を手渡され開くと確かに事細かにわかり易く書いてある。これなら出来そうだ。真ちゃんの配慮にあたしは感動して楽譜を抱き締めてお礼を言った。

「ありがと真ちゃん!」

「…聞くに耐えなかったからな」

 出たツンデレ。ぐふふと笑っていると休憩したのなら続けるぞと言われピアノに向き直った。よし、真ちゃんの応援に応えられるように頑張るぞ。

「この指を此処に…」

 ただ後ろから教えてもらう際に結構近いと無駄にドキドキしてしまうので距離感を少し考えて欲しいかもと思った。真ちゃんはただピアノを教えているだけなんだろうけど、ちょっと最近そういうの気にするから。峰さんに指摘されてから気にしてるから。

 暫く弾いて慣れた頃時間も時間なのでお暇させてもらう事にし、明日は部活帰りに家に寄って教えてもらう約束をして玄関を出た。
 その際に緑色の髪をした女の子が柱の陰からこちらを見ていて吐血しそうになった。可愛過ぎだろ今日でどんだけ天使見れば気が済むんだあたしは。
 きっとあれが真ちゃんの妹だ。確実に。家族揃ってクリソツ美人な妹君をしっかり目に焼き付けて帰宅した。途中まで送ってくれた真ちゃんマジ紳士。

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