地面が大きく揺れた。地震か──うつ伏せの状態から、素早く上半身を起こして周囲を見渡す。
「暴れんな」
目の前に広がる光景に私が人間であれば「は?」と間抜けな声を出していたことだろう。しかし現在は猫であるため「ニャ」と短い鳴き声をあげただけだ。目の前に立派な腹筋があったのだ。
「くすぐったい」
不死川様が僅かに身動いだ。どうやら寝ぼけた私が布団と間違えて不死川様の着流しの中に潜り込んでしまったようだ。前方がかなりはだけ、引き締まった腹筋と隆起した胸筋が覗いている。寝起き特有の掠れた声で、腹筋の上で動いたことを窘められた。
慌てて不死川様の上から降りようと動けば、腕の下に手が差し込まれ、ゆっくりと床に降ろされた。
「元気なのはいいが、お転婆しすぎて傷悪化させんなよ」
頭を軽く撫でた不死川様は布団を几帳面に畳み、そのまま部屋を出た。どうするべきか分からずに私は畳の上に腰を下ろす。
この姿で名字名前だと分かってくれる人物は居ないだろう。家族などの親しい人物がいれば別だったかもしれないが、鬼に家族を奪われ、頼りになる相手はいない。
このまま外に出て、自分なりに調査をすることは可能だがこの小さな身体では寒さに耐えられるかという不安がある。かといって恐れている人物と共に過ごすなど、ストレスから毛が抜けてしまう。その範囲は銅貨には収まらず、全身の毛がごっそりと消え去るだろう。
同じ柱であっても不死川様は怖すぎる。私もそれなりに階級が高いため、柱の方と合同で任務に当たることもある。個性的ではあるものの、穏やかな方が多い。
不死川様とも一度だけご一緒したことがあったが、力が弱い、体力がない、感情的になりすぎなどと鬼のような形相で叱責された。柱の中で最も苦手な人物だった。
不死川の野郎──と当時のことを思い出して悪態をつきたくなったが、相手は敬うべき柱であること、実際に実力も伴う人物である為なんとか心を落ち着かせる。
どうしようか──畳の上を行ったり来たりしながら思案していると、腹を刺激するような香りが何処からともなく漂ってきた。
朝の冷たく張り詰めるような空気を感じながら、縁側を歩き匂いの元を探る。肉球から夜の冷え込みの名残りを感じながら廊下を歩いていれば、厨に辿り着いた。
着流し姿の不死川様が忙しなく動いていた。気配を隠すことは出来ないため、近くにいることには気付いているのだろう。特に何も言われない為、ぼんやりとその後ろ姿を眺める。
立ち姿からは随分と慣れていることが窺える。料理するんだ──と初めて知る不死川様の姿に感動のようなものを覚える。
魚が焼ける匂いと、味噌汁の匂いだ。昨夜から何も口にしていない為身体は限界を訴えている。
おこぼれに預かれないかと淡い期待を抱き、不死川様に近寄ろうと段差を降りた。
ベチャっと痛々しい音がした。鼻をぶつけ、そのまま前転のような形で地面に身体を投げ出した。四足歩行に慣れていないのだ。着地に失敗し、石畳の床に転がってしまった。
視線を感じる。猫の癖に何やっているんだ──という思いを含んだ視線だ。
恥ずかしさから、慌てて一段高くなっている建物の下の空間に姿を隠す。不死川様は何事もなかったかのように厨に向き直った。
探されても困るが、こうもすぐに関心が向けられなくなるのも寂しい。女の人からはあまりモテそうにないな──と勝手に想像をする。
不貞腐れて、不死川様が立っている方向とは逆に身体を向ける。
建物の下は支柱が張り巡らされていて迷路のようだ。いま出ていくのは恥ずかしい。しかし床下の空間は一段と冷え込んでいる。しかし雪が積もっているよりはマシだと言い聞かせ、歩き回る。
まずい。暫く歩き回ると来た道が分からなくなってしまった。屋敷の中に繋がっている出口は、おそらく先ほど入った位置のみだ。あとは一度庭に出なくてはいけない。
このまま彷徨い凍死するなど死んでも死に切れない。雪に触れたくはなかったが、腹を括り縁側の下から外に出ようと向かった。
積もった雪は高い壁のように立ちはだかり、行手を阻んだ。
己を奮い立たせ、果敢に雪に飛び込むがそのまま沈んでいった。誰にも踏まれていない雪は随分とふわふわしている。その為私の身体はずっぽりとハマってしまったのだ。
もがけばもがくほど周囲の雪が崩れ、身体を埋めようとしてくる。このままでは凍死してしまうと僅かに焦りを感じ始め、一段と激しく手足をバタバタさせる。
「……何してんだァ?」
呆れたような声が頭上から聞こえると共に、身体がふわりと宙を浮いた。不死川様だ。
どうやら先程の様子も見られていたようだ。恥ずかしさから抵抗する気力もなく、首根っこをを掴まれたまま大人しくぶら下げられておく。
「こんな寒い日に雪に突っ込むとは相当な馬鹿なのか、死にたがりか……そもそも猫には風邪って概念がねぇのか?」
ひとりごちるように話しながら不死川様は丁寧に身体を手拭いで拭いてくれた。身体は猫だが、精神は人間のままなのだ。男性に身体を拭かれる恥ずかしさから手足をばたつかせれば、どうやら不死川様は私が不安定さを嫌がったのだと解釈したようで、赤子を縦に抱くような姿勢で抱き直した。
