わたしがぐずぐずしていたから、彼まで巻き込んでしまった。全部わたしの所為だ。先の彼はきっと、わたしを連れてここから逃げようとしていたのだと分かる。その気持ちを無碍に突き放したのはわたし。途端に自分が途方もない愚か者に思えて、ずず、と鼻を啜る。

もしかしたら彼は何かを知っているのかもしれない。わたしは彼が森から現れたときのことを思い出していた。顔を煤だらけにして、わたしのほうへ一直線に近づいてきた。わたしという存在に驚きつつも、こんな絶体絶命の窮地にありながら、彼が取り乱すことは一度もなかった。

わたしはゆっくりと頭をもたげた。横目で見やった男の子の顔はそっぽを向いていて、月色の髪からちらりとのぞく耳が赤いのに気がつく。最初に大胆な行動をしたのは彼の方なのにとわたしは首を傾げた。ありがとう、と一言呟くと、彼はそっぽを向いたままこくりと頷いた。



「何が起こってるの、かな…?」



最初こそ山火事を疑ったが、この現象が自然的なものでないことはもう自明の理だった。ちらりと再び見やれば、彼はすでに冷静さを取り戻していたようで、腕を組み何かを考え込んでいた。わたしは彼が次に動くのを黙って待っていた。



「……ツナマヨ」



あ、そうだった。この人の言葉は普通とは少し異なるのだった。
忘れていたことを悟ったのか、たじろぐわたしの横から、小さなため息が聞こえてきた。うっ、と少しだけ肩身が狭いような気分になる。ここにはわたしとあなたの2人しか居ないのに。

まずは呼び方を考えないといけないだろうか。どのようにコミュニケーションを取ろうか悩んでいれば、ふと地面に黒い霧のようなものが這っていることに気がつく。一体いつからあったのだろう。足下をまとわりつくような黒い霧は、円を描くようにゆっくりと回っていて。その流れる方を辿ってゆけば、そこは先ほどわたしがいた場所だった。一本だけ佇む木にまとわりつくようにめらめらと黒い炎が燃え盛る。



「え……?」



全てを焼き付くさんとしていた炎が一瞬にしてその色を黒く染めた。天地がひっくり返ったように、それはまるで世界の裏側を見ているようだった。辺りを充満していた熱気も今やすっと落ち着いていて影もない。ぱちぱちと瞬きをしても、何度目を擦ってもモノクロに反転した景色は変わらない。とすればわたしの目がおかしくなったのか。確か網膜には色素を感じ取る細胞があったはずで、それが突然異常をきたした……?

わたしの様子が突然おかしくなったので、彼が怪訝な目線をこちらに寄越してくる。自分でも唐突と思いながら、わたしの目は大丈夫かどうか問えば、彼は素直にもじいとわたしの目を覗き込んできて。彼の顔が急に近づいてきたことに自分で言っておきながら少しびっくりしてしまって咄嗟に視線を逸らせば当然の如く彼が着いてきて。このままでは拉致が開かないと意を決してぐっと彼と見つめ合う。

緊張したわたしが彼の深い色をした瞳に映っていた。その瞳に少しだけ紫色が混じっていることに気がつけば、逆に珍しくてまじまじとその色を見つめた。彼がぱちりと瞬きをすれば髪と同じ月色の睫毛が震えて綺麗で。と思えば、それはすいと遠のいていってしまった。

彼は自分の首を掻きながらこてんと頭を傾げると、不思議そうに「しゃけ」と頷いた。
そうして本来の目的を思い出す。そうだった。目の異常を確かめてもらったのだった。とはいえ、彼の瞳に紫が混じっていることが分かったということは、色の判別は可能ということだ。

その間にも黒い霧はわたし達の合間を縫って段々と中心に集まっていた。まるで溢れ出した水が逆流するように、森の奥から留まることなくあの木へ戻ってくる。不気味だった。何かの前触れとしか思えないのだけれど、それが何を示唆するのかなんてもうわたしには予測不可能だった。おそらくそれが分かる可能性があるのはここでただ一人、先ほどからじっと周囲を観察し続けるこの男の子だけである。

不意に彼はわたしの手を取る。すくい上げるようにそうっと掴まれて、彼は「こんぶ?」とわたしの顔色を窺うように首をかしげる。先ほどわたしがひどく触られることを拒絶していたので慎重になっているのかもしれない。わたしは大丈夫の意味を込めてこくりと頷いた。

