死んでいるからか、走っても走っても自分の鼓動の音は聴こえない。息も上がらなければ足が疲れることもない。
「フーゴ!待って!フーゴ!」
ナランチャも疲れないのか走るスピードは速かった。しかし前を走る彼には追い付かないし、そもそもナランチャが前に行く気配もなかった。
「落ち着けナランチャ!」
「追い掛けてもしょうがねーだろ!止まれ!」
アバッキオとブチャラティはナランチャを追い掛けて同じくらいのスピードを出している。三人とも走るのは得意みたいだ。見れば分かる。
しかし前を走っている男の子は……少しだけぎこちなかった。たまに足が上がらないのか躓きそうになっている。
(懐かしい……)
彼が走る姿を見ていると何故か懐かしくて、思わず隣に並びたくなった。そもそもあのスピードだったら追い付ける。隣へ並べる。
「ブチャラティ!アバッキオ!」
私は二人の名前を呼んで開いていた間をどんどん詰めてゆき、二人の間へと割り込んだ。
「ちょっとあの子見てくる!」
顔を見たい。しっかりと、はっきりと。
私はそう宣言をすると、そのままナランチャを目掛けて突進するように走り出した。
「足はえーなおい!」
アバッキオのそんな叫びが聞こえたけれど、前に集中したいので聞き流して。手を激しい振り子のように振り始める。
(懐かしい感じ……)
懐かしいと言えば昔……そう、小さい頃だった。あんな感じの子を見た気がする。走りながら段々と、頭の中に隠れていた記憶が姿を見せた。
(さっき思い出したもう一人の子……)
さっき一度は思い出したあの子。あの走り方はあの子に似ているのかもしれない。
あの子は走る必要がない場所に暮らしていた。だからかどこかぎこちなくて、たまに転んで勝手に怒っていた。
(あの子はどんな顔をしてた?)
走ることよりも必死になって、似ているあの子を思い出そうとする。
あの子の髪の色は?瞳の色は?笑った顔は?
「シニーはやっ!」
ナランチャを越して、その華奢な背中を目掛けて進み続けた。
(確かいつも寂しそうだった。)
初めて見掛けたのはネアポリスの街で友達と走り回っていた時。大きな家の大きな庭で、一人で空を見上げていた。
まるで別世界にいるように思えた。窮屈そうにしているように見えた。
あと目はほぼ死んでいた。だから心配になって戻ってきてって声を掛けた。
(名前は……)
名前は、何だっただろうか。私は何て呼んでいた?
ナランチャを抜かして数秒で男の子に追いついて、私は走りながらその顔を覗く。
街灯で照らされた彼の顔は真っ赤で、そして金髪のキラキラした髪を乱しながら必死になって呼吸をしている。その瞳は怒っているような泣きそうになっているような……どう表現をしたらいいか分からないけれど、感情に素直と思えるろうな輝きを放っていた。
「フーゴもシニーも待ってよ〜!」
後ろからナランチャが、男の子と私の名前を呼ぶ。
(フーゴ?)
ナランチャはさっきも彼をそう呼んでいた。
(フーゴ……)
フーゴ……この子の名前はフーゴ。フの発音って難しくてウってついつい言っちゃうんだよなぁ……
「ウー……ゴ……」
思わず「ウ」で名前を呟く。そして不思議なのだけれど、そう呟いたら何故だかその発音が正しいのでは?と謎の思い込みが始まってしまって何度も何度も繰り返すように心の中で唱え始めた。
フーゴじゃなくてウーゴ、ウーゴ……
「いつになったら『フ』が言えるようになるんだ?きみは。」
「あ……」
そう、だ。
そうだ、そうだった。
「ウーゴ……」
あの子の名前は私にとっては「ウーゴ」。そして彼は、私にとってのウーゴ。
瞳の色は紫色。優しいけれどすぐ怒る。でも理不尽には怒らなくて、真面目だったあのウーゴだ。
名前を思い出して全てのピースが埋まった瞬間、私の足は段々と止まっていった。そしてウーゴが進む先を見るとそこは病院で、多分ここを目指して走っていたのだろう。そのまま中へと消えてゆく。
(何で?)