この状態で暴れれば彼の肌を傷付けてしまう。そのようなことを危惧して身体の動きを止める。
障子を開けるとふわりと焼き魚の香りが漂い、鼻腔をくすぐる。小さな食事台の上に白米、焼き魚、味噌汁が並べられている。
床に降ろされた私は食事台の前に腰を下ろす。
食事を用意してくれるなど不死川様も優しいところがあるのね──と感心しながら箸に手を伸ばそうとすれば、身体が掬い上げられた。
「テメェはこっちだ」
身体を端に寄せられ、食事台の前には不死川様が腰を下ろした。何て酷い仕打ちをするのかと憤慨したが、口から漏れ出た声から自分が猫になっていたことを思い出した。
すっかり人間気分だったが、猫の姿に変えられているのだ。腹と背中がくっついてしまいそうなほど空腹だが、猫が食べられるものも分からない。鼠でも捕まえて食べれば良いのだろうか。そのようなことを考えていれば、目の前に小さな皿が置かれた。
「よく噛めよ」
焼き魚だ。不死川様と目の前に差し出された食事を交互に見ていれば、食べるようにと促された。
隣で不死川様は「頂きます」と小さく口にしてゆっくりと食事を摂り始めた。ニャという音だけで構成された頂きますという挨拶をしてから私も食事に口を付ける。
皿に顔を入れることには猫とはいえ抵抗があったが、昨夜から何も口にしていないこともあり空腹に堪え兼ねて勢いよく食べ始めた。
魚はほぐされ、しっかりと骨が取り除かれている。ちらりと不死川様の食事台を見れば、魚の開きの4分の1程度がなくなっている。分け与えてくれたのだろう。
「がっつき過ぎだ……誰も取りゃしねぇからゆっくり食え」
猫の姿の食事に慣れず、鼻先を随分と汚してしまったようだ。静かな口調で安心させるようにそう告げられる。ちらりと視線を向ければ、不死川様は眉間のしわも弛み穏やかな表情をしていた。
皿の隅まで舐めていれば、ほぐされた魚が皿に追加された。不死川様は既に魚以外の全てを完食していた。
どうやら先程の量で足りなかった場合に分け与えられるよう、焼き魚に味付けをせず残していてくれたようだ。
「……食え」
私は好物を一番はじめに食べてしまう子どもだった。そんな私の為に、姉はわざと最後まで残しておいてくれて、お腹いっぱいだから食べてと言ってくれたのだ。
不死川様の行動に既視感を覚え、懐かしむように目を細めた。じっと食事を見つめたまま動かない私に不死川様は食べるように促した。慌てて口をつければ、フッと息を漏らして笑う気配がした。
「飯の前で待てをするなんて犬なんじゃねぇだろうな?」
本当に犬だと疑っている様子ではなく揶揄うような口調だった。ただ考え事をしていただけだったが、食事を目の前に佇む姿は、食事の許可を待つ犬のように従順で健気に見えたのだろう。
まぁ中身は人間なので──と心の中で付け足すが、不死川様に伝わるはずもない。ごちそうさまでしたと口にするが、やはりニャという音の連続にしか聞こえない。
「お粗末様でした」
しっかりとやり取りが出来ていた。言葉が通じたのではないかとパッと弾かれるようにして不死川様を見る。
「人間くせぇな」
皿を食事台の上に戻された。首の外側を掴まれ、身体は振り子のようにゆらゆらと宙を揺れた。
もしかして私が人間であることに気づいてくれた?──と期待と緊張から口に溜まった唾液を飲み込む。
「まぁ偶然か……猫と人間が意思疎通なんざできる訳ねぇし」
猫の姿での食事には慣れず、口許を汚してしまっていたのだろう。不死川様は手拭いで丁寧に拭いながら自分の考えを否定した。
私が人間であることに気付いたのではなく、人間のような仕草をするという意味だったようだ。やはり血気術で猫になるなど聞いたこともなければ、誰も想像しないだろう。
このまま誰にも気付いてもらえないのでは──嫌な考えが頭をよぎる。鬼を倒すことができれば血気術も消えるだろう。しかし今の身体では倒すことは難しい。誰かが倒してくれるのを待つことしか出来ない。
治療をして貰えれば良いが──と考えたところで一人の隊士の姿が思い浮かんだ。鬼殺隊を支える柱の一人である胡蝶しのぶ様は医学に精通している。彼女に会えば何か打開策が見つかるかもしれない。
まずは蝶屋敷に向かい、胡蝶しのぶ様にお会いする。これからの行動を決めると、面倒を見てくれた不死川様に感謝の気持ちとお別れの挨拶として、手に身体を擦り寄せ甘えてみせた。
「邪魔だァ……」
身体をポイとそのあたりに放り捨てられる。畳の上に転がされた私はジタバタと身体を起こす。
恥を忍んで猫らしく振る舞ったというのに、こんなにも可愛らしい猫を放り捨てるなんて。血が通っていないのではないかと心配になる。
不死川様は畳に転がった私を一瞥すると、そのまま部屋を出た。
こんな所すぐに出て行ってやる──そう心に決めると、畳をガリガリと引っ掻き、溜飲を下げた。