「何して……」
ようやく聞こえてきた声は掠れていて不死川様の動揺を表しているようだった。畳に片手をついて上体を起こした為、胸元からぴょんと飛び降りる。
「おい、こっち向け」
私の名前はそのようなものではないとわざとらしく背を向ける。尻尾の先で畳を叩いていれば、「名前」と私の名を呼ぶ声がした。ゆっくりと振り返る。
不死川様の唇はじんわりと血が滲んでいて、少しやりすぎてしまったと胸をちくちく突き刺すような罪悪感が生まれた。しかし頬に手のひらが添えられ、親指が口元に伸びてきたことで罪悪感などという感情は吹き飛び、期待に満ちた胸は高鳴った。
「……出掛ける」
唇に触れてくれるのではないかと期待していた私は、スッと立ち上がった不死川様に驚いて目を丸くする。
怒らせてしまっただろうか。拒絶されてしまうのではないかという不安から部屋を出て行こうとする不死川様のあとを追えずにいた。
「任務だ」
廊下に出たところで足を止めた不死川様は任務に行くだけだと話した。障子の向こう側が光り身体をぴくりと跳ねさせてしまう。
ちらりと不死川様がこちらに視線を向けられた。これから任務に行くというのに私がこの様子では優しいからのことだ、不安に思われるだろう。気丈に振る舞ってみるが尻尾だけは思い通りに動かず、身体の下に隠れていた。
安心して貰えたのか不死川様は廊下に出ると静かに障子を閉めた。足音が遠ざかっていく。
鬼に両親を殺されてからは夜に生きてきたというのに、今は夜が怖い。この身体では何もできない、誰も守ることができないというのに、夜はそのようなことお構いなしに残酷なほど強い力で幸せを呑み込まんとしている。
文台の下に潜り込み小さくなっていれば、閉じられていた障子が勢いよく開かれた。この短時間で着替えてきたのか隊服姿の不死川様が先ほどまで着ていた着流しを腕にかけて入ってきた。
なぜかそのまま押し入れに向かい、中に積まれている布団の上に着流しを乗せた。
「……こっち」
しゃがみ込んだまま身体を横に向けた不死川様は私に視線を向けながら布団の上をぽんぽんと叩いた。外が光っていないことを確認してから駆け寄る。
「少しはマシになるだろォ……好きに使え」
ここで寝て良いということだろうか。恐る恐る布団に登ろうとすれば、不死川様が押し上げてくれた。布団と着流しの間に潜れば僅かに雷鳴が遠く感じた。
「すぐ戻る」
自由に出入りできるよう押し入れの戸を半分だけ閉じ、不死川様は任務に向かわれた。鬼は陽光が降り注がない場所であれば昼夜問わず活動できる。今日のようなまだ夕方だというのに太陽が雲に覆われた日は鬼にとって好都合だ。
不死川様が強いことは知っている。以前の私であればあのお方であれば大丈夫だと安心する気持ちの方が強かったが、今は不死川様に何かあるのではないなと不安の方が強い。
先程まで不死川様が身に纏っていた着流しはほんのり温かい。少しでも暖を取れるようにという配慮なのだろうか。とても心を落ち着かせた。
「随分と寛いでんじゃねぇか」
誰だ私の眠りを妨げるのは。この声が不死川様でないことは確かだが、どこかで聞き覚えがある。
落ちてきそうになる瞼をどうにか持ち上げて声が聞こえてきた方に視線を向ける。
「ようやくお目覚めか?」
宇髄様がなぜここにいるのだ。
「つーか、地味な寝床だな。狭ぇし」
そしてなぜ貴方までもが押し入れの中で寛いでいるのだ。
突っ込みを入れたい部分はたくさんあったが、宇髄様が入ってきたことで随分と手狭になった押し入れから這い出る。
「狭すぎて肩凝ったわ」
私の後に続いて押し入れから出てきた宇髄様は、肩のあたりを揉み解しながら不満をこぼす。肩が凝ったのは自分の行動のせいだろう。
体格が良い宇髄様にとって押し入れは足を伸ばすことも、寝返りも打つ事もできず窮屈でしかないはずだ。なぜこのような場所に入ったのか、その理由を問いたい。
「不死川はまだ帰ってねぇか?」
いつものように並べられた布団は乱れた様子がないしまだ帰宅されていないのだろう。何か急ぎの用でもあるのだろうか。いないということを首肯してから、どのような要件なのかと首を傾げる。
「いや、アンタに用があって来たから問題ねぇよ。寧ろ好都合」
動きから読み取ってくれたことに安堵すると同時に、私に用があると言ってにやりと意味ありげな笑みを浮かべた宇髄様を見て嫌な予感がした。
「お悩み相談に乗ってやろうってんだ、感謝しな」
