猫よ花よ

12
屋敷に到着すると、不死川様は羽織ごと私を畳の上に転がした。私が這い出ている間に、不死川様は文台に向き合うようにして座っていた。
 墨をする音を聞きながら、私は羽織を不死川様の元に運ぶ方法を考えていた。白い羽織を噛んで汚してしまったり、歯で穴をあけてしまったりする危険性を考えると、咥えて運ぶという方法は却下だ。悩んだ結果、羽織をかぶり額のあたりに引っ掛けて運ぶという方法を実践することになった。

 裾を踏んでしまいつんのめりそうになりながらも歩けば、ごつんと鼻先を何かにぶつけた。羽織の下にもぐっていたことで視界が狭くなっていたのだ。
 痛む鼻先を両方の手のひらで押さえていれば、辺りが明るくなる。不死川様が羽織を持ち上げたのだ。
  
「血は出てねぇな。この調子じゃ鼻がへちゃがるのも時間の問題だなァ」
 
 指で顎を掬われ、上を向かされる。不死川様は私が怪我をしていないことを確認すると、軽く指先で鼻の頭を撫でてくれた。くすぐられたような感覚になり、小さくクシャミをすれば、不死川様は僅かに口端を持ち上げて笑った。

 文台に向き直った不死川様は何やら紙に筆を走らせている。報告書だろうか? 作業の内容が気になってしまい、私は身体を目一杯上に伸ばす。しかし文台の上を覗く事はできない。今までならば不死川様のお膝にお邪魔していたが、あの手は使えない。どうするべきかと悩んでいれば、不死川様がちらりと目線だけこちらに向けた。
 
「人間だとバレた途端にしおらしくなったな。猫の時の図々しさはどこ行ったァ?」
 
 縦に伸び上がる私の額を軽く押した。バランスを失った私はこてんと畳に転がる。何をしてくれるのだ。
 猫らしく振舞っていた時ならば迷わずに威嚇をしていたが、個人として認識されてしまった現在は上官に当たる不死川様に素直に苛立ちをぶつける事は躊躇われた。不死川様もそのことに気付いたようで、揶揄うような口調で指摘してきた。

 相手は上官だ。噛み付いてはいけない。溜飲を下げる為に尻尾で畳を叩いていれば、身体が持ち上げられた。
 
「見てもいいが、邪魔したら即刻降ろすからなァ」
 
 文台の端にそっと乗せられた。私が気にしていたことに気付いていたようだ。邪魔をするなと釘を刺してから、不死川様は再び筆を取った。

 さらさらと筆が紙の上を動き、少し鋭さがあるものの美しく整った文字が紙の上に並んだ。報告書かと思ったが、何やら五十音順に平仮名が並んでいる表のようなものを作っているようだ。

 文字の練習だろうか? 不思議に思いながらも美しい文字を眺めていれば、最後の文字を書き終えた不死川が紙を持ち上げた。

「これ読めるか?」
 
 私が見やすいようにと紙の上下の向きを変えると、不死川様は読めるかと尋ねられた。私は頷き返す。
 
「意思疎通が出来ねぇと不便だろォ。指で文字を指せ」
 
 その言葉でようやくこれが何物であるか理解した。人の言葉が話すことが出来ない私が、自分の意思を表示出来るようにという図らいだったようだ。一つずつ文字を指さすことで、相手に言葉を伝えることが出来るということだろう。
 優しさに感動した私は、慌ててありがとうの順に足を動かそうとした。
 
「馬鹿、まだ乾いてねぇよ」
 
 あり──まで手を動かしたところで慌てた様子の不死川様に身体を持ち上げられてしまった。まだ墨が乾いていなかったのだ。肉球が真っ黒に染まっているのを見ると、不死川様は小さく息を吐いた。
 
「ここ、手置いてみなァ」
 
 不死川様は私の身体を持ち上げたまま、紙の上に手を置くように促した。私が余白にそっと手を乗せれば、その手を軽く上から押し込まれた。
 
「余白を活用するには丁度良かったな」
 
 ゆっくりと手を離せば、紙の上にはうっすらとした肉球の形が浮かび上がった。怒られるのではないかと思っていた私は不死川様の対応に驚いてしまう。少し呆れながらも笑ってくれたのだ。
 もう一度私を文台の上に乗せると、不死川様は席を立った。
 