どうして、何で今こんな所で会えたんだ。いなくなった時にいっぱい捜したのに。何で?ずっとこの街にいたの?
「シニー?」
固まって遂には棒立ちをしていれば後ろを走っていたナランチャが追いついて、私の名前を呼んでくれる。
「どうしたの?大丈夫?」
いろいろと気持ちが入り交じって大丈夫ではない。そう言いたいけれど無理だった。言葉が口から出てこない。
「ナランチャ、シニストラ。フーゴは?」
更に追いついたらしいアバッキオとブチャラティがやって来て、私とナランチャにウーゴの行方を訊いてくる。
何か、言わないと。もう泣かないって言っちゃったから、泣かないようにしないと。
どうにかして頭を切り替えて、無理矢理笑顔を作って二人を見ないとおかしい奴って思われる。
「ごめん、見失った。」
しかし何とかして口から出てきた言葉は嘘だった。しかも何でそんなことを言っているのか分からないような嘘。並んで走っていたから普通なら見失わない。
「急に目にゴミが入っちゃってさ、止まって取ってたら消えちゃった。」
ああ最低だ。何言ってんだ私。目にゴミなんて入るわけないじゃん。だって死んでいるんだから。
「ごめんね、ごめん……」
そう、私は死んでいる。
死んでいるからウーゴを触れない。見つけたのにもうウーゴと一緒に話も出来ない。
「……多分あそこの病院だろ、ナランチャ、おまえはシニストラを頼む。」
「恐らく入院棟だな。診察は終わってる時間だ。落ち着いたらこっちに来い。」
「お、おう……」
段々と視線が下へと向いてくる。謝ってから数秒黙っていたら、アバッキオとブチャラティは病院の方へと消えていった。
やっぱりそうだよね。あんなバレバレな嘘、誰も信じないよね。だって病院しかないんだもん、目の前に。
「シニー……もしかしてフーゴのこと、知ってた?」
私のせいで残されたナランチャは私の目の前に立つと、手を伸ばして私の肩へと手を置いた。
「……うん、」
声を絞り出して何とか返事をする。でもナランチャを見上げる勇気だけは出てこなくて、顔を上げることは出来なくて。そのまま私は地面に体を丸めて座りこむ。
「ウーゴは……いなくなった友達……」
いなくなった理由は分からない。頭が良かったから他の国に留学しに行ったのかなって勝手に思い込んでいた。
「でも今まで忘れてた、ウーゴはいつの間にか頭から消えてた。」
忘れていた。中学校でいっぱい友達を作ったら、ウーゴはどこにもいなくなっていた。あの子を捜そうって思わなくなっていった。
「今ウーゴに会いたくなかった……」
思い出した途端に怖くなるなんてウーゴに失礼なことをしている。やっと見つけたのに。会いたくないだなんて思ってしまう自分が酷く情けない。
「まぁ……そういう気分の時ってあるよな。」
ナランチャは私の目の前に膝を突くと、丸まっている私に言葉を掛ける。
「オレもフーゴに怒られた時は顔見たくねーって思ったりしたもん。アイツすぐキレるしさぁ〜……まぁ大半オレが勉強も暗記もロクにできないからなんだけどさ。」
何か、ズレたことを言われている気がする。でも変に納得をしてしまう気もする。私もよく怒られたからかな……
「でもな、」
ナランチャはふふふと笑いながら、言葉を続けた。
「今は凄くアイツの顔が見たい。」
力強く、はっきりと。今の気持ちを教えてくれる。
「もう二度と触れないし言葉だって通じねー。けど見えるんだよ。生きてるアイツが。大好きだったフーゴがそこにいるんだ。」
ナランチャの言葉は真っ直ぐで、ぐさりと胸に突き刺さる。
「触れないしケンカだってできねーのは寂しいけどさ、それでいいんだよ!フーゴが笑っていればそれだけでいい!だから顔が見たいと思うんだ、楽しそーなアイツの顔が!」
ブチャラティの言う通り、ナランチャは死んだことを気にしていない。前向きで素直に受け止めていた。
「シニー、おまえフーゴのこと忘れてたって言ったけど思い出せただろ?」
ナランチャの両手がいきなり顔に伸びてきて、挟まれたと思ったら無理矢理下から上へと持ち上げてきて、彼の瞳と視線がぶつかり見合う状態へとなってしまう。
呆気にとられて変な顔をしていたと思う。けれど彼はおかしいって笑わない。寧ろ嬉しそう。嬉しそうに笑っている。
「覚えてたんじゃん!フーゴだったら絶対褒めてるところだぜ!」
ウーゴは思い出したことを褒めてくれる……そう言いながら、嬉しそうに笑ってくれる。
(褒めてくれるの?)
