「狗巻くん!」
わたしの叫び声と狗巻くんの声が重なった。
突如トンネルの奥から大きな爆発音が轟いて、そこから吹き抜けてくる氷のような礫を含んだ強風。
わたしは狗巻くんの咄嗟の判断で、その腕の中にぎゅっと押さえ込まれて、氷が当たることは避けられたようだった。ただ、これが吊り橋効果というのか、先程の彼の近さと思ったりも硬い胸板にドキドキしすぎて正直わたしはそれどころではなかった。
風が止み、トンネルの奥からここに巣食う呪霊がその姿を現す。それは白装束を着た雪女のような様相で。どうりで寒いと思ったわけだ。
頭がズキリと痛む。あのぼんやりとしたふわふわとした気分もあの呪霊によるものだったのだろうか。どうにもここに入ってからの記憶が曖昧だ。
こめかみを抑えていれば、耳元で狗巻くんの囁き声が聞こえてくる。
「ツナ?」
「狗巻くん……もう大丈夫?」
パッと顔を上げて、彼の様子を確認する。狗巻くんも混乱しているみたいだった。自身の口元を押さえつけて、戸惑ったように視線が泳いでいる。狗巻くんは小さく言った。
「…しゃけ。ツナマヨ?」
「わたしも大丈夫だよ」
先程の彼の様子はいつもの彼とは到底言えるものではなく、今思えば呪霊の瘴気に当てられていたとしか考えられない。ちらりと盗み見た狗巻くんは、既にいつもの調子に戻っていて、奥にいる呪霊を冷ややかに睨みつけていた。
トンネルの中に悲鳴が響き渡る。
それを皮切りに、狗巻くんはくるりとわたしと自分の場所を入れ替えると、今度はわたしの両手をそっと掴んで、優しくわたしの耳に当てがった。
ぐ、と押しつけられて、彼の強い意志を悟る。
「…!」
呪言を使うんだ。
自分の耳を塞いで、わたしはコクリと頷いた。
離れ際にまるで名残惜しむように小さくぎゅ、と握り締められて、思わず狗巻くんの顔を見やったけれど、彼はもう呪霊のほうへ向いてしまっていた。
狗巻くんが呪言を放つ。凶器と化する自身の言葉を用いて戦う。わたしの耳は微かに、そして確かに地鳴りのように響くそれらを拾っていた。
終わってみれば呆気ないものだった。
狗巻くんの後ろで小さくなることしかできなかった。けれど、あれを止める力など、はなからわたしには備わっていないのだから、人質などにならなかっただけ良かったと思おう。
それより狗巻くんはわたしを庇いつつ、呪霊との戦いを無事に終えてしまうのだから、わたしはもう本当に彼に感謝するしかない。
しゅうと水の中に生まれは消える泡のように呪霊がその灯火を失ってゆく。負のエネルギーの集合体というのは、こんなにも儚く散ってゆくものなのだろうのか。わたしはふと里香さんを思い出した。
結果的にいえば、わたしが狗巻くんを追い抜いた、それが呪霊が出現する引き金となったようだった。
我先に逃げようとする心理。お化け屋敷や心霊スポットではよくある光景だと思う。そういった行動が引き金となって呪霊が出現することもしばしばあるようだった。
呪霊と遭遇してしまったが最後、死体が残ることさえほとんど無いという。特に、生得領域という強い呪霊の持つ領域に入り込んでしまえば、一般人がそこから生きて出ることはまず不可能。
狗巻くんは既知の事実だったと思っていたのだが、どうやら彼も知らなかったらしい。事前に言われた"前に出るな" というのは純粋に、自分が戦っている時にしゃしゃり出てくるなという意味のようだった。
トンネルを出ると、まるでずっとそこに居ましたと言わんばかりのとびきりの笑顔を貼り付けた五条さんが手を振っていた。
伊地知さんの車に寄りかかるその人は「おつかれサマンサー」と羽のように軽い労いの言葉でわたし達を迎える。
「変な気分になった?」
「しゃけ」
「いや、それだとちょっと誤解が生まれるような…」
本当にそういう変な気分だったのかもしれないけれど。個人的には、つい本音が口をついて出てしまうような、いつもはあるストッパーが簡単に開けられてしまったような不思議な感じだった。酔っている状態と言ったほうが近い気がする。
「もしかしたら生得領域に近いものか、そういう特性を持った呪霊だったのかもしれないね」
「生得領域…」
「君自身には何か変わったことはなかった?」
「わたしですか?」
特になかったような…と曖昧に返事を濁す。まさかわたしにも何か聞かれるとは。
正直あまり考えてなかった。というのもトンネルに入ってからの記憶が朧げなのだ。狗巻くんの気が変になったあたりから徐々に覚醒しているのだけれど、この部分の詳細を五条さんに話す気は更々ない。なぜなら嫌な予感がするから。
呪霊事故。観察対象。生得領域。
過去の出来事とともに知り得てきた言葉がぐるぐると脳内を回り続ける。それらには繋がりがあるようで、逆に個々に独立しているようで。眉間に皺を寄せる。回路に霞がかかったように思考が捗らない。色々あって疲れているのだろうか。
ふと、何か意味深な視線を感じてそちらを向くと、普段と変わらない表情の狗巻くんと視線が交わる。しかし、それは直ぐにすいと逸らされてしまって。彼のことだから何か言いたいことがあるなら言っているはずだけど。わたしはこてんと首を傾げる。
五条さんは「フーン」と聞いてきたくせにあまり興味があるのか無いのか分からないような反応を返された。
そうして、少しわだかまりが残った状態のまま、わたしの初めての任務同行は終了と相なった。
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