「拭くもん持ってくるから動くんじゃねぇぞ」
 
 動かないようにとしっかりと釘を刺されてしまった。中身が人間だと認識されたが、対応はあまり変わっていないように思う。世話を焼くことが身体に染み付いているようだ。

 肉球を軽く拭いてから、不死川様は私の湯浴みを女性の隠に頼み、そのままご自身は担当区域の見回りに向かわれてしまった。先に寝ていろと言って貰えたものの、私は縁側で丸くなりながら帰りを待った。
 猫の時ならば気にせずに寝ていたが、人間として認識されてしまった今、私だけがすやすやと眠ることは許されない。

 柱合会議は想像以上に疲れた。そのせいだろうか。目蓋が重くのしかかってくるし、首が座っていない子どものように頭がガクガク揺れる。必死に眠気と格闘していれば、辺りが薄ぼんやりと明るくなった頃に声が掛けられた。
 
「先に寝とけって言ったろォ」

 不死川様がお帰りになられたのだ。足元に寄れば、不死川様は身体を持ち上げてくれた。

「小せぇ身体で無茶すんなァ」

 どうやら先に湯浴みを済ませたようで、肌はじんわりと温かい。そのまま布団を敷いた部屋に向かうと、私を腕に抱いたまま布団に潜り込んだ。

「温まるまでこうしとけ……あとは好きにしろォ」

 布団は離れた位置にもう一組敷かれていた。私のために用意してくれたのだろう。しかし夜通し縁側にいた為、身体が冷えてしまった私を心配して温めようとしてくれているようだ。
 腹の上に乗せると、布団で覆ってくれた。人の温もりは安心させるようだ。身体から力が抜け、そのまま眠りに落ちた。


 死なないで、ひとりにしないで──そう泣き叫ぶ子どもの声がした。あぁ、私だ。そう自覚するまでに時間はかからなかった。
 父が血溜まりにうつ伏せに倒れていた。母は仰向けで倒れていた。私が駆け寄ると、いつも穏やかだった父が声を荒らげた。
 
「逃げろ」
 
 私を守るために必死だったのだ。そう告げると、父は力を無くして、血溜まりに額を擦り付けた。ぺたりと座り込んでしまった私は、力の入らない足で畳を何度も蹴って、這うようにして少し離れた位置に倒れていた母の元に向かった。

 母の身体に縋ると、生暖かい液体が頬を濡らした。母は腹を引き裂かれていた。父と母から広がる血溜まりが徐々に範囲を広げ、ひとつになって私の足を濡らす。
 夢だということは分かっているのに、目を覚ますことが出来ない。目を瞑り、手で覆い隠したいが、夢の中であるためそのようなこと関係なしにあの時の光景が浮かんでしまう。

 私は家を出た。身体が重くて、何度も転んでしまう。走っていると突然街並みが変わった。これが夢であることをさらに確信させた。
 誰か助けて──私は手を伸ばす。柔らかいものが触れた。弾力があるようで手で押し込むが、押し戻される。
 母の胸のようだ。そう思った途端に目の前に母が現れる。泣き虫な私を柔らかな胸に抱きしめてくれた。
 顔を埋めていれば、母の胸だと感じたものは次第に硬さを増し父の手に代わっていた。父が頬を撫でてくれる。働き者の父の手が好きだった。感触を確かめるように私は手のひらを押し当てた。
 
 
「おい」
 
 どこか遠くで声が聞こえた。これは現実世界のものだと直感的に理解する。私はその声のする方へと引っ張られるようにして目を覚ました。

 視界は真っ暗だ。夜にしても辺りが暗い。不思議に思いながら身体を起こそうとすれば、足元に何やら硬い感触がした。
 私はその上で何度か足踏みをする。何やら丘のようになっている。その丘から僅かに足を踏み外して、身体は傾いたがもふもふと柔らかいものがあった。フミフミと肉球を押し当てて確認をしていると、突然光が差し込んだ。