ウーゴは、ウーゴは褒めてくれるのだろうか。寧ろ何で今まで忘れていたんだって怒らないだろうか?よく分からなくて混乱をしそうだ。
「だから怖がらないで?フーゴを嫌いにならないで?」
そう言ってナランチャは今度は手を頬から背中へと移動させてくる。華奢だけれどちゃんとした男の子の腕で抱きしめてくれる。
「大丈夫、大丈夫……」
「嫌いにならないで」。きっとそれがナランチャが一番言いたいことなのだろうと思う。ナランチャはウーゴが大切で、きっと沢山頼りにしてきたのだと思う。だから、ウーゴは優しい人だから大丈夫だって、言いたいんだ。会っても怖いことなんてないって、言いたいんだ。
(知ってる……)
ウーゴがいい人なのは知っている。分からない問題があると分かるまで教えてくれた。沢山沢山励ましてくれた。遊びに負けるとすぐ怒るけれど、それは凄く自分に素直な子だったからだ。あんな子をどうやったて嫌いになんてなれない。
「ナランチャ、」
私は夜空を見上げながら、彼に自分の意志を伝える。
時間はない。あと三日しかない。それまでにちゃんと悔いが残らないように、遺してきたものをクリアにしていかないと。
「会いに行く。ウーゴに会いたい。」
もう逃げない。死んでたっていい。思い出したあの子に会いたい。
「うん、行こう。フーゴに会おう。」
二度と忘れないように、しっかりウーゴの顔を見よう。
ナランチャの腕が解けてお互いに立ち上がると、私達は病院の敷地内へと入ってゆく。ナランチャに連れられて病院の裏口から入院棟へと行けば、アバッキオがそこに立っていて、何も言わずに私達に背を向けるとそのまま中へと入り、私達を案内してくれた。
階段を上がって廊下に出て、歩き続けたその先にはブチャラティが立っていて……私達に気が付くと手を振って、ウーゴがいるらしい病室を教えてくれる。
私とナランチャ見合った後壁をすり抜けて中へと入り、そして、その場所にいるウーゴの背中を見つめた。見つければ私達はお互いにお互いを見合ってニッと笑った。
その部屋にはウーゴの他にも前髪が特徴的な金髪の男の子がいる。そして、窓際には見たことがない赤い帽子の男の人がいて、気まずそうな顔をしてウーゴの方に視線を向けていた。何か言おうとしても何を言ったらいいのか分からないみたいで、口を開いては閉じてを繰り返している。
「どうして、」
ウーゴの目の前には白いベッドがあり、その横には点滴が置いてある。多分今ベッドにいる人のものだろう。その先に管は繋がれていた。
私は気になってウーゴの横に立って、ベッドに寝ている人を見ようと首を伸ばす。
「何で……きみがこんな所にいるんだよ……」
ウーゴは苦しそうにそう言いながら、床に膝を突いて。そこにいる人へ話し掛けている。どうやら知り合いが眠っているみたい。その声音はどこか辛そう。
心配だけれどウーゴにそんな顔をさせる相手が気になって。私はその先のベッドで眠る人の顔を覗く。
そして、その相手を見て驚くのだ。
「えっ……?」
その目の前で眠っていたのは
「シニー……!」
目を閉じて眠る『私』だったのだから。
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