右に行くか、左に行くか悩んだ結果、私は右方向に向かい、町に向かうことにした。
大通りは活気に満ちていて心が躍るが、昼頃は人の往来が激しく、小さな私は蹴られてしまいそうだ。道の端に寄り、周囲に注意を払いながら不死川様を探す。
「不死川のところの猫ではないか」
聞き覚えのある声に呼び止められ振り返れば、伊黒小芭内様がいた。首元にはやはり蛇を巻かれていて、無意識のうちに身構えてしまう。小さく頭を下げた私を一瞥してから、すぐに関心がなくなったという様子であたりを見渡した。
「不死川の姿は見当たらないな。飼い主と一緒ではないのか?」
どうやら不死川様の姿を探していたようだ。飼い主という表現について物申したい気持ちはあったが、意思疎通するために間を取り持ってくれる鎹鴉は不在だ。私の言葉を聞いて、思いを汲み取ってくれるような気長さを持ち合わせているとも思えない。何とか溜飲を下げてから、伊黒様の質問に対して首肯を返す。
「丁度良い」
一人納得したように頷いた伊黒様は丁度良いと呟いたが、何が丁度よかったのだろうか。不思議に思ってお顔を仰ぎ見れば、満月のように柔らかな光を宿した瞳と、湖水のような静寂さと深さを持った緑色の瞳がこちらに向けられた。
「少し付き合え」
顎をくいっと動かしてから、伊黒様は歩き出してしまう。着いてこいということなのだろうか。
以前に会った時は私に全く興味がない様子だった。あれから伊黒様とはお会いすることもなかった為、関係性が変化するような出来事はない。なぜ突然私を誘ったのだろうか。
「後で不死川の宅まで送り届ける。問題ないだろう」
困惑してその場から動けずにいれば、私が着いてきていないことに気付いた伊黒様が眉を顰めた表情で振り返った。
飽くまで私は不死川様の所有物であるという認識であり、拒否権はないようだ。
正直この場から逃げたい。しかし相手は上官だ。観念して私は伊黒様の元に向かった。手間をかけさせるなという視線を向けられたが、気づかなかったことにしよう。
大通りを暫く歩いたところで、伊黒様が足を止めた。ぼんやりとしながら後ろを歩いていた私は慌てて足を止める。前足を踏ん張ったせいで前につんのめりそうになったが、鼻先が地面に擦れるより前に身体が宙を浮いた。
伊黒様に抱き上げられたのだ。抱き上げられたという表現よりも、つまみ上げられたと言った方が正しい。首根っこを掴まれ、汚物を扱うかのように遠ざけられる。
「どのようなものが贈られて嬉しいだろうか」
眼光を鋭くさせながら首を捻るようにして振り返る。流石にこの扱いには耐えきれずに不満をぶつけようとしていたが、私の怒りは穴が空いた紙風船のように萎んでいった。
伊黒様が頬を僅かに赤らめ、目許を柔らげていたのだ。
視線を元に戻せば、目の前には美しく装飾が施された簪や櫛が並んでいた。これを何方かに贈ろうとしていて、選ぶ際に女性の意見を聞きたかったのだろう。他の女性に頼んだとしてその現場を意中の相手に目撃されては敵わない。現在は猫の姿をしているが中身は女である私は都合が良かったのだろう。
「貴様に贈ろうというのではないから安心しろ」
先程の春の到来を感じさせるような柔らかい表情の伊黒様は何処へやら、意識を私に向けた伊黒様はフンと嘲るように鼻で笑った。
あまりにも扱いが酷い。内心ムッとしていた私は少しの仕返しくらい許されるだろうと、伊黒様の想い人だと考えられる人物の名を口にする。
いつも一緒にいる蛇とはどうやら意思疎通が出来ているようだった。もし私と蛇が意思疎通できれば、蛇は伊黒様との間を仲介してくれるはずだ。
どうやら予想通りだった。伊黒様は頬だけでなく額まで朱色が広がった。
「何故それを……」
動揺から視線を彷徨わせ、包帯の奥で意味もなく口を開閉させていた。柱合会議での様子を見れば伊黒様の想い人を推測することは容易かった。先程見せた柔らかな表情を向けられていたお方がいた。甘露寺様だ。