 パッと光の差し込んだ方を振り向けば、上体を僅かに起こした不死川様が腕を口元に押し当てながら、こちらを恨めしそうに見ていた。不死川様が布団を剥ぎ取ったようだ。

 何か怒らせてしまっただろうか。頬は僅かに紅潮しているようだし、睨みつけてくる目は潤んでいる。大きく開いた着流しの隙間からのぞく肌は桃色に染まっている。
 その表情にどきりとしてしまう。怒りに満ちているというよりも、その表情は扇情的だ。これも夢なのだろうか。私はたじろぎ、一歩後ろに下がった。
 
「馬鹿、そこで動くなァ……」

 押し殺したような声だった。そことはどこだ。私は足元に視線を落とす。
 筋肉質な肢体が伸びる。その分岐点に私はいた。──つまり股間だ。

 私が夢の中で母の胸や、父の手のひらと勘違いしたもの、そして目を覚ましてからもその正体を確かめようとしていたものは不死川様のアソコであったのだ。

 目の前が真っ白になる。あろうことか肉球を押し当て、顔を埋め、その上で足踏みをしたのだ。視界がぐらりと揺れ、私は倒れ込む。

 しかし倒れ込んだのも不死川様のアソコである。頬に感じる硬い感触。私が無意識とはいえ刺激してしまったことで反応させてしまったのだ。絶頂の兆しを感じさせている。

 驚きのあまり私の身体はぴょんと跳ね上がる。高く跳ね上がったはいいが、空中で姿勢を変えることもできず、着地点を変更することが出来ないことに気付く。
 まずい。嫌な展開が頭の中に浮かぶが、大惨事を回避する術がない。
 
「……危ねぇな、殺す気か」

 落下していた身体がぴたりと宙で止まった。不死川様が空中で私の身体を捕らえてくれたのだ。
 身体が小さいとはいえ猫が落ちてきた衝撃は相当なもので、不死川様の生死にも関わっただろう。

 地を這うような声が耳に届き、骨の奥から震え上がる。猫の姿になってからかなり失態を犯してきたが、これまでの失態が可愛いものだと思える。それ程までに笑えない失態を犯してしまった。
 腹を切るしかないのではないだろうか。
 
「大方寝ぼけたんだろォ。タチの悪い寝ぼけ方しやがる」
 
 不死川様の手の中で身体を震わせていれば、握りつぶされることもなく、壁に投げつけられることもなく床にそっと降ろされた。不死川様は乱れた着流しの裾をそっと直すと、大きく息を吐いた。
 布団に額を擦り付けるようにして謝罪の姿勢をとれば、不死川様からは怒りの気配がなくなった。伸びてきた手が頭を撫でた。
 
「……いや、人間だったなァ。間違えた」
 
 丸くした目で不死川様を見れば、無意識で行った行動を自覚したのかすぐに撫でるのをやめた。どうやら姿が猫であるため、中身が人間であることを忘れがちになってしまうようだ。
 
「……どこか痛むか?」
 
 不死川様からの質問に首を傾げる。身体の傷は完治している。なぜそのようなことをお聞きになるのだろうか。
 
「魘されてただろォ」

 気遣うような手つきで頬を撫でられる。白い毛に覆われた地肌はじんわりと汗をかいていて気持ちが悪い。不死川様が指摘されたように随分と魘されていたようだ。
 
「寝られそうか?」
 
 様々なことが起こりすぎて、目が覚めてしまった。もう一度寝る気分にはなれず、私は首を左右に振った。
 
「まぁ良い時間だな」
 
 私の反応を見た不死川様は身体を起こすと、布団を綺麗に畳んだ。不死川様はまだ寝ていても良い時間のはずだ。私に合わせてくれたのだろうか。邪魔にならない位置でその後ろ姿をぼんやりと見る。

 着流しは身体の輪郭を露わにしている。両腕から肩にかけて、そして胸部は著しく筋肉が発達していて厚みがある。腰にかけては引き締まり、帯の少し下の位置で腰骨が張り出しているのがよく分かる。着流しの裾から覗く足首には、動くたびに筋がくっきりと浮かび上がる。
 
