わたしは心に少しのわだかまりを残していた。形も色もないもやもやとした霧のようなそれが自身の足かせになることも知らずに。
「……?」
どれくらい歩いただろう。もう森を抜けてもいいはずなのに、一向に出口に当たる部分は見えなくて、わたしは何か引っかかったような違和感を覚え始めていた。
やはりおかしい。小川の流れは常に一定だった。わたし達の進む方向へ、特に乱れることもなく静かに水は流れていた。わたしは川の対岸にある木々を見つめる。枝葉の形、ほぼ等間隔に植えられた木々の間、根元のつくり。あの木は野原へ南下するときの目印になるものだ。そして先ほど見たのは南西方向にあたる木。ということは。
わたしは慌てて前を行く彼のシャツを掴んだ。
気が付いた男の子が振り返って、こてんと首をかしげる。しかし足先は前を向いたままで、表情はどことなく険しい。ずっと背中しか見えていなかったのでわからなかったのだけれど、彼も内心少し焦っているようにみえた。
「少し変なの」
彼は頷いた。やはり彼もこの異常を感じとっていた。
もし、これを言えば奇妙に思われるかもしれない。けれど今の不可解な状況はわたしの手に余る。信じてもらえなくても、信じてもらうしかない。わたしは意を決して、彼に打ち明けることにした。彼の炎の灯を映した深紫の瞳が、わたしをじ、と捉える。早く、言わないと。わたしはごくりと喉を鳴らすと、あの木を見てと一本の燃える木を指差した。
「あの木をこの方向から見ればちょうど原っぱの木に重なるの。この森の樹木間隔は等間隔に見えて縦と横の長さが少しだけ違う。だから、本来この角度から見た時、木同士がぴったりと重なることはない」
しかし今、わたしがまっすぐに伸ばす腕の方向で、木々は寸分の狂いなく重なり合っている。もちろん遠近で遠くのほうの木は隠れて見えないし、今は炎が壁となっている部分もあるのだけれど、なぜか木々は黒焦げになった後もその原型は留められていた。枝の伸びる方向と数からしても、まずあり得ないことだった。
彼はまるで訳が分からないと言わんばかりに首を傾げ、怪訝な表情でわたしを見ていた。当たり前だ。わたしは小さな時から来ているから把握できているだけで、これは初めてここに足を踏み入れた人が納得できる理屈ではない。
「ごめんなさい。これ以上は説明のしようがなくて」
ただこれは別に重要ではない。わたし達はこの小川の下流へ、つまり山を下るつもりで沿って歩いてきた。本来水は上から下に流れるものだから。
「この川はあの場所を中心に円を描いてる」
わたし達がいるのはその外側だ。そしてはたと気が付く。わたしはこの小川がどこを流れているのか知らなかった。わたしにも知らないことがあるのだろうと無意識に目を瞑っていたけれど、だけどその他の地形はちゃんと把握できている。何より、この説が正しかったとすれば、あの場所に行くには必ずこの川を渡らなければならないことになる。そうすればわたしがこの川の存在を知らないことなんてあり得ない。自信が揺らぐ。自分の推測が間違っている可能性もあった。でも、記憶の中の祖父の教えと自然と湧き出てくる言葉と映像が、わたしを確信へと導く。
彼はわたしの言葉を聞いた瞬間、はっと何かを勘づいたようで、わたしの指差した方向をじいと見つめていた。その後、ちらりとわたしを見やると、視線を下げた。その先には今もそよそよと流れ続けている細い水の流れがある。エッシャーの滝は確かこんなふうに現実にはありえないことを描いたものだった。
川から離れるように進むのが良いとは思うが、先のことを踏まえるとあまり遠くへ行くことは躊躇われる。森のことはよく知っているからこそ、帰りの道しるべが分からなくなることは避けたい。ただ、考えたくはないけれど、おそらく今いるこの空間はわたしの見知った場所ではなくなっている。地形が歪められたか、似た別の空間なのか。
しばらくすると彼は考え込むように俯いていた顔を上げ、ゆっくりと視線をわたしに合わせた。彼のただわたしを視界に映しているようなその瞳が何を考えているのか分からなくて、戸惑いに首を傾げる。