「他言は無用だ。もしこのことが他の者に知れ渡ってみろ、その身を持って償ってもらう」
他言するなと静かな声で凄んだ伊黒様に了承の意を伝える。心配せずとも、誰かを想う真剣な気持ちを閑談のネタにするつもりはないし、第一仕返しが怖くて出来そうにない。
「鏑丸に贅沢をさせてやりたいと思っていたところだ」
伊黒様の首元を守るかのように体を巻きつけている蛇の名は鏑丸というらしい。
あまりにも脈絡がないように思えたが、実際にはもし口を滑らせた場合には私を鏑丸様の食事にすると暗に伝えていたのだ。私はいま一度深く頷き返した。
「櫛などはどうだろうか」
伊黒様の声に促され綺麗に並べられた櫛を品定めする。女性であれば美しいものや可愛らしいものを見れば心が躍る。
胡蝶様は蝶の形をした髪飾りをよくつけている。甘露寺様が普段から髪飾りをつけているならば貰っても困らないだろうし、もし普段あまりつけないのであっても非番の日などに着けて欲しいと伝えれば良い。そして身につけている姿を見たいから一緒に食事に行かないかと誘えば良いのだ。
「成程……そのような粋な誘い方があったか」
鏑丸様を通して伝えれば、驚いたように一瞬目を見開いてから納得したように頷いていた。贈り物を贈って好感度を上げるだけでなく、非番の日に会う約束まで取り付けることができる。我ながら良策だ。
並んだ櫛の中から伊黒様は木目が美しい櫛を手に取った。
「この櫛は春を思わせるような甘露寺の美しい髪によく映えるだろうな」
落ち着きのある色合いは甘露寺様の鮮やかな髪の毛を引き立たせるだろうし、櫛の背の部分の曲線美が美しく、彼女の柔らかい雰囲気にもよく似合うだろう。
似合うものを見つけたというのに伊黒様の表情は一向に晴れない。何か気がかりなことでもあるのだろうか。
心の底から納得出来たものでなければ後々後悔するだろう。他にも見て周ってはいかがですか──と声をかける。
「……そうだな」
少し間を空けてから頷くと、伊黒様は櫛を元の場所に戻してから店を後にした。私を地面に下ろすと、伊黒様はそのまま人々の流れに紛れた。
置いていかれないようにと慌てて後を追う。人々の隙間を掻い潜るようにして伊黒様の真後ろにたどり着くと、ほっと息をついた。
気が緩んでいたのだろう。内臓を持ち上げられるような感覚がしたかと思うと、身体は鞠のように宙を舞ってから、地面に僅かに跳ねるようにして転がった。
行き交う人々の足が横に見えて、自分が地面に転がっていることを理解した。
「貴様の目は飾りか?」
声を荒らげてはいないものの、怒りに震える声が聞こえた。伊黒様が私を蹴った人物に詰め寄っているのだ。
「猫を蹴ったくらいで大袈裟な」
大柄な男性は着流しの裾を蹴るようにして立ち去ろうとした。しかし伊黒様はその男性の腕を掴むと捻りあげた。男性の顔は苦痛で歪む。
柱の中では伊黒様は小柄な印象を受けるが、日頃から厳しい鍛錬をしている人物と一般人とでは力の差は歴然だ。このままでは男性の腕が折れてしまうかもしれない。
慌てて足元に駆け寄ると、隊服に爪をたてるようにして胴のあたりまで登り、男性を捻りあげる伊黒様の腕にしがみついた。前足をひっかけているだけなのだ。宙ぶらりんになった身体は不安定に揺れる。
「次は無いと思え」
私の思いが通じたのか、伊黒様は吐き捨てるように言葉をかけてから男性を解放した。男性は真っ青な顔で立ち去っていった。
安心した途端に力が抜けて、伊黒様の腕に引っ掛けていた前足が外れてしまった。落ちる──そう覚悟したが、地面に叩きつけられることはなかった。
「蹴られておいて庇うなど随分とお人好しだな」
伊黒様が抱きかかえてくれたのだ。前腕の全体を使って体を支えてくれる。先程まで汚物を扱うかのような対応であった為、突然の変化に驚いてしまう。
「また問題を起こされては堪らないからな」
言い訳をするかのように呟き、伊黒様は私を抱えたまま歩き出した。どうやらこのまま運んでくれるらしい。往来も激しいことから気遣ってくれたのだろう。優しいところもあるのだ。
印象が変わり、一方的に親しみを持ってしまった。気を良くした私は伊黒様にお勧めの店に案内しようと、あちらへ向かえと指図してしまった。
「お気楽なものだ」
上官に指図をするなど許されることでは無い。怒られるかと思ったが、伊黒様は先程蹴られたばかりだというのにもう気持ちを切り替えている私を見てふんと鼻で笑っただけだった。
それからいくつか店を見て周ったが一目惚れをするような商品には出会えていないようだ。次の店に行くように伝えたが、伊黒様は足を止めてしまった。
「やはりやめよう」
贈り物探しは、受け取ってくれた時の相手の表情を思い浮かべると楽しい。つい振り回しすぎてしまった。怒らせてしまっただろうか。甘露寺様への贈り物をしたいという気持ちまで失わせてしまっただろうか。
伊黒様の腕の中で身体を動かし、顔を仰ぎ見る。
「甘露寺はいつでも真っ直ぐに向き合ってくれる。そのような中、贈り物に頼ることでしか誘えない男など不釣り合いだ」
伊黒様は穏やかな表情でゆっくりと瞬きを繰り返していた。僅かに伏せられた瞳は穏やかな色をしている。
甘露寺様を大切に思うからこそ、物に頼ろうとする自分が許せなかったのだろう。しかしお二人の間に流れる空気はくすぐったくなってしまうほど穏やかで優しい。不釣り合いなどということはない。そのような悲しいことは言わないで欲しい。
「そのような顔をするな。己の言葉で誘うことにしただけだ」
感情が表に出てしまっていたのだろうか。誘うことをあきらめるのではなく、自分なりに誘ってみせるといった伊黒様は僅かに口元を緩めていたような気がした。
伊黒様の手がゆっくりと私の頭に触れた。撫でてくれたのだろうか?
「汚れているな。先程地面に転げた時か?」
どうやら泥がついていたらしい。潔癖そうに見える伊黒様が甲斐甲斐しく世話をしてくれていることに驚きながらも、ありがとうございますと慌てて口にする。
「以前に知能の高い猫と同等だと評したこと、侘びる」
こんなものかと手を止めた伊黒様は、静かな声で謝罪した。それは柱合会議で出会った日の帰り際の一言についてだった。丸くした目で伊黒様を見たが、伊黒様は気にした様子もなく足を進めた。
「とても参考になった」
口調から以前に感じていたような刺々しさは感じない。鏑丸様は楽しげに身体をくねらせている。
「その身体も不便だろう。確か鬼と遭遇した際に鈴の音がしたと言っていたな。担当区域で似たような噂がないか確認しておく」
淡々とした口調ではあったが、声からは温かさを感じた。伊黒様も力になってくれるというならば心強い。ありがとうございます──と何度も口にすれば、伊黒様はフッと息を漏らして笑った。
「迎えだな」
迎えだと言った伊黒様は少し遠くに視線を向けていた。つられて視線を同じ方向へと向ければ、大股で歩く不死川様の姿があった。
そうだ、私は不死川様を追いかけてきたのだった。すっかり目的を見失っていた。出来れば追いかけてきたことを知られたくない。
匿ってくれませんか──と伊黒様に頼むが、伊黒様は首を左右に振った。
「不死川に引き渡す。連れ回したことで負傷させたのだ、俺にはそのことについて伝える責任がある」
驚きはしたがただの打ち身程度で、すでに痛みはなくなっている。しかし伊黒様は気にかけてくださっていたのだ。抱き上げてくれたのも、移動の効率だけでなく身体を心配してくれていたのかもしれない。
「何してんだァ?」
「小さすぎて人に蹴られていたぞ」
私と伊黒様の顔を交互に見た不死川様は怪訝そうに眉を寄せた。簡潔に説明をすると、伊黒様は視線で不死川様の方にいくようにと私に促した。
お辞儀をしてから伊黒様の腕を蹴るようにして飛び移ろうとした。しかし目測を見誤ったのか、伊黒様と不死川様の間に落下していく。
「距離感考えろォ」
下から掬い上げるようにして私の身体を掴んだ不死川様は、私を抱え直してくれる。隊服の胸元が大きく開いている。このままでは私は不死川様の胸に顔を埋めることになってしまう。このままではまた興奮して失神するなどという失態を犯してしまう。
前足をピンと伸ばして、不死川様の体と距離を取る。私の行動の意図を察したのか、あぁと小さく呟いた。
「落ちんなよォ」
身体をさらに持ち上げられ、肩の上に乗せられた。足場は不安定だが、胸に顔を埋めるよりかは精神的に落ち着く。
同じように伊黒様の肩のあたりに身体を預けている鏑丸様と目が合ったような気がして小さく頭を下げれば、鏑丸様も僅かに頭を下げてくれた。
「……悪ぃ、面倒かけたなァ。助かったわ」
「いやこちらの台詞だ」
私と鏑丸様のやり取りを横目に見ながら、不死川様は蹴られていた私を保護してくれたことに対して感謝を伝えた。伊黒様が助かったのは自分の方だと言えば、不死川様は訳が分からないといった様子で首を傾げた。
「にしてもこんな所に居るとは……街になんの用だァ?」
「此奴を探しに来たのではないのか?」
「偶然だァ。俺が出掛けた時にはこいつは家にいたしなァ」
不可解そうにしながら、そもそも何故私がこの場にいるのかという疑問を口にした。伊黒様は不死川様が私を探しにやってきたと思っていたようで、不死川様の反応に首を傾げた。
2人の視線が私に向けられた。肩に乗っている為、不死川様の顔は真横にある。なぜこの場にいるのか話すようにと目で訴えかけられる。
まさか逢瀬の現場を押さえようとしたなどと打ち明けられる筈もなく、私は猫らしく鼻から頬にかけてを手で擦る仕草をして誤魔化す。
「不死川、女子は櫛や簪を貰って喜ぶそうだ」
「あ? その情報を俺に与えてどうしようってんだ」
私が街に出かけてきた理由にそれ程まで興味がなかったのか、伊黒様はあっさりと引き下がり話題を変えた。それは私が伊黒様にお伝えした情報だった。
伊黒様にとっては有益な情報だったかもしれないが、不死川様が関心を示すとも思えない。なぜそのようなことを伝えたのだろうか。想像していた通りに不死川様は意味が分からないという表情を浮かべた。
「深い意味などはない。俺もその者から教えられただけだからな」
「柱相手に本当何してたんだよ」
伊黒様は顎先でくいっと私を指してから、先程の情報源は私であると明かした。甘露寺様に贈り物を選んでいたことについては隠している為、柱に助けて貰った私が立場も弁えずに乙女心について語ったと不死川様は勘違いしているだろう。不死川様は頭を抱えてしまった。
「抜けた毛が隊服について煩わしい……次に会う時までにその姿をどうにかしておけ。それでは失礼する」
「おう」
私を抱いた時に着いてしまったのだろう。羽織や隊服についた毛を払い、嫌味を残して去ってしまった。あまりにも突き放された物言いに、先程のやり取りで距離が近づいたように思えたが全て夢だったのではないかと疑ってしまう。
「良かったなァ」
伊黒様を見送った不死川様は穏やかな声で呟く。何が良かったのだろうかと横顔を見れば、ちらりとこちらに視線を向けた不死川様が口端を持ち上げた。
「次会う時までに人間に戻れるといいな、だとよ」
伊黒様の言葉を代弁してくれたようだ。本当にそのような思いがあっての発言であったかは分からないが、私よりも伊黒様と付き合いが長い不死川様がそう言うのだ、信じてみても良いのだろう。
「気持ちいいなァ」
伊黒様も優しかったが、やはり不死川様の常人よりも少し高い体温が落ち着く。無意識のうちに私が首元に身体を擦り寄せれば、不死川様は頬を寄せてくれた。双眸を閉じている姿は、いつもの凛々しい雰囲気とは異なり、稚気を帯びている。
「確かにこれは懐柔されるかもなァ」
くつくつと不死川様は笑った。心地よい空気が、何処の馬の骨とも知れない動物と逢瀬をしていたことについては水に流しても良いかもしれないと思わせた。ゆっくりとした歩みに揺られながら帰路についた。