「着替える」
 
 私に一声掛けて暫くしてから不死川様は着流しの帯を緩めた。着流しは肩から落ちると、床の上に広がった。不死川様はそれを拾い上げ、几帳面に端を合わせた。

 着流しを畳もうと手を動かすたびに肩甲骨が浮き出る。肩から胸部の筋肉が発達しているせいか、腰が細く感じられるが浮き出した腰骨は脆いという言葉とは結びつかないほど逞しい。

 視線を首筋から肩甲骨、背骨と辿っているうちにあることに気づく。不死川様は着流しを脱ぎ落とした。つまり身に付けているものは褌のみだ。
 尻はきゅっと引き締まっている。側面部には窪んでおり、筋肉と骨格によってつくりだされた無骨な陰影が男らしさを一層引き立てている。

 床に落ちた帯を拾おうと、前屈みになれば尻が突き出される形になる。内腿の筋が動けば、その少し前方にある柔らかな膨らみもつられて動く。褌で覆われているものの、その輪郭が想像を掻き立ててしまう。

 前屈みになり身体を折り曲げ、頭を下に向けた不死川様と視線が交わった。髪の毛は重力に従って、地面に向かって垂れ下がっている。額を露わにした様子はどこか幼く見える。じっと見つめていれば、大きく息を吐き出してから畳んで置いてあった隊服を手に取った。
 周囲の肌よりも盛り上がった傷跡や、色濃くなっている傷跡が目立った。しかしその傷が不死川様の生きてきた証だと思うと、途端に神秘的に思えてきてしまう。

 ズボンを腰まで引き上げた不死川様は、床に座って金具が多い脚絆を足に巻きつけた。全て身支度を整えると、くるりとこちらを向いた。目は見開かれ、こめかみのあたりに血管が浮いている。
  
「着替えるって言ったろォ。せめて盗み見るくらいにしとけ、ガン見はやめろォ、つーかまず見んな」
 
 その言葉で自分が大層なことを仕出かしてしまった事に気づく。不死川様は着替えると一声かけて下さった。それは着替えを見せないようにという配慮だった。しかし私はその肉体に見惚れ、見入ってしまっていたのだ。どうやら目があった時に見られていることに気付いた不死川様は手早く着替えを済ませたようだ。

 怒りを押し殺しているのか僅かに震えた声で一息に話した。見開いた目は血走っているし、口端は持ち上げられ笑顔の形をつくっているがピクピクと時折痙攣している。
 恐怖と羞恥の感情から頭が真っ白になり、そのまま意識が遠のくのを感じた。

 
「ご気分はいかがですか?」
 
 次に目を覚ますと、目の前に胡蝶様がいらっしゃった。診察室のような場所で、寝台に寝かされていた。ここはどこなのだろうか。
 
「ここは蝶屋敷ですよ」
 
 あたりをキョロキョロと見渡していれば、私の戸惑いを察したのか穏やかな声で胡蝶様は現在地を教えてくださった。
 そうだ、私は気を失ったのだ。今朝の出来事を思い出すと、顔から火が出そうだった。プニプニと柔らかい肉球で顔を覆ったところで、不死川様に触れた時の感触が手のひらに戻ってきた。
 
「どうかされましたか?」
 
 布団の上で悶えていれば、その奇行を側で見ていた胡蝶様が首をこてんと横に倒した。胡蝶様の前であったことを思い出して私は姿勢を正す。
 
「身体を調べさせて貰いましたが、異変はないようですね。でも驚きましたよ」
 
 カルテの上に視線を落としながら胡蝶様は身体に異変はなかったことを教えてくれた。それもその筈、私は卒倒しただけなのだから。カルテから視線を持ち上げた胡蝶様は僅かに声を弾ませながら、驚いたと口にした。私が首を傾げれば「実はですね」と内緒話をするように口元に手を当てた。
 
「気を失われた名字さんをこちらまで連れてこられたのは不死川さんなんですよ。その時の慌てようといったら」
 
 その時のことを思い出したのか、胡蝶様は言葉の途中でふふっと息を漏らして笑った。
 胡蝶様の話によれば、ここに私を連れてきてくれたのは不死川様ということだ。不死川様は怒っていたはずだ。しかし気を失った私を自邸から距離のある蝶屋敷まで運んでくださったというのだ。
 
