「だれ……?!」



ドンと幹が背中にぶつかった。

ぱっと風が吹いて、覆い隠す影は完全に解き放たれる。炎の光に縁取られた色素の薄い髪が、キラキラと煌めいていた。それはまるで、闇夜に燦然と輝くお月様のように。
こんな状況にも関わらず、この瞬間、わたしはその得体の知れない男の子に心を奪われていた。

彼は、コホと一つ咳をこぼすと、ぐったりと垂れ下がった首を持ち上げた。相当酷い目に遭ったのだろうか、煤だらけの顔は虚ろだった。

そこでハッと我に帰る。彼は一体誰だ。どくんどくんと心臓が鼓動を打ち始めていた。なぜここにいるのか。どうやってあの火の中を逃げてきたというのか。恐怖よりも困惑のほうが大きかった。ここは簡単に迷い込めるところではない。なにせここから近い町からでも歩いて数時間はゆうにかかるのだ。

彼はわたしと焦点が合うと、段々と正気を取り戻すように目を見開いていった。それでも動けずにいるわたしとは対照的に、男の子はわたしとの距離をずんずんと詰めてくる。

その険しい顔つきに気圧されて無意識に後退るけれど背には木があってこれ以上進めない。迫り来る鋭い剣幕に貫かれる。ひどく怖くて恐ろしかった。あと一歩でぶつかるという距離になって、わたしはぎゅっと目を瞑った。

何をされるか検討もつかなかった。
しかし、どれくらい経っただろう。咄嗟に身構えたのに反して、何もない。ごくりと息を呑んで、わたしは恐る恐る瞼を上げる。

煙で霞む視界の中に薄汚れた白いスニーカーを捉えた。それが目の前にいる男の子の靴だということは直ぐに分かった。お世辞でも綺麗とは言えない。それはわたしも同じことだった。

怪訝な心持ちのままゆっくりと視線を上げていけば、彼は片手をこちらへ伸ばして届く寸前で中途半端に固まっていた。わたしを映す深い色の瞳が動揺を隠せないと言わんばかりにゆらゆらと揺れる灯火を反射している。

節ばった厚い手が、触れそうで、触れない。今にも千切れそうな細い糸をお互いに引っ張っているような緊張感に冷や汗が頬を伝う。その手でわたしをどうしようというのだろう。寸前で止めたということは、迷っているのだろうか。

彼は何かを堪えるようにぐっと唇を噛み締めた。そこで、はたと気がつく。その口元の模様は煤汚れではなく、くっきりとした輪郭をもって肌に描かれているようだった。

分からなかった。彼が何をしたいのか。なぜそんなにも、悔しそうな、悲しそうな表情でわたしを見るのか。たまらずぎゅ、と胸が締め付けられる。わたしとこの男の子が陥っている状況は変わらないはずなのに。もしかしたら彼の中に映るわたしも彼と同じような目で彼を見ているのかもしれなかった。

しかしそれも僅かのこと。わたしが口を開く間も無く、今度こそはと伸ばされたその手にわたしの腕はぐいと掴まれた。彼の喉がゴクリと上下して、不思議な模様の繋がったそれが、動く。




「ツナマヨ!」




え、と、ぱちぱちと瞬きを繰り返していた。何を、言うかと思えば。こんな状況下では、まず使うことはないだろう単語が聞こえたような。しかし逸らすことなくこちらを見つめる眼差しは真剣そのもので。えっと、わたしの耳が聞き間違っただろうか。ツナマヨ……? だった、ような?



「え? な、なに…?」
「すじこ、明太子!」



やはり、聞き間違いなどではない。ぐいと腕を引っ張られるも、動揺して固まったように足が動かない。彼は何が言いたいのか。ツナマヨや明太子は、おにぎりの具? そんなこと言われても。混乱が加速するだけだ。
男の子はぐっとわたしの手首を掴む力を強めた。痛くて思わず眉間に力が籠る。まるで放す気はないと言われているようだった。

普通に話せないのだろうか。緊張した面持ちのその視線が何かを必死に訴えかけてくる。からかっているようには到底見えなかった。だけど彼のそんな様子がさらにわたしの心をかき乱す。

得体の知れない人に着いていくほどの度胸はない。かといってここにいても状況は変わらない。しかしここから離れるとしてどこに逃げようというのだろう。腕を引かれるままにこの人に着いていったとして、もう既に辺りは火に囲まれている。どうしようもないではないか。

ぐるぐる回る思考と切迫した状況に追い詰められてもう限界だった。



「ツナ!」
「いや!!」



咄嗟に叫んだ。嗚呼、薄暗いものに精神が侵食されていく。心臓が抉り出されるような苦しさに息もままならず、真っ逆さまに底なしの穴に落ちていくような錯覚に襲われる。絶望がわたしの自由を奪い去るのだ。彼の手を剥がしたい。今すぐに。
無我夢中だった。これ以上わたしから何かを奪わないで欲しかった。カタリとローファーに何かがぶつかって、視界の片隅に転がる石。



「え」



その瞬間だった。
海のように地面が大きく波打って、気がつけばふっと体が持ち上がっていた。遠く地平線の向こうが見える。それはわたしたちが完全に救いようもない火の海の中にいるのだということを知らしめる一方で、もう二度と見ることは叶わないだろう絶景に魅せられる自分もいて。

腕をぐいと引かれると、拒絶する間もなく目の前に広がる黒い布に顔を押しつけられる。焦げついた、汗のにおい。どくん、どくんと聞こえる鼓動はわたしのものではない。そうしてやっと、わたしはわたしではないもう一人の腕の中にいるのだと気がつく。

地面に足が着いたとき、雄叫びのような轟音が全てを飲み込んだ。肩口にわたしの後頭部を押さえつける腕の力が強くなる。わたしはそのまま彼に身を委ねていた。

次の瞬間には静寂が訪れていた。
わたしの頭を包み込む手がゆっくりと離れていく。わたしはそのまま彼の肩口に頭を埋めていた。
怖かった。ずっと怖かった。何に対する恐怖なのかも分からずに、差し伸べられる手を拒絶していた。死ぬことが怖いのではない。わたしはわたしの中にある恐怖心に飲まれて自分を見失うのがひどく怖かった。

森を焼き続ける炎が天高く聳え立つ。
それはまるで四方を取り囲む炎の壁だった。


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