笑い声がする。言葉の槍が至る所で降り注いでいた。それはぱちぱちと弾け飛んで、お互いに火花を散らしたり、逆に鎮火したりしていた。わたしはそれを何となしにみていたのだけれど、ふと気になって自分の胸元を見やれば、そこにはいつの間にか真っ黒の穴が開いていた。





自らの不幸に打ちひしがれる自分がいる一方で、冷静な自分がわたしを見下ろす。もしかしたら、彼が考えを変えて私と一緒に逃げてくれるかもしれない、という淡い期待は、あっけなく消え去っていった。耳の奥で、ぱたぱたと地面を蹴る音が遠のいていく。

薄情な人だ、と彼を罵る権利はわたしにはなかった。心のどこかでは、少しだけ、一ミリくらいは、彼がわたしの手をとってどこか知らない世界へわたしを連れて行ってくれるのではないか、とロマンチストみたいなことを考えなかったわけでなはい。しかし彼はわたしを置いて行ってしまった。取り残された後には空っぽの虚しさが残るだけで。こんな気分になるならば、最初から彼の言うことを聞いておけばよかった。いや、突き放しておけばよかった。わたしなんて所詮その程度の人間なのだ。

丸くなっていた体をゆっくりと元に戻す。そうして立ち上がれば、口元にある制服の留め具を、丁寧に外していった。彼の留めてくれたものを外してしまうのはもったいなかったけれど、致し方ない。肩に掛かる重量が無くなれば、途端に体は軽くなった。はあとため息をこぼす。返しそびれてしまった。ちくりと胸に針が刺さったような痛みを覚えた。もう会うこともないだろう。皴にならないように細心の注意を払いながら彼の黒い制服を畳むと、わたしはその場に置いた。

そして彼の反対方向へと一歩を踏み出す。
川を跨げば、途端に視界はモノクロの世界へと反転した。



彼は無事にふもとへ辿り着けただろうか。そんな心配をしても自らの罪は消えないことは分かっていた。意地悪なことをしてしまったことに関しては後ろめたい気持ちでいっぱいだった。けれどわたしだって黙ってはいられなかったのだ。そもそも目的を達成していないのに帰るわけにはいかない。もとより帰る場所なんてわたしにはどこにもない。彼と共に死ぬつもりは毛頭ない。でもそれはわたしひとりの限りではない。

あれでよかったのだと今なら思える。何もなくなってしまえば、もう失うことの恐怖に怯えることもない。森は段々と黒い炎の灯を小さくし始めていた。熱くも冷たくもないそれに近づいてみれば、燃やされたと思っていた木々はまるで命を引っこ抜かれたように枯れていた。さっきまで青々とその葉を茂らせていたのに。あの黒い炎の所為だろうか。少し動揺したけれど、我を無くすほどではなかった。異常事態に慣れ始めたのだろうか、それとも彼と離れたからだろうか。誰かと一緒にいるほうが、人はより人らしくいられるのかもしれない。

そして、やはりわたしは正しかった。いや、祖父の知識が正しかったというべきか。森を抜ければ、そこには先ほどと同じでありながら、全く異なる景色が広がっていた。渦を巻き続ける黒い靄は既に地面を覆い隠すほど濃く、その中心にはより一層不気味さを引き立てた竜巻のようなものが天高くそびえ立っていた。この世のものとは到底思えなかった。やっぱりわたしは世界の裏側に来てしまったのかもしれない。

嵐のように風が吹き荒れていた。わたしは誘われるようにその中心へと足を進めていた。コツ、と途中で足元に何かがぶつかったと思って拾い上げてみれば、それは木の根元にあった墓石だった。そうだ。あの時わたしの足が当たって、ここまで転がってきたのだろう。墓石といっても楕円形の石をぽんと置いただけの簡易的なもの。ミョウジ家のお墓は別にあるのだけれど、祖父はここに埋められた。たぶん祖父が希望したのだと思う。

わたしはそれを持って再び木の根元へ向かった。目の前に広がる景色は決して穏やかなものではなかったのに、何だかとても満ち足りた気分だった。何もかもどうでもよくなって、気持ちが安らいでいく。ここがわたしの居場所なのだとそう思わせてくれる不思議な感覚だった。

ふと月明かりに染まる彼の姿が脳裏を掠めた。心のどこかではわかっていた。この先へ進めば、自分はもう自分では無くなってしまうだろう。森の木のように枯れるだけでは飽き足らず、地獄よりも恐ろしい苦しみと悲しみに包まれて、いっそ死んだほうがましだと今度は殺してくれと誰かに懇願するときが来るのかもしれない。

でも彼が同じ目に遭うくらいならば、わたしがその役目を引き受ける。
気が付けば、光も抜けられないほどの暗闇がわたしを飲み込もうとしていた。





”動くな”





嗚呼、神様。あなたはことごとくわたしの意思に反することを引き起こす天才ですね。いや、神様に願っている時点で、きっとわたしはこうなることを望んでいた。どくんとひとたび振動すれば、わたしの身体は言葉通り動きを止めた。まさか初めて意味の理解できた言葉が、動くな、なんて。彼から頭に拳銃を突き付けられている気分だ。

わたしがそんなことを考えているなんて露知らず、未だ動けずにいる自分の腕が後ろ手にぐいと引かれると、わたしはその力に逆らえずにそのまま倒れこむ。鼻がぶつかって変な声が出た。力加減をもう少し考えてほしい。動くことも異を唱えることも許さないとばかりにぎゅうと締め付けられて。とんだわがままだ。でもそれはわたしが言えたことではなかった。誰かに分け与えられる体温がこんなに温かいものだなんて知らない。なんだか酷く虚しい気持ちに駆られて泣きたくなった。何だか前にも似たようなことがあった気がするのだけれど、意識がもうろうとしていて頭がうまく働かない。記憶を辿る扉はぱたりと閉ざされた。





ーー「ツナ!! ツナ!!」ーー
ーー「駄目だ。もう半分入り込んでる」ーー
ーー「おかか! すじこ!!」ーー
ーー「棘、ひとまず落ち着いて」ーー




誰だろう。彼じゃない声がする。

彼の言霊はまだ有効なのだろうか。身体が鉛のように重たくて、氷に覆われたみたいに寒かった。霞む視界は段々と光を失って、身体は深い深い海の底に沈んでいくようだった。口を開くと、ごぽり、と声の代わりに大きな泡が溢れて、それはわたしに遠ざかるように薄らと白く輝く水面へと昇っていく。わたしは咄嗟にそれに向かって手を伸ばした。





ーー「ナマエ」ーー





けれど、それは宙を虚しく彷徨うだけだった。
手を伸ばすべきではなかった。そうすれば、こんなに苦しい思いをすることもなかったのに。涙を流しているのかどうかすら分からない。心臓が抉り出されるような激痛が身体全体を襲う。もうどこがわたしの身体なのかすら分からなくなっていた。光もなく音も聞こえず叫ぶことも泣くこともできない。すべて、闇の中に消えてゆく。


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