「ごめん。困らせちゃった、かな」
「おかか。ツナマヨ」
彼は少し顔を伏せて首を左右に揺らした。また少し考えるように黙り込んだあと、彼は足先をこちらに向けると、静かに一歩を踏み出した。その様子が少し変であることはすぐに気がついたのだけれど、わたしは何もできなかった。わたしの目の前で立ち止まる。お互いの呼吸音が聞こえそうなほどの距離感。少しでも動けばわたしはまた彼に触れられる。しかし、わたしが動く前に、彼の少し乾燥した手のひらがわたしの頬に添えられて、そのまま彼の親指が目の下をするりと撫でる。触れそうで、触れない。そんな手つきに、じれったいような、はっきりしてほしいような、言いようのないもどかしさが募って。
責めるように見つめた彼の深い色に染まる瞳の奥に別の感情が潜む。あの時わたしに触れる直前で見せたのと同じ感情。それは今度、静かに彼の胸中を蝕んでいた。二度目にしてようやくわかった。これは、罪悪感だ。
「……すじこ」
彼は呟くと、まるで何事も無かったように、少しだけわたしと距離をとる。心の奥底で少しだけ感じた名残惜しさを表に出すことはせず、ぽたり、と感情を貯めておく皿にその分の雫を垂らした。彼は、まるで特別なことは何もない、いつもと変わらない日常が少し詰まらないみたいな、青春を経験した人間ならば誰でも持ち合わせている年相応の顔つきをしていた。でもどこか壁があるように感じるのは、わたしの自分勝手な欲望の所為だろうか。彼には踏み込んではいけない領域がある。それはこの短時間にずっと心のどこかで感じていたことだ。いつの間にか身体が強張っていたようで、肩の力が少しずつ抜けてゆく。キーンと頭の奥のほうで響く嫌な音には、気が付かないふりをした。
彼は、先ほどのわたしを真似するようにすうと腕を上げると、わたしが差したのとは反対の森の奥を指差す。円の中心から遠のくように指差されたその方向を見て、わたしは彼に視線を戻した。
「ツナ」
ぱちぱちと弾ける火の粉。それは止まることを知らず、上空から彼へ降り注いでいた。
彼の表情は真剣そのものだった。思えばずっとそうだった。わたしが拒絶したにも関わらず、真っすぐにわたしに向き合い続けてきたのは彼のほうだった。それは自由に言葉を操れない代わりのようでもあった。しかし、言葉に振り回されてその裏に隠された真意に絶望することなく、誰にも言えなかったわたしの薄暗い部分さえ真摯に受け止めてくれたのは彼が初めてだった。だからこそ、わたしは腹の奥底からこみ上げてくる怒りを堪えることができなかった。
「わたしを生かしておきながら、自分は死ぬつもりなの?!」
こんなはずではなかった。こんなの知らない。わたしはもっと従順で、周りの顔色を窺って、うまく立ち回らなければいけないはずだった。逆らってはいけない。わがままを言ってはいけない。言う通りにしておけば、誰もわたしを傷つけることはしない。
でもそれでは駄目だった。促されるまま、彼に背を向けたとして、その先に何があるというのだろう。一度道を違えれば、彼がわたしのもとへ帰ってくる保障はなくて、わたしも彼のもとへたどり着ける自信も覚悟もなかった。ただでさえ突飛なことの連続で、すでに心も体も限界を超えているのというのに。胸の奥から次々にあふれ出してくるこの気持ちは一体何なのだ。困惑して、冷静でいられない自分が耐えられなくて、わたしはその場に崩れ落ちた。
「お願い……」
わたしは何を望んでいるのだろう。地面に這いつくばって、物乞いのようにうずくまるしかできない。こんなことされても彼が混乱するだけだと誰かが言う。そんなこと分かっている。それでも必死に懇願していた。ただ前にも似たような感情に囚われたことがあるような気がして、その時はどんな結末を辿ったのかと糸を手繰り寄せても、まるでその部分だけ霞がかったように何も思い出せなかった。
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