逃げ腰になっていることに気付いたのか、私の身体を抱きあげて逃亡を阻止された。上官相手に抵抗できるはずもなく観念して抵抗をやめる。
「聞き分けのいいやつは嫌いじゃねぇぜ」
猫の姿をした人間であることを理解しているのか、いないのか。宇髄様は私の背中のあたりに顔を埋めている。
宇髄様には奥方様がいらっしゃったはずだ。この状況はあらぬ誤解を招く。身体を捻って振り返れば、宇髄様はこちらをじっと見つめてきた。居心地の悪さを感じながらも見つめ返していれば、フッと息をもらしたのを皮切りに宇髄様はゲラゲラと笑いはじめた。
大きな手が顔に近づいてきた。何だろうと警戒して上目遣いになっていれば、顎をすくいあげられ上を向かされた。
「派手にやり合ったみたいだな」
そう言うと宇髄様は指先を私の唇に当て、拭うように動かした。「これ落ちねぇわ」と言うと手を止めた。
「つーかアイツに噛み付いてよく生きてたな? 派手に弔ってやろうと思って来たんだがとんだ無駄足だったな」
不死川様に噛み付いたことをなぜ宇髄様が知っているのか。伝わるはずもない猫語でその理由を尋ねれば、宇髄様は私の眼前に指を突き付けた。
先ほど私の唇に触れていた指には赤く血がにじんでいる。不死川様が唇に怪我をしていることに気付いた宇髄様は何かあったのだと察して屋敷に足を運んだようだ。
楽しげに目元を細める宇髄様はわざとらしく肩を落とした。
「おっ、ようやくご主人様のお出ましだな」
ちらりと視線を廊下の方に向けた。随分と早いお帰りだ。不思議に思って視線を向ければ、障子が勢いよく開かれた。
「……事後処理を人に押し付けてさっさと帰ったと思ったらこんなとこで油を売ってるとはなァ?」
こめかみあたりに青筋を浮かべた不死川様が立っていた。
どうやら合同任務であったにも拘らず、宇髄様は報告や隠への指示などを不死川様に丸投げしてこちらに来たようだ。不死川様が激昂するのも無理はない。その一方で宇髄様は気にした様子もない。
「飼い猫がくたばってねぇか様子見にきてやったんだ、感謝しろよ」
「くたばるって何の話だァ」
「派手に喧嘩しただろ?」
子どものような反応をする人だと思う。不死川は青筋を浮かばせながらも、引っ掛かった単語について尋ねた。
喧嘩と言われて少し考え込むような様子をみせた後、思い当たる出来事があったのか不死川は顔を紅潮させた。
「俺に言わせてみりゃ、上官に噛み付くアンタもどうかと思うが、噛みつかれるようなこともした不死川も不死川だぜ」
やれやれといった様子で肩を竦めると、宇髄様は小言をこぼした。心配してきてくれたというのは本当なのだろう。
「……テメェには関係ねぇだろォ」
「そう邪険にすんなよ、これでも心配してんだから。なぁ?」
そっぽを向いたまま不死川様は関係がないと言って宇髄様を突き放した。宇髄様は私を自分の目線のまで持ち上げると、顔を近づけた。
鼻先が触れるよりも先に何かが遮った。
「……こいつと俺の問題だァ」
「あぁー、なるほどそういう感じな?」
不死川様の手が私の口元を覆っていた。これ以上首を突っ込むなと言外に含ませた不死川様は私の身体を抱き寄せた。宇髄様はすんなりと手を離すと、楽しげに目元を細めにやにやと笑った。
「口吸いして流血騒動とは、お熱いこった」
「うっせぇよ」
全てを理解してしまったようだ。意気揚々と揶揄う宇髄様に不死川様は苛立った様子で返した。
「邪魔者は退散するからあとはごゆるりと」
程よい引き際も理解しているからこそ宇髄様を憎むことができないのだろう。音もなく姿を消した宇髄様は気まずさだけを置いていった。
大きな溜息が聞こえてきた。下世話な話は好まないように見えるし、あのような揶揄われ方をして気分を悪くさせてしまったのではないか。
感情のままに噛みついた過去の己を恨んだところでこの状況が変わる訳ではないと分かっているが、恨まずにはいられない。しかし次に聞こえてきた声は想像していたよりも柔らかいものだった。
「何もされてねぇだろうなァ」
口は不機嫌そうに曲げられているが、心配してくれていることは温かな眼差しから伝わってきた。何もされていないと頷き返せば、不死川様は私を顔の位置まで持ち上げた。
視線が交わった。初めてみたような熱っぽい瞳だった。
「早く元に戻りやがれ、やられっぱなしは性に合わねぇんだよ」
鼻先を擦り合わせると不死川様は恨めしそうに呟いた。人間に戻った時にはその言葉の意味を尋ねても良いのだろうか。