彼の足取りに迷いはなかった。森の割れ目の最も大きいところへ向かって歩みを進めていた。おそらく炎を懸念してのことだろう。わたしにはもう黒い炎しか映っていないのだけど、彼は違うのだろうか。彼が先へ進み、わたしも原っぱと森の境目を跨いだその瞬間、ぶわりと熱気が襲いかかってくる。森の中は真っ赤に燃え上がっていた。炎の海だった。木漏れ日の差すあの美しい風景は見る影もなく、木々は黒い灰と化して炎に焼き尽くされてもなお消えない火の中に取り残されていた。先ほどの恐怖が再来して、堪らずわたしは彼の背中に縋りつく。

指先が小刻みに震え、足はもはやくっついているだけの張りぼてのようだった。この場所には居られないと本能が告げていた。それを伝えたいのに言葉が出てこなくて、わたしはただ震えるように首を横に振り続けた。彼は戸惑っていた。嫌々と泣き崩れるわたしを捨て置いても仕方がないと許されるような状況なのに、彼はそんなことはしなかった。自分が情けない。ひとりで歩くことさえままならないなんて。わたしは弱すぎる。



「ごめんなさい」



ごめんなさいと懇願するように謝罪が溢れて。いっそのこと見捨てて欲しかった。わたしなんて生きてる価値ない。こんな場所で息絶えても誰も気が付かない。ここにある木々のように灰になって消えるのだから。痕跡さえ残らずに。そのほうが楽だ。



「ツナ!」



ぱちっと火の粉が弾けて、それに触発されて顔を上げた先で、彼の濃い紫と焦点が合う。両肩を掴まれて、もう一度「ツナ」と呼ばれて、無理やり視線を合わせられる。彼の指が肩に食い込む。その痛みはわたしを現実に留まらせようとしているみたいだった。彼はわたしに生きろと言っているのだろうか。彼はまだここから二人で生還することを諦めていなかった。意志のこもった視線に貫かれて、わたしの思いが揺らぐ。

彼は立ち上がってわたしに両手を差し出した。わたしは恐る恐る彼の手を取って立とうとするけれど、腰が抜けたのか思うように力が入らない。「ごめん」「おかか」彼は即答すると、すぐにしゃがみ込んでわたしの腕を掴み自身の首へ回した。彼が前方へぐっとわたしの腕を引くとすいとわたしの体が持ち上がる。そのまま立ち上がると同時に膝裏に手が回されて、わたしは後ろへ倒れないように慌てて彼の背中に体重を預けた。この体勢はいわゆる。



「えっ、あの」
「おかか」



まだ何も言ってないのに首を左右に振られる。もう聞く耳を持たないつもりらしい。彼はゆっくりと一歩を踏み出した。高校生にもなっておんぶされる日が来ようとは、しかもおそらく同年代に。先ほどは恐怖で死にたくなっていたのに、今や恥ずかしさで死にたい。何だか落差が激しくて自分のことながら疲れてしまう。ただこの森が歩きやすくて良かったと、ここまで平坦な地形に感謝することはないだろう。



「……重くない?」
「おかか」



彼は首を横に振った。ちらりと彼の横顔を盗み見てみれば、暑さで汗の粒が滲んでいるけれど、前を向くその顔つきは涼やかものだった。歩くペースも落ちないし、本当にわたし一人を負ぶるくらい大したことないのかもしれない。そう思えば、確かに見た目よりもちゃんと筋肉の付いた体つきが感じられて、なんだかそわそわしてきた。歩く振動と一緒に月色の髪の毛が揺れて頬を撫でる。とくんとくんと鳴る鼓動が心地よかった。少し気分が良くなってきて、彼の肩口に顔を埋めてこっそりと「きつくなったら言ってね」と囁けば「すじこ」と前から返された。すじこってどういう意味だろう。



気が付くと、わたしは一本の木の根元に背中を預けて座りこんでいた。どうやら歩いている間に眠り込んでしまったらしい。きっと彼がわたしをここに置いていったに違いなかった。辺りは一面白い濃霧に覆われていた。白い霧は深く、霞んでいて少し先は全く見えなかった。

彼はどこに行ってしまったのだろう。もしかして、わたしを置いてひとりで危険な場所へ行ってしまったのではないだろうか。恐怖にも似た不安に襲われて、わたしの背筋は凍り付いた。



「  くん!!」



わたしは叫んだ。しかしその声は霧に吸い込まれて消えてゆく。彼はどこに行ってしまったのか。わたしはもう一度彼の名前を呼んだ。何度叫んでも、その声はこだまするばかりで一向に彼に届いている気配はない。わたしは地面にへたり込んだ。もう一度でいいから、彼の声が聴きたい。つな、と柔らかく響くその発音でわたしを呼んでほしい。胸が締め付けられるように苦しくて、ぎゅ、と胸元を握り締めてその場にうずくまる。



「お願い……」



私はうずくまる自分をその傍らで見下ろしていた。


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