「余程大切なのでしょうね」
 
 語尾を緩く伸ばしながら、胡蝶様は柔らかく微笑んだ。そのようなことあるのだろうか。猫の頃には甘やかされている実感はあったが、中身が人間とばれてしまった現在は適用されるのだろうか。鬼を殺す時のような恐ろしい表情を向けられたのは記憶に新しい。あの形相のまま私を蝶屋敷まで連れてきてくれたのだろうか。
 
「不死川さん、そんな所で立ち聞きしていないで、そろそろ入ってきては如何です?」
 
 少し声を張るようにして胡蝶様は不死川様を呼んだ。まだ不死川様に会う気構えは出来ていない。慌てる私を待ってくれるはずもなく、診察室の横開きの扉が音を立てた。
 
「……胡蝶、テメェ妙なこと吹き込んでんじゃねぇよ」
「でも、事実でしょう?」
 
 大きな舌打ちのあとに、不死川様は不機嫌さを滲ませた声を出した。長い脚でズカズカとこちらへと近付いてきた。胡蝶様はにこにこしたまま問い返す。胡蝶様の言葉を信じきれずにいた。しかし不死川様が喉の奥で言葉を詰まらせ、反論することなくただ舌打ちをしてそっぽを向いたことから胡蝶様の話は事実であったと確信する。
 
「急に意識を無くした、早く診てくれって駆け込んできて、診察の間も大丈夫なんだろうなァって何度も尋ねてこられたので診察室の外に出て貰ったんですけど、目を覚まされるまで扉の前でずっとウロウロされていて」
「帰んぞ」
 
 頬に手を当てると胡蝶様は困ったように肩を竦めながら、蝶屋敷にきてからの不死川様の様子を事細かに話された。診察を頼んだ手前、感情をぶつけることも出来ないのか不死川様は怒りに震える声で胡蝶様の話を遮った。
 
「身体に異変はなかったとはいえ心配ですから、いらっしゃった時のように大切に抱えてあげてくださいね」 
 
 胡蝶様の方が一枚上手なのだろうか、それとも不死川様が女性に強く当たれないのか、一度舌打ちをしただけで最後まで怒りをぶつけることはなかった。意外にも胡蝶様の言葉を素直に聞き入れ、「世話になったなァ」とだけ言って私を抱えて蝶屋敷を出た。 
 蝶屋敷を出てから会話はない。揺れないようにと気遣ってくれていることは歩き方から伝わる。もう怒ってはいないのだろうか。
  
「気不味いのはお互い様だァ」
 
 ビクビクと身体を震わせていれば、頭上から舌打ちが聞こえた。縦抱きにされた私がちらりと様子を窺えば、不死川様真っ直ぐに前を見たまま呆れたような声で話した。
 見てしまった私もショックがあったが、見られてしまったそして敏感な部分を触られた不死川様の衝撃もかなりのものだっただろう。
 
「言うことはァ?」

 慌てて謝罪をするが、私の口からはニャーという声しか出ない。周囲を見渡すが鎹鴉の姿は見当たらない。意思表示をできるようにと作ってくれた五十音表も手元にない。
 
「よく出来ました」
 
 うまく伝えられなかったが、不死川様は目元を僅かに緩めながら褒めてくれた。そのような対応が身体に染み付いているのか、無意識の言動を自覚した不死川様は誤魔化すように視線を逸らした。
 
「犬にでも噛まれたと思って折り合いつけろォ。互いになァ」
 
 お館様から直々に頼まれたからということもあるかもしれないが、不死川様は私を追い出すこともなく、怪妙な存在だと忌諱することもなく関わってくれるのだ。ありがとうございます──そう伝えたかったが、不死川様には正しく伝わらなかったようで「猫だって突っ込みは間に合ってんだよ」と返されてしまう。いつか自分の声で、言葉で伝えられたならば良いと思う。
 今朝の感触、光景が蘇ってきて、私は身体を大きく震わせた。
 
「暴れんなァ」
 
 額を小突かれてしまった。被害者である不死川様には申し訳ないが、当面は忘れられそうにないだろう。



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