次第に強さを増した風は、今ではあたりの民家の戸をガタガタと揺らしている。そこに雨も降り始め、私は完全に足止めを食らうことになった。
民家に上がることも出来ず、地蔵様が並ぶ小さなお堂の中に身を隠した。雨は次第に雪に変わっていき、お堂を白く染めた。
夜の気温は濡れた身体から一気に熱を奪っていく。猫のように身体を小さく丸めてみるが、あまり意味はないように思う。
自分でも見惚れてしまうほど美しい白い毛は今や見る影もなく、泥で薄汚れている。丁寧に巻かれた包帯は水分を吸って重たくなっている。
竈門くんに訳を話して蝶屋敷に連れて行ってもらうべきだったか。煉獄様と共に行くべきだったのだろうか。
心残りといえば、このような事態を引き起こした鬼の頸をこの手で落とせない事。不死川様に恩返しと、嫌味を返せない事だろうか。
朝に出してくれた魚は美味しかった。出来る事ならばもう一度食べたい。
煉獄様のように優しさを真っ直ぐに向けてはくれないが、不死川様の行動には全て隠れた優しさがあった。不器用な人なのだろう。
打ちつける雨の音とは別に、弾くような音が聞こえた。冷たくなりつつある身体を誰かが撫でた。
「……生きてるかァ?」
声だけで分かる。不死川様だ。重たくなった双眸をゆっくりと持ち上げると、御堂の前にしゃがみ込む不死川様の姿が目に入った。
足袋にも隊服の裾にも泥が跳ねている。この雨の中走ったのだろうか。傘をさしているという事は任務の帰りに偶然見つけたという訳ではないのだろう。
「勝手にくたばってんじゃねぇぞ」
ぶっきらぼうに伝えられた言葉だったが、内容は突き放すようなものではない。抱き上げる手つきは壊れものを扱うように、とても優しく丁寧だった。
不死川様はただ偶然助けただけの猫に情を持つような人物ではないと思っていた。傷の舐め合いをすることを嫌い、鬼を滅殺するという一つの目的の為に一人で進む事ができる孤高の存在だと思っていた。しかし実際には雪が降る中私を迎えに来てくれた。
不器用で優しい人なのだ。小さく鳴き声をあげれば、「あぁ」と不死川様は相槌を打つかのように返した。たった一音で構成され、何も意味も持たない言葉だった。しかし声色や表情から彼が向けてくれる優しさを感じ取ることができ、私にとって意味のある言葉に変わる。
「泥だらけじゃねぇか。どんな大冒険したんだァ」
不死川様は懐から乾いた手拭いを出した。手拭いで私の身体を包むと、その上から自分の羽織を被せた。
私の身体は随分と汚れている。彼の強い意志が込められた羽織が汚れてしまう。
「暴れんな、大人しく簀巻きにされとけ」
抜け出そうと抵抗をしたが、不死川様は気にも留めずに自分の懐の中に入れた。隊服の中はとても暖かい。
「少し揺れるが目ェ回すなよ」
そう言うと不死川様は地面を蹴り、走り出した。隊服の中に差し込まれた手が、揺れないようにと身体を支えてくれる。
走り方にも気を遣ってくれているのか揺れも小さかった。
私が二日をかけて歩いた道を、不死川様は十数分で行った。屋敷に戻ると、懐から出される。しかし簀巻き状態からは解放してもらえず、抵抗もできずに不死川様に連行される。
扉の隙間からもれ出す暖かな湯気に嫌な予感を強くさせた。そして背後では衣類が擦れる音、床に脱ぎ落とされる音がした。
簀巻き状態で連行された先というのは風呂だった。そして連行した張本人である不死川様は何も身につけていない。
なるべく不死川様のいる方を見ないように背を向け、どこか遠い国にに思いを馳せる。不死川様は私を風呂場の床に下ろすと、その背後に自分もしゃがみ込んだ。
「何回か洗えば取れるか」
耳に水が入らないようにと手で保護されながらも、頭から湯を掛けられる。泥で汚れた毛は、纏まり玉のようになっている。不死川様はその絡まりをなくそうと、指先で軽く髪の毛を梳かしてくれる。
お湯を掛けた事で僅かに泥が流れ、指通りが良くなったようだ。流れる湯が濁っているが何度か繰り返すうちに澄んでいく。
「尻尾には神経が集まってるんだったかァ?」
ひとりごとのように呟くと、不死川様は尻尾に触れた。尻尾の先を触れられるとくすぐったい。胴体に近づくにつれ、くすぐったさから、直接神経に触れられているような暴力的な快感に変わる。
「優しくしてやっから大人しくしとけ」
発情した猫の鳴き声は聞いた事があるが似たような声が口からもれそうになる。必死に堪えていると「まぁこんなもんか」と終わりを知らせる声が聞こえた。
「待ってろォ」
そう言うと不死川様はご自身の身体を清め始めた。流れる水の音からその姿を想像してしまいそうになるが、頭の中でお経を唱えて邪念を取り払う。
濡れた床から足が離れる。不死川様に持ち上げられたようだ。このまま風呂を上がるのだと思っていたが、予想は裏切られる。不死川様は私を抱えたまま湯に浸かったのだ。
「猫は水が嫌いだったか?」
湯は透明で何も隠してくれない。下半身を見ないようにと慌てて風呂をあがろうとするが、不死川様の手から逃れる事が出来ない。
終いには胸の上に身体を乗せられてしまう。鍛え抜かれた胸筋は常時硬い訳ではないようだ。
白い肌は変化がわかり易く、頬だけでなく胸のあたりまで紅潮している。
猫の姿だとはいえ中身は年頃の女だ。男性と共に湯浴みをするなどふしだらだ。不死川様の胸を踏み台にして風呂場から出ようとする。
「人間くせぇ癖に猫っぽさ出してくんなァ。そういう所は幼子と同じだな」
しかし不死川様は私の腕の下に手を差し込み、身体を固定してしまう。彼の目には湯浴みを嫌がっているように映ったのか、幼子と同じだと僅かに口許を弛めて笑った。
「風呂も気持ちいいだろォ」
手で支えられているとはいえ、足が地面から離れている状況に落ち着かない様子でいれば、不死川様は自分の肩口に私の腕をかけた。丁度肩に上体を預ける形だ。
身体を拭いてもらっている際にもあまり不死川様の身体を見ないように視線を逸らす。
「綺麗な面になったじゃねぇか」
着流しに身を包んだ不死川様は顔の位置まで私を持ち上げ、鼻先を合わせた。目許を柔らげた表情は我が子を見るかのように優しい。
手をつけた形跡がない夕餉が並んでいる。任務から帰り夕餉の支度をしたが、わたしの姿が見えないことから探しに出てくれたのだろう。
食事は冷めているがとても美味しく感じた。不死川様も私の食べっぷりを確認してから、箸を持った。
皿の隅まで舐め尽くしたところでちらりと不死川様の様子を窺う。なぜこれ程までに気にかけてくれるのだろうか。視線だけで伝わる筈もなく、不死川様は「足りなかったか?」と尋ねた。
空腹が解消されたことを伝えるために床に寝転がってみる。すると遊び始めたと判断したのか、皿を片付けてくれた。
不死川様のお屋敷は広い。寝所と食事を摂る部屋は別だし、他にも空いている部屋は多くある。
私は戸の隙間が空いている部屋を見つけると、するりと入り込み、部屋の隅で丸くなった。疲れていたのかすぐに瞼が重くなり、身体から力が抜けていく。
荒々しく戸が開けられた。舌先を鋭く打つ音が聞こえた。
「知らねぇ所でくたばられるのは夢見が悪りぃだけだ」
誰に対してか分からない言い訳めいた言葉を呟いている。目を開ける事が億劫で、耳だけは不死川様がいる方向に向け、声を拾う。
「飼う気はねぇから、治ったら好きなとこに行け。……それまではここに居ろォ」
不死川様の気持ちはよく分かる。いつ死ぬか分からない身であるからこそ、無闇矢鱈と命を預かる事が出来ない。
しかし完全に突き放す事が出来ないのも、囲う事が出来ないのも彼が優しい人だからだ。感謝の言葉を沢山伝えたいが、伝える手段がない。彼はそのようなことも求めていないのだろう。
身体が抱き上げられる。私は尻尾を不死川様の腕に巻きつけ、「ニャー」と鳴いて返事をする。
「本当に分かってんのかよ」
呆れたような口調で悪態をつく不死川様に私はもう一度鳴いてみせる。
「返事だけは立派なもんだ」
フッと息をもらして笑う気配がした。その様子に嬉しくなり私は僅かに尻尾を揺らした。