誰が湯浴みの介助をしてくれるというのだ。
「誰もいねぇじゃねぇか」
台所を覗きこんだ不死川様は怪訝そうに首を傾げたが、その理由を思い出したのか「あー」と低い声で唸りながらしゃがみ込んだ。
「……今日は帰るように言ったんだったか」
ようやく事態を把握したようだ。猫の姿をしているとはいえ元は人間である私の精神的な負担を考慮して、不死川様は同性の隠の方に私の世話を頼んでくれていた。今日もそのつもりで風呂に入ろうと声をかけてくれたのだろう。
泥だらけになったのは自業自得であるし、野良猫ならば湯浴みをすることすらないのだと考えれば一日や二日は耐えることが出来る。
頭を抱えてしまった不死川様に気にしないでくれと伝えたくて袖口を引っ張る。長い睫毛に縁取られた瞳がこちらに向けられた。
「……あぁ、分かってる。ちゃんと入れてやるから安心しなァ」
そうではない。私が元の身体でいたならばそう叫んでいたはずだ。どうやら湯浴みを催促しているように受け取られてしまったようだが、私の伝えたかったことはその真逆だ。
この生活に慣れつつあるが、不死川様は泣く子も成人した鬼殺隊ですら黙る柱であらせられるのだ。一介の隊士の世話などを任せて良い方ではない。第一、私が羞恥に駆られ耐えられない。
「見られるのが嫌なのは分かるがその小せぇ体で風邪をひくよりマシだろォ」
猫の身体などに欲情しないと一蹴してしまえば簡単に片付くというのに、こうする他ないのだと丁寧に諭してくれるのは不死川様の優しさだ。本来ならば上官の指示に従うべきだが、今回に関してはこちらも引くことはできない。
どうにか互いに折り合いがつく案を模索しようとしてくれたのだろう。通訳として鎹鴉を呼んでくれた。
以前に柱合会議に出席したいが故に鎹鴉を襲ったが、その蟠りはすでにとけているため快く引き受けてくれた。ようやく自分の思いを正しく伝えることが出来るのだ、早る気持ちを抑えながらゆっくりと話す。
「一人デ入レマス」
「足すべらせて溺れるかもしれねぇだろォ、それは許可できねぇ」
桶に湯をためておいてくれれば一人でも問題ないという私の考えは、即座に却下されてしまった。
不死川様は過干渉すぎるのではないかと思う部分もあるが、安全面を考えると今回の意見は妥当だ。正論を説かれたとしても反論せずにはいられない。
「私バカリ恥ズカシイ思イヲスルノハ納得ガイキマセン」
猫の姿になってしまったのも、泥だらけになったのも自分の落ち度だ。しかしなぜ私ばかりが不便な思いをしなくてはならないのかと常に抱えていた不満をぶつけてしまう。
ただの猫だと認識されていた時のことである為仕方がないが、性別を確認しようと冨岡様に股間を凝視されたこともあった。そのような出来事は、いくらでも挙げることができる。
「確かになァ……」
私の主張も理解できたのだろう。風邪をひかないように湯浴みをさせることは確定事項のようで、共感しながらも折れてくれる気配はない。
髭が僅かに触れるようになった顎を撫でながら思考を巡らせていた不死川様はパッと顔を上げた。
「じゃあ一緒に入れば解決すんじゃねぇか」
なぜもっと早く考えつかなかったのか、というようにキョトンと不思議そうな顔をしていた。目元から余計な力が抜けたからかいつもより幼く感じる。
──この時の私は、不死川様があまりにも子どものように純真さを感じられる表情でお話された為これが最善だと思い込んでしまったのだ。
「……何の解決にもなってねぇじゃねぇか」
湯を頭から被ったことで冷静になった不死川様は、何の解決にもなっていなかったと数分前の自分の提案を思い出して頭を抱えた。声が僅かに反響した。
不死川様の呟きで我にかえった私はというと、不死川様のお身体を視界に入れないよう風呂場の一点を見つめることに専念していた。
「誰だよ一緒に入れば解決とか言ったのはァ……」
不死川様が背後でしゃがみ込む気配がした。傷跡も残る両膝が、左右の視界に入り込んできた。
振り返ってはいけないと自分に言い聞かせる。振り返れば足の間にぶら下がっている不死川様のソレと対面してしまう。
「俺だァ」
自分がした問いかけに力ない声で答えた不死川様は深いため息をついた。心臓の動きが速くなり普段の体感とは異なっていた為、数秒だったかもしれないが、時間をおいてから決心がついたように動き出した。
湯船のふちに湯が押し寄せる音がした。その直後に背後で滝壺の前にいるかのような音がして、私の背も僅かに濡れた。恐らく不死川様が頭から湯を被ったのだろう。
「息止めとけ」
その声にハッとして口を閉じる。それを確認してから不死川様は私の身体にも湯をかけてくれた。
濡れた毛が身体に重くまとわりつくのを感じた。視界を遮るように垂れ下がってきた毛を煩わしく思っていたら、背後から手が伸びてきてそっと払ってくれた。
「いい子だ」
大人しくしていたからか、それとも上手に息を止められたからか不死川様は幼子にいうような優しい声で褒めてくれた。
「少し待ってろォ」
石鹸の匂いが広がってきた。寝所でよく嗅ぐ香りだ。すぐそばで使用しているためいつも以上に強く匂いを感じた。嗅ぎ慣れた香りだというのになぜだかドギマギしてしまう。
「足滑らせんなよ」
いつの間にか身体を清め終わったらしく、気をつけるように忠告をしてから湯を汲んだ桶の中に入れてくれた。なるべく見ないようにしてくれているのか、湯船の中に浸かった不死川様はぼんやり遠くに視線を向けていた。
「出たくなったら声かけろ」
そう言うと目を伏せてしまった。相当お疲れなのだろうか。このような面倒をかけてしまって申し訳ない気持ちもあったが、同時にその横顔の美しさに感動していた。
濡れて額にへばりつく感覚が煩わしかったのか、前髪が後頭部に向かって撫でつけられている為いつもは隠された額がよく見えた。
お湯をかける際に予告してくれるだけでなく、水が入らないようにと耳を押さえてくれた。とても配慮が行き届いた介助に心地よさすら感じつつあった。その為か時折首がかくんと前に揺れて、瞼はゆっくりと落ちてきた。
「風呂の中で寝んな」
前足から力が抜け、顔を湯に突っ込む事態になった。
驚きからバシャバシャと水面を揺らしていれば、両脇に手が差し込まれて救出された。不死川様が抱き上げてくれたのだ。長い毛をつたってボタボタと水滴が落ちる。
「一人で入らせなくて正解だったなァ」
近くにあった手ぬぐいを自分の肩のにかけると、その上に私の身体を乗せてくれた。
不死川様が案じていた通りになってしまった。これ以上迷惑をかけるわけにはいかない、大人しくしていようと心に決めると不死川様の肩口に身体を預けてじっとしていた。
「今日は大人しくしてんじゃねぇか」
話が読めずに首を傾げていたが、「前にもあったろォ、こういうの」と付け加えてくれた為ようやく理解することが出来た。ただの猫だと思われていた時に一緒に湯浴みしたことがあった。
肌が密着することに恥ずかしさを覚え、どうにか逃げ出そうと暴れたのだ。その時のことを言っているのだろう。
「……元に戻ったら鬼殺隊を辞めろォ」
あまりにも突然話が変わった。
これがもし厳しい口調だったならば言葉の意味をそのまま受け取れば良いだけなのだが、弱々しいとも感じられる口調であった為どう解釈して良いのか分からず困惑してしまう。
命令というよりは懇願と捉えた方が自然にも思えた。
「脳みそ煮えてんのかよ……今のは忘れろォ」
らしくない言動を取った自覚があるのか自嘲気味に呟くと、自ら話題を終わらせ私を抱えて風呂を出た。
床に降ろさせると、手拭いを上から被せられぐしゃぐしゃとかき混ぜられた。
「こんなもんか」
解放された頃には床にこてんと転がってしまっていた。
先程の不死川様の言動について考える。もちろん質の低い隊士というのは歓迎されないが、人手は確保したいはずだ。階級を考えると私の実力はそれなりに評価されていた為、実力不足が理由で辞めるように言われたとは考え難い。
不死川様はいまどのような表情をしているのだろうか。確かめたくて、もぞもぞと手足を動かして被せられていた手拭いから顔を出す。
褌の端を肩に乗せ、もう足の間に通したもう片方の端をひねり腰に巻きつけていた。
こちらに背を向けられている為、私の視界に入るのは引き締まった不死川様の臀部だ。
ねじって紐状にした褌をちょうど尻の割れ目あたりで交差させる。日常的に身につけているものである為手慣れているのは当たり前だが、ただの縦長の布があまりにも簡単に褌へと形作られていく。
前の膨らみ部分を僅かに持ちあげて位置を直した。直接拝見したことはないが、膨らみから常人よりも大きいことが窺える。
割れ目部分にある結び目に指を突っ込んで軽く調整してようやく完成したようだ。肉体の美しさも相まって芸術品のようだ。
「……見せもんじゃねぇぞ」
着流しが肌を隠していく。腰紐を結んでいた不死川様は背を向けたまま、見せ物ではないと忠告した。
背後から向けられていた視線に気付いていたのだ。無意識だったが着替える姿を盗み見てしまったのだ。以前にも同じようなことをしたというのに学習していない己を心の中で叱責しながら、地面に額をこすりつける。失神しなかったのは成長と言えよう。
「せっかく綺麗にしたのに汚れんぞ」
土下座のような姿勢の私の前にしゃがみ込んだ不死川様は婉曲な言い回しではあったものの面を上げるように言ってくれた。
着流しの裾が開いてしまっていて中の褌がちらりと覗いていた。上体が前屈みになっているため着流しと身体の間に隙間が生まれ、胸元も見えてしまっている。色素が全体的に薄い為か胸の先端は淡い桃色をしていた。
「こんな身体に興味があるとは物好きなやつ」
開いた着流しの隙間から手を差し込むと、胸元を横断するように残る傷跡を指先でツーっと撫でた。血流がよくなり桃色に染まった胸元と、伏せられた瞳、しっとりと濡れた肌、全てが扇情的だった。
全身の血が沸き立ち、そして頭からサーッと引いていくのを感じた。幕引きのように世界が暗転していくのを感じた。
◇◇◇
そよそよと風が頬を撫でた。風でひげが揺らされるこそばゆさで目を覚ました。
「ようやくお目覚めかァ?」
頭上から不死川様の声がした。気を失った私を脚の上で寝かせてくれていたようだ。心地よい風は不死川様が団扇を扇いでおくってくれていたのだ。
それほどまでに長い時間意識を飛ばしていた訳ではないようで安堵した。
「辛くなる前に言え、のぼせてぶっ倒れられた方が迷惑だ」
失神した理由が長時間湯に浸かっていたことだと考えたようだ。その勘違いは私にとって好都合でしかない為、訂正をせずに素直に頷いた。
「何かして欲しいことは?」
心配してくれているのだろう。元来の性質なのか、不死川様は我儘を言われても苦と感じないようだ。むしろ我儘に付き合うことを好んでいるようにも見える。安心してもらう為にも何か不死川様に頼めることはないかと思案する。
室内を見渡していれば宝物を入れた木箱が目に入った。不死川様が贈ってくれた櫛で毛を梳かして貰うのはどうだろうか。脚の上からぴょんと飛び降りると、木箱が置いてある箪笥に登る。
「開けて欲しいのかァ?」
箪笥の前までやってきてくれた不死川様は私の動きから木箱の中身に用があるのだと察してくれたようだ。開けてもらった木箱に顔を突っ込み、櫛を咥える。じっと視線で訴えかければ櫛を受け取り、そっと抱き上げてくれた。
「綺麗な毛並みしてんな」
脚の上に乗せて毛の流れにあわせて櫛を梳かしてくれていた不死川様は手を止めて、慈しむような手付きで私の身体を撫でてくれた。
綺麗な毛並みでいられるのは不死川様のおかげだ。少しでも感謝の気持ちが伝われば良いと、厚い手のひらに頬を擦り寄せる。振り返れば柔らかな眼差しをした不死川様と目があった。
「戯れるならもう仕舞いにしちまうぞ」
気恥ずかしさをどうにか誤魔化そうと、脚の上に転がり両腕で不死川様の手を挟み込む。腕の自由がなければ梳かすことが出来ないという不死川様に、もう十分だと鳴き声で返事をする。
姿勢を正し、頭を下げる動作で感謝を伝えた。脚の上に乗っていることには目を瞑ってもらいたい。頭を撫でてくれた不死川様は文台の上に櫛を置くと、そのまま後に倒れ込んだ。
「……眠いか?」
仰向けに寝られた為てっきり昼寝をするのかと思い、定位置である腹の上に移動したのだが、どうやらただ寝転んだだけのようだ。
「雷が怖いなら今のうち寝とけ」
眠くはないと首を左右に振って問いに答えたが、不死川様は寝かしつけるように私の身体を撫で始めた。雷の音に怯えてひとりでは眠れないだろうから、自分が屋敷にいる間に仮眠を取っておけということなのだろう。
「さっきの話だが……」
不意に不死川様が話しはじめた。身体を伏せて寝る体制に入っていた私は耳の向きだけ変える。
「アンタは鬼殺よりも、優しい男と一緒になって家庭を築け。その方がお似合いだ」
穏やかな声だったが、私を遠ざける意図を持って口にした言葉だと分かる。
懐に入れた人にはとことん優しい人なのだろう。鬼殺隊にいれば苦しく悲しい出来事は数え切れないほど経験する。遠ざけようとするのは、私の幸せを心から願ってくれている証拠だ。
「こっちがいくら距離を取ろうとしてもいつの間にか懐に入って来やがる……アンタならすぐに相手も見つかるだろォ」
しかしそのような優しさなど要らない。自分が思っていた以上に苛立っていたのだろう。私にとって耳障りな言葉ばかりを放つ不死川様の唇に噛み付いていた。
「は……」
滲んできた血を舐めとる。驚いたのか抵抗を忘れ、見開いた目でこちらを見ていた。
私の気持ちを思い知れば良い。腹の奥で渦巻いていた感情が放たれていく